79話 亡き父の計らい
陛下が私を呼び出していると知らせに来てくれたのは、他でもないカリス殿下だった。
「エミリア、父上がエミリアから直接話を聞きたいと言っている。それと……父上からも何か話があるらしい。一対一で話したいそうだ」
「陛下が私にお話……ですか? しかも、一対一で……」
一対一でということは、カリス殿下は同席しないということ。心細くないと言えば嘘になるが、それ以前に一対一という指定には違和感を覚えざるを得なかった。
「ああ、そうみたいだ。そのあいだ、エミリアの代わりに僕がジェラルドと一緒にいるようにする」
カリス殿下自身も、一瞬だが思案の表情を浮かべた。しかし、ジェリーを預かるということを先に告げると、殿下は柔らかい口調で続けた。
「大丈夫だよ、エミリア。父上にはエミリアの事情を説明してある。だから、安心してほしい」
私の緊張を解くかのように、木漏れ日のような穏やかな笑顔を向けるカリス殿下。あえてそんな風に笑いかけてくれたのであろう殿下のその表情を見て、彼の配慮が胸に染み入る。
「はい……。何から何までありがとうございます。ジェリーのこと、どうかよろしくお願いいたします」
「ああ、任せてくれ」
心得ている。そんな続きが聞こえてきそうなほど、彼は一度深く首を縦に振ると、そのまま視線をジェラルドへと向けた。
「ジェラルド、エミリアが戻るまで僕と過ごしてくれるか?」
「うんっ……ありがとう。カリス殿下」
感謝の言葉が当たり前のように出てくるジェリーに、ここ数年の成長が凝縮されているような気がして、胸がツキンと痛む。
――こんなに優しく育ったあなたと別れるのは寂しいわ……。
だけど、私は今からけじめをつけてくる。
マティアス様との離婚の承認を要求するのよ。
感傷の念を抱えながらも、目的だけは決してブレさせてはならない。そう気を引き締め、カリス殿下にジェリーを預けた私は、陛下直属の使用人の案内を受け、謁見の間の扉前へとやってきた。
「こちらです。どうぞお入りください」
その言葉を合図に、室内へと続く扉が開かれる。そして、一歩足を踏み入れ真っ直ぐに見つめた視線のその先に、陛下の姿を捉えた。
「よく来たな。こちらまで来ると良い」
陛下の言葉に従い、指定された場所まで足を進める。その途中、距離が近くなるほど強く感じる陛下の荘厳さに、思わず呑まれそうになる。
だが、陛下の前までやって来た私は毅然とした態度を意識し、陛下に挨拶をするため声をかけた。
「陛下、このたびは突然の謁見をお許し頂き、誠に有難う存じます。このような形で――」
「挨拶は不要だ。それより、カリスから聞いたが、夫人の口から改めて今日来た理由を端的に聞かせてほしい」
カリス殿下と同じベニトアイトのその瞳は、鋭く輝き私を射貫く。私はその視線を受け一度口を噤み、改めて口を開いた。
「僭越ながら、陛下にお願いがあって参りました」
私のその言葉に、陛下は続きを言えというようにしっかりとした頷きを返した。その粛々とした陛下の態度に呼応するように、私は背筋を正し、しっかりと目の前の陛下を見据え、例の願いを申し出た。
「私、エミリア・カレンと、夫であるマティアス・カレンの婚姻関係を終了させるため、陛下に離婚承認をお願いしたく参りました」
――ついに言ったわ……。
気分が乱高下し、複雑に感情が入り乱れる心を隠しながら、一切の動揺を見せぬ陛下を見つめる。すると、陛下がゆっくりとその口を開いた。
「カリスから詳しい事情は聞いている。が、夫人が離婚したいという思いを持っていると、直接確認したかったんだ」
そう告げると、陛下は近くにあった机の上の封筒をおもむろに手に取った。かと思えば、立ち上がり私の目の前まで歩いてくると、「これを見せるため、一対一で会ってくれと指示を出したんだ」と言いながら、陛下がその封筒を私へと差し出して来た。
――どうして私に……ってこの名前……!
