76話 見限り
「そんなつもりじゃ……。エミリアを殴るつもりなんてっ……きゅ、急に飛び出すから!」
わざとじゃない。そう主張するマティアス様は、非常に焦った様子で軽く手を伸ばしながら、私の方へと歩み寄ってきた。だが、カリス殿下がそれを制した。
「いい加減にしろ!」
普段のカリス殿下からは、とても想像出来ないほどの怒声が部屋中に響き渡った。彼の怒りが一線を越えたのだと、本能的に理解した。
そして、それを感じ取ったのはマティアス様も同様だったのだろう。カリス殿下を視界に捉えたまま、動揺した様子でその場に固まった。
すると、マティアス様が歩みを止めたと同時に、カリス殿下は彼から視線を逸らすことなく、ティナの居る方へと私の手を引いた。そのため、私は頬の微かな痛みと恐怖を感じながら、素直にティナの傍に移動した。
その直後、カリス殿下がマティアス様に詰め寄りながら言葉をぶつけた。
「自分の妻を何だと思ってるっ……。無機物だとでも思っているのか!? 誰のおかげでヴァンロージアが成り立っていると思っているんだ! エミリアが居たから、ここまでヴァンロージアが発展したんだろう!? そんな人に対してこんな――」
「俺だけじゃない! 昨日の奴らだって、皆同じことをしてるんだっ! それに、エミリアは勝手に嫁いできたんだ。それくらいの覚悟はあるはずっ……。そもそも、部外者には関係ないだろ!」
そう言うと、マティアス様もカリス殿下の方へと足を進め、迎え撃つようにカリス殿下をギロリと睨みつけた。
途端に、一層緊迫した空気が流れる。するとその空気の中、殿下は度し難いというように眉を顰め、怯むことなくマティアス様に言葉を返した。
「まさか、昨日の話を鵜呑みにして心を殺そうとでも? 何故そこまで非道になれる? 自身がいかに非人道的なことをしているのか、分かってないのか?」
そう言われると、マティアス様は怒りを滾らせた様子でグッと口を結んだ。
一方私は、カリス殿下のある言葉が引っ掛かっていた。
昨日の話というと、貴族男性たちで集まっていた時の話のことだろう。そして、そういった場で話された「心を殺す」という言葉。
――それってまさか、昔アイザックお兄様が言われたと言っていた話と同じかしら……?
それは、お兄様が二十歳の誕生日を迎えた五年前のことだった。
招待されたパーティーに行っていたお兄様が、珍しく気分を害した様子で帰って来たのだ。
パーティーが大好きなアイザックお兄様が、こうして機嫌が悪いのは初めてのことだった。
いつもは機嫌が良いアイザックお兄様だからこそ、心配にもなる。そのため、私は次の日も気分が優れなそうなお兄様に声をかけた。
「お兄様、元気なさそうだけど大丈夫?」
「ああ、エミリアか……。俺は元気だけど――」
「昨日何かあったんじゃない? 私で良ければ聞くわよ?」
そう声をかけると、お兄様は作り笑顔を少し曇らせ、私の手を引いて庭園のトピアリーへと連れて行った。そして、誰も周りに居ないことを確かめるとそこに力なく座り込み、私に気分が優れない理由を打ち明けた。
聞いてみればその内容は、女性を自身の意のままに操る方法として、心を殺せと教えられたということだった。男性貴族たちだけで集まった時に、男なら知っておくべきだと、そのような話をされたらしい。
だが、お兄様はとてもそんなことは出来ないと、怒って帰って来たらしい。
お兄様が怒ったところなんて、今まで一度も見たことが無い。だからこそ、内心とても驚いたが、それであんなに機嫌が悪かったのかと妙に納得した。