陛下が差し出した、陛下宛ての手紙。その手紙の差出人には、私の父であるバージル・ブラッドリーの名が記されていた。
筆跡を見て、お父様の直筆に違いないと本能的に察せられる。
というのも、お父様は生前、病気になってからは手に上手く力が入らなくなり、今までのような字を書けなくなった。
お父様はそんな自分の字を、自身の衰弱を自覚させられるようで情けないと言い、ペンを持つことを厭うようになった。
そのため、次第にお父様は私に可能な限り代筆を任せるようになった。
その代筆を任せる直前に見た、最後のお父様の直筆の字が、まさに今差し出されている手紙の筆跡に似ているのだ。
同じではなく、似ていると思った理由。それは、字の崩れ方の特徴が一致しているものの、最後に見た直筆の字よりも、ずっと崩れた字でお父様の名が記されていたからだ。
――字を書くのが嫌という以前に、書きたくても書けないほど弱っていたのに……。
この手紙はいつ書いたものなのっ……?
思わず疑問や痛ましさ、切なさが心の中で錯綜する。そんな私に、陛下は言葉を続けた。
「夫人の父君から預かっていた。本当はこの手紙を君に渡す日がきてほしくは無かった。だが、君の父が最後に残した願いを読むといい」
陛下は震えながら差し出した私の手に、そう声をかけながら手紙を握らせた。
外に漏れ聞こえるのではと錯覚するほど、ドクンドクンと心臓の音が鳴り響く。そんな中、私は開いている封筒から手紙を抜き取り、そこに綴られたその手紙の内容に目を落とした。
【娘の婚姻成立証明書を書くと陛下から了承を得られたと、エルバートから聞きました。心から感謝申し上げます。
実はエルバートは教皇庁に事情を説明し、神父に誓約を頼もうと言ってくれました。しかし、私が陛下に頼むよう強行したのです。
私の娘、エミリアにとって、この結婚は本望ではないはずです。ですが、娘は死に行く私とブラッドリーのため婚姻を受け入れました。
ご存じでしょうが、エルバートは懐深い人柄もさることながら、この国随一の愛妻家でもあります。その信用と信頼のもと、娘をカレン家に嫁がせることにしました。
しかし、彼の息子のマティアス卿は、彼の息子であっても彼自身ではない。
陛下、貴方は三十年前に戦勝の褒賞として、私に一つ願いを聞く権利をお与えくださいましたね。その権利を今行使いたします。
娘のエミリアは忍耐の子です。甘い考えで離婚など言うはずもなく、離婚を願うとなれば余程の理由があるとしか考えられません。
そのため、娘がもしも婚姻関係を継続しかねる状態になった場合、どうか陛下の権限で婚姻関係解消の承認をしていただきたいのです。
聡明な陛下でしたら、私の意図がお判りでしょう。
死後の私は、娘に何かあっても助けてやれません。
この手紙が杞憂に過ぎなければ問題はありませんが、万が一があった場合、老い先短い私の最後のこの願い、どうかお聞き届けいただけると信じております】
文章からして、この手紙は結婚が決まってから書いたもの……。
――自身の名前を書くのすら辛そうにしていたお父様が、こんなにも長文の手紙を書いていたなんて。
しかも、私のためにっ……。
推測しながらならば、何とか読めるだろうという言うほどに崩れた筆跡。書き綴られたその言葉一文字一文字に、どれだけの時間をかけたのか。
そう考えるだけで、自然と目に込み上げるものがある。しかし、今私が居るのは陛下の御前。鼻がツンとした痛みと、喉がキュッと締まる感覚を代償に、何とか涙を零すことだけは堪えた。
「読み終わっただろうか?」
手紙を見つめ続ける私の頭上から、そんな声が降る。そのため、私は慌てて顔を上げ、その声の主である陛下に答えた。
「はい。最後まで読みました。まさか父が、陛下にこのような手紙を残していたなんて……」
考えてもみなかった。そう思いながら陛下に視線を戻すと、わずかに物寂しげな表情をしている陛下が口を開いた。
「バージル、彼は我が国を支える侯爵でもあるが、私の古くからの友でもある。だから、彼の性格は私もよく知っているつもりだ」
「っ……」
「バージル・ブラッドリー、あの男は合理性を重視しつつ、悲観的に計画を立てる人物だった。そして、何か問題が起これば悲観的に計画していた分、誰よりも建設的に素早く解決する人物でもあった」
昔を懐かしむような表情で、私から視線を外して遠くを見つめながら話す陛下。きっと、お父様のことを思い出しているのだろう。
「君の父は教皇庁ではなく、あえて私に婚姻成立の証明をさせた。その意図は、白い結婚でなくとも離婚できる逃げ道を残すためだろう」
「陛下による承認の場合、教皇庁の承認とは異なり、婚姻関係を解消しやすくなるということでしょうか?」
「無論、その通り。今回の件は私の承認と、辺境伯が婚姻解消に同意することにより、離婚が容易になるというわけだ」
そう告げると、陛下は突然難しそうに顔を歪めた。かと思えば目を細め、私の視線を鋭く捉えた後、重々しく口を開いた。
「だが、辺境伯の同意があったとて、簡単に婚姻解消を容認するわけにはいかぬ。私の承認を軽いものと思われては困るからだ」
「はい。仰る通りでございます」
陛下の発言を聞き、慌てて言葉を返す。すると、陛下はそんな私を見てフッと息を吐くと、言葉を続けた。
「公平さを期す為に、マティアス卿自身からも話を聞く。その場を、明日の公務後に設けよう。そして、双方の意見をまとめ離婚理由に足ると見做した場合、婚姻解消を命じよう」
「っ! 承知いたしました。ご多用のところ、このような機会を頂戴し、誠に有難う存じます」
本当は有難う以前に、申し訳なさでいっぱいだ。しかし、陛下はしつこく謝られるのを嫌う人だと伺ったことがある。
そのため、感謝の念を伝えたところ、陛下は何やら考え事をするように目線を動かし、再度口を開いた。
「マティアス卿は不敬の罪を犯したと聞いた。そのことについて確認する機会でもある。夫人の行いに欠点が無いのであれば、明日は堂々としていなさい」
そう告げると、陛下は「他に何か言い漏らしは無いか?」と訊ねてきたため、私は我に返り急いで陛下の問いに答えた。
「マティアス様の不敬が認められた場合、どうか弟君のイーサン卿とジェラルド卿が、その罪の巻き添えにならぬよう、ご配慮願えませんでしょうかっ……?」
――イーサン様とジェリーは私を助けてくれた人よ。
そんな人たちまで、連座で罪に問われる訳にはいかない。
陛下の裁量次第で、ジェリーやイーサン様の未来が暗くなるようなことだけは止めないと……!
スーッと身体が冷め行く感覚とともに、緊張のあまり拍動音が耳鳴りのように響く。陛下が顎に手を添え思案する姿を見ていると、まるで時間が止まったかのように遅く感じ始めた。
そのあたりで、陛下が重く閉ざしていた口を開き、私の申し出に答えた。
「うむ……考えておこう。カリスもそのように申していた。明日の話次第ではあるが、夫人のその想いは念頭に置いておこう」
「ありがとうございますっ……」
陛下の言葉を聞き、思わずほっと息をついた。
そんな私は、微弱の安心と明日への緊張を抱え、再び来賓室へと引き返した。
◆◆◆
「……どうやら話はきちんと出来たみたいだな」
部屋に入ると、私を出迎えてくれたカリス殿下が、一安心といった表情をして落ち着いた声で話しかけてきた。
「はい。殿下のおかげで陛下と――」
声掛けに応えようと話し始めた言葉は、最後まで言葉になることは無かった。殿下が私の口元に軽く左手をかざし、自身の口の前に右手の人差し指を立てたからだ。
――静かにしろ……ということよね。
そう悟り私が口を閉ざせば、すぐにそのカリス殿下の手は元の位置に戻った。そして、彼が視線を後部に向けると、そこにはソファで眠る二人の姿が見えた。
――っ!
ジェリーと……ジュリアス殿下!?