またそれと同時に、お兄様がそういったことに怒れる人だったんだと、ひっそり安心感を覚えた。
「気のいい奴らだと思ってたのに、あんな低俗な人間だったとは……。エミリア! 絶対にそんな男には引っかかるなよ! ああ、ビオラなんてもっと心配だっ……! こっちは、大切に大切に宝物のように育ててるのにっ……」
そんなかつてのお兄様の言葉が、脳内でフラッシュバックする。そして、そのままマティアス様を見やると、あのお兄様でも……という思いとともに、情けなさが込み上げてきた。
つい一昨日、私に跪いてまで謝った彼は何だったのだろうか。
『本当に情けないが、その手紙を読んで、君が領地にどれだけ尽くしてくれたか、そして、君という人を粗雑に扱った俺がどれだけ愚かだったかを理解した。……本当にすまなかったっ』
脳裏に過ぎる彼の言葉はすべて嘘。あれはお義父様の前で見せるための、パフォーマンスだったのだと、改めて痛感した。
『これからは行動でエミリアに誠意を伝えよう。俺も領民にとって良い領主夫妻である暮らしが出来るよう、行動を改める。……っ今までずっとすまなかった』
あの言葉も嘘。この言葉も嘘。すべて並べ立てた見せかけの言葉ばかり。口ではいくら取り繕えても、心を入れ替えたなんて嘘だった。行動を改めるというのも一瞬の話だった。
――あなたの言葉はもう何も信じられないわ。
もうこの考えが揺らぐことは一分たりとも有り得ない。そう思ったとき、マティアス様が聞こえるか聞こえないかの掠れ声で、ぼそりと独り言ちた。
「俺の妻がエミリアじゃなくミアだったら、こんなことにはっ……」
まだ言うのか。そんな言葉がつい口を衝いて出そうになった。だが、その前にカリス殿下の方が口を開いた。
「その発言で、エミリアが傷付くとは考えないのか?」
そう問われると、マティアス様は私を一瞥した。そして目が合うなり、悔しそうに口を結び直すと、険しい表情のままカリス殿下に視線を戻した。
すると、そんなマティアス様にカリス殿下が言葉を続けた。
「罪なき本妻には謂れもせぬ罪を着せ、自身は毒婦を愛している。そんな卿の考えは、ひたすらに自分本位な二重規範だ」
「黙れっ……」
「黙れだと? 青二才の三男だと馬鹿にしているようだが、私は曲がりなりにも王子だ。一方そなたは辺境伯候補なだけの、倫理観を持ち合わせぬ令息。そう理解しての発言か?」
「っ……!」
「誰か一人の犠牲で成り立つものなど、砂上の楼閣も同然だ。はっきりと言おう。マティアス卿、あなたは領主に不適格だ。それに、犠牲を自覚してなおエミリアを助けるどころか傷付けるあなたに、エミリアの夫を名乗る資格はない!」
そう告げられた途端、マティアス様の表情からは怒りが消えた。そして、意気消沈といった様子で茫然と立ち尽くし、焦点もどこに合っているのか分からない様子になった。
すると、その隙にとばかりに、カリス殿下が私の元へと歩み寄ってきた。
「エミリア、行こう」
そう告げると、カリス殿下は私の視界にマティアス様が入らないように背中に軽く手を添え、入口へと誘導しようとした。
だがその瞬間、カリス殿下が立っている左側とは反対の右側の手を、誰かに握られる感触がした。
「待て! エミリア!」
そんな言葉が聞こえ、私は扉へと進めていた足を止めた。すると、右手を握る力をほんの少し強めたマティアス様が、更に言葉をかけてきた。
「本当に不倫していないのか……?」
その発言を聞き、頭にカッと血が上る感覚がした。
――何度も否定したのに、この状況でまだそんなことを聞いてくるの!?