なぜここにジュリアス殿下が居るのかは分からないけれど、とにかく二人が眠っていたから、殿下は声を抑えて話しかけてきたのね。
ジェリー……あんなことがあった直後とはいえ、どれだけ肝が据わった子なの……。
カリス殿下の言動の理由を知り、私は驚きのあまり目を見開き、自身の口元を両の手で隠した。すると、そんな私を見てカリス殿下は思わずと言った様子で笑みを零した。
だが、その表情をすぐに真面目なものへと切り替え、ジェリーたちを起こさない程度の声量で話を続けた。
「ジェラルドが仮に起きてもジュリアスがいる。ちょっと部屋を移動して話そうか」
「はいっ……」
安心しきった表情でジュリアス殿下にもたれかかり眠るジェリーを見れば、ジュリアス殿下と二人きりでも大丈夫だろうと思えた。
そのため、私はカリス殿下とともに隣の部屋へと移動し、先程の陛下との話について説明をした。
「……大体の話は、僕が父上から聞いたことと同じみたいだな。だけど、エミリアの父君の手紙の話は知らなかったよ」
「私も知りませんでした。まさか、父があの身体で手紙を書くとも思っておりませんでしたから……」
陛下宛のため陛下に返したが、先程まで手に取っていた亡きお父様が残した手紙を思い出し、目頭にほんのりと熱が集まる。
「父君は、心からエミリアを大切に思っていた。そんな父君の君を守りたいという気持ちが報われるよう、明日は僕もサポートするよ」
「カリス殿下……ありがとうございます」
――他人の私にどうしてここまでしてくれるのかしら。
教皇庁を経ずに陛下が承認した結果、こんなことになってしまったから?
でも、もともと誰に対しても面倒見が良い人だから、きっとそう言うことなのよね……。
ここまで世話になって良いのだろうか。ついそう思ってしまうほどに協力的なカリス殿下に対し、感謝の念と軽い罪悪感を覚えてしまう。
だが、殿下は本気で何も気にしていないという様子で、言葉を返した。
「礼はいらない。言うならせめて、明日のことが解決してからだ」
そう言うと、殿下は首から下げたペンダントのチェーンを軽く握りしめた。それにより、ヘッドの部分のウォーターオパールが揺れながら反射し、眩い光を放った。
その光は、今は亡きお母様の微笑みのように思えた。
かつて私が手放したウォーターオパールのブローチ。それは、お母様と二人で宝石商の説明を聞いている時、私が一目惚れしたものだった。
普段何にも興味を示さなかった私が初めて興味を示したからと、お母様は私にそのブローチをプレゼントしてくれた。私はその当時モノの価値を理解していなかったが、後に知ったとき、購入を決めたお母様の考えには酷く驚かされた。
そんなちょっと特別な思い出が詰まったブローチ。それを彷彿とさせるウォーターオパールの煌めきは、私の心をそっと鼓舞してくれた。
そして、カリス殿下が続けた「大丈夫。きっと上手くいく」という言葉は、私に安心感を与えてくれた。
こうしてカリス殿下との話が終わり、私がジェリーたちの居る部屋に戻った頃には、ディナーの時間になっていた。
そのため、私は目覚めたジュリアス殿下に挨拶のお礼をし、ジェリーと二人でディナーを済ませ、今日は早く休むことにした。
ジェリーとの約束を果たすためだ。
◇◇◇
「リアとこうして過ごせて嬉しい。リア、お願い聞いてくれてありがとう」
「あなたと過ごす時間が大好きだから、ジェリーと一緒で私も嬉しいわ」
そう言葉を返せば、目に涙を浮かべながらも微笑み返すジェリーと目が合った。そして、どちらからともなく肩を寄せ合い、温かい布団に包まれた。
そんな私たちは、今日の出来事は記憶からあえて消し去ったように、ベッドの中では楽しい話ばかりをした。
ジェロームの話やクロードの話。イーサン様にまつわることや、ティナについての話。どれも明るい記憶にまつわる話ばかりだった。
そして、ジェリーが楽しそうに笑いながら寝落ちしたのを確認し、私もそっと目を閉じた。
――どう転ぼうと、明日、私の人生のすべてが大きく変わることになる。
そんな思いが思考を取り巻いている私は、緊張と不安を抱いていた。しかし、絶対に離婚を承認してもらう。その揺るがぬ強い決意をしっかりと胸に刻み、私も眠りについた。
次に目を覚ましたのはいつもの起床時間より早い時間だったが、既に朝を迎えていた。ベッドから抜け出し、窓辺に歩み寄る。そして、昇る朝日を見つめた。
「今日は私の決戦の日ね……」
そう独り言ちる声が、ジェリーの微かな寝息に紛れ部屋の中に小さく響いた。