そんな怒りが込み上げるが、彼に割く労力すべてが無駄でしかない。そのため、私は最低限の言葉だけを返すことにした。
「そう言っているでしょう。放してくだ――」
「行ったら離婚しかないぞ!? 本当に不倫じゃないなら、お前は困――」
この状況でも自身が優位に立とうと、私を脅すような発言をしている。
そうと気付いた瞬間、私は話している途中など気にせず、私の手を掴むマティアス様の手を思い切り振り払った。そして、そのまま現実を彼に突き付けた。
「結構です。言われるまでもありません」
そう告げ、彼の方へ向き直り、ポカーンと呆けた顔をした彼に言葉を続けた。
「私たち離婚しましょう」
「はっ……?」
私の告げた言葉が理解できないという様子で、マティアス様が声を漏らした。私だって、今日の今日までこんな発言を自分がするなんて思ってもみなかった。
――でも、カリス殿下が言ってくれたもの。
私自身の力を信じるのよ……。
離婚したって、どうにかしてみせる。
「私の人生にあなたはいりません。ヴァンロージアが大好きだからこそ、あなたが変わるなら婚姻関係を継続しようかとも考えていましたが、もう限界です」
はっきりと伝えると、マティアス様はそれでも理解が出来ないというような顔をしていた。そのため、私はマティアス様に言葉を重ねた。
「あなたが苦しい思いを抱えているのなら、それを分かち合いたいと思っていたし、互いの背景を知ってきちんと対話したかった。でもあなたは、私と気持ちを分かち合おうとするどころか、対話すらしてくれなかった」
そう告げると、何か物言いたげにマティアス様が眉間に皺を寄せた。だが、私は彼に喋る隙を与えまいと、更に言葉を続けた。
「歩み寄ってくれたかと思えば、より深いところまで私を突き落とす。謝ってくれたことで期待した過去の自分が、今になっては心底間抜けに思えます。もう見せかけの反省は結構です」
「見せかけなんかじゃっ……! 俺の方こそ歩み寄ったのに裏切られ――」
見せかけじゃないという上、被害者のような発言をする彼に嫌気が差す。そのため、私は彼の発言を遮り言葉を返した。
「御自身の言動を客観的に振り返ってみてください。あなたの謝ったかと思えば偉ぶり怒り出す異常気象のような態度に、私はもう付き合えません。いい加減うんざりです」
「そんなっ……」
「今から、国王様に離婚許可をいただくため直談判しに行きます」
「何を言ってる。エミリアっ、ちょっと待っ――」
これからの計画を告げると、マティアス様はなぜか焦りを見せ始めた。だが、私が聞く耳を持たないと悟ると、次第に悄然とした様子になった。
そのため、私はそんなマティアス様を視界から外し、カリス殿下に声をかけた。
「カリス殿下、お手数をお掛けいたしますが陛下と内謁できるよう、御取り計らいをお願いできますか?」
そう訊ねると、カリス殿下は「もちろんだ」と言って快諾してくれた。まさにそのとき、黙りこくっていたマティアス様が発した「おい……」という声が耳に届いた。
嫌な予感が脳裏を過ぎり、視線をマティアス様に戻す。
すると、憤怒の形相をしたマティアス様が、「勝手に話を進めるな。エミリアは俺の嫁だ……!」と叫び、あろうことかカリス殿下に殴りかかった。
その光景を見た瞬間、最悪のシナリオが脳内で生成され、凍り付くような寒さが全身を襲う。
――駄目よ!
あんな拳が当たったらっ……!
拳自体はスローモーションのように見えるのに、止めようと必死に伸ばした自身の手もスローモーションみたいになり、思うように動いてくれない。
――お願いっ……。
「やめてっ……!」
止めるにはもう間に合わない。そう思い咄嗟に叫んだと同時に、パシンと乾いた音が部屋に響いた。
……カリス殿下がマティアス様の拳を間一髪、掌で受け止めた音だった。
するとすかさず、受け止めた拳を振り払いながら「当たっていたら極刑も免れないぞ」とカリス殿下が鬼神のごとき形相でマティアス様に言葉を放った。
その後も、カリス殿下は何か言葉を続けようとしていた。だが、私はそんなカリス殿下を手で制した。
――自分の行動が、周りをどれだけ巻き込むのかさえ考えないなんてっ……。
それに、何度言っても直してくれない。
絶対に嫌だったけれど、あなたにはこうするしかないのね。
気持ちを固め、マティアス様に歩み寄る。
そして、私はありったけの力を込め、マティアス様の頬に渾身の平手打ちを食らわせた。




