75話 聖女の本性
私の怒り、そして告げられた名が、彼にとってはあまりに予想外だったのだろう。目の前に対峙したマティアス様は、虚を衝かれたようにひゅっと息を呑んだ。
しかし、その後すぐ独り言ちるように言葉を吐き捨てた。
「っなぜ知って……イーサンか。お前がミアの名前を出すな」
「いえ、出します。人に謂れのない不倫の因縁をつけているんです。だったら、出さないわけにはいかないでしょう?」
「お前っ……」
「あなたは、あんな濫りがわしいふしだらな女性を愛する人。それなのに、不倫すらしていない私を、これほどまでに責め立てるなんておかしいとは思いませんか?」
「いい加減にしろっ……!」
そう発すると、マティアス様が勢いよく右手を振り上げた。
その手の行方はきっと……。そんな予想が脳内を過ぎり、不安が一気に膨らむ。
そのため、防衛本能が働いた私は思わず、自身の顔を庇うように手を挙げ、顔を背けてギュッと目を瞑った。
……が、しばらくしても痛みや衝撃はやって来なかった。
――殴ろうとしたわけじゃ……ないの?
恐る恐る目を開いてみる。すると、そこには目を血走らせ荒い呼吸をしながら、手を振り上げたままこちらを凝視しているマティアス様がいた。
ギロリと睨む彼と目が合い、思わず身震いしそうになる。
だが、彼は私と目が合ってすぐに「クソっ……!」と叫び、振り上げたその手を力のまま思い切り振り下した。その刹那、鬼のごとき怒りの形相で、私に向かって怒りをぶつけた。
「今すぐ訂正しろ! あの女は聖女の権化と言っても良いほど、清廉な女性だ! お前の信じたい妄想で、俺の大切な女を穢すな!」
ぶつけられた怒りから、マティアス様のミア・オルティスに対する愛の重みを感じる。そして、その重みは私に怒りや痛み、空虚さを覚えさせるには十分だった。
結局、彼にとって記憶の中の彼女だけが大切な存在であり絶対的正義。周りがどれだけ何を言おうと、彼にとっては神聖化されたミア・オルティスが真実。そのことを酷く痛感した。
だが、言われっぱなしという訳にはいかない。その決意は曲がらなかったため、恐怖心は怒りで打ち消し、私は話すことを辞めなかった。
「穢したいが故の妄想ではなく事実です。あなたは社交の場に行く年齢では無かった上、すぐに戦地に行ったから知らなかったかもしれません。ですが、王都の貴族女性やゴシップ好きの方々の間で、彼女を知らない人はいません。……彼女は、配偶者がいる貴族男性と不倫の限りを尽くした女性ですよ」
「はっ……?」
声を漏らし、マティアス様が目を見開いて絶句した。しかし直後、怒りなのかショックなのか……彼はわなわなとさせた唇から震える声を発した。
「ミアが……まさかっ……。あ、あんな可憐で、っ清純な人がそんなわけない……。デタラメを言うな! ミアはお前みたいに陰湿な女じゃない!!!!!!」
事実を受け入れられないのか、案の定、怒鳴るように言葉をぶつけるマティアス様。その姿を見て思わず、情けなさと傷心が心を襲った。
ただ、それと同時により一層強い怒りも込み上げてきた。
――あれだけのことをした女性のことは信じて、私たちの言葉をたった一つも信じようともしてくれない。
それなら、彼の女神となっているミア・オルティスの幻想を、完膚なきまでに打ち砕くのよ。
そんな怒りを胸に、私は彼にはっきりと告げた。
「私の言うことは、何も信じないんでしょう。それなら、皆に聴いて回りなさい……!」
その言葉一つで、マティアス様の表情から怒りが抜け落ちた。そして、私はそんなマティアス様に言葉を続けた。
「ミア・オルティス。彼女は、夫人たちの仕返しに合って、皆に罪悪感を抱かせるために、彼女らの目の前で自殺したほどの人です。きっと、あなたの思う典型的な王都の貴族たちは、そのことについて面白そうに何でも話してくれますよ」
そう告げると、マティアス様は「嘘だ!」と言い、怒りの形相を取り戻して私の発言に反論を始めた。しかし、そんなマティアス様に、すかさず横からカリス殿下が声をかけた。
「嘘じゃない、マティアス卿。私の伯母上も、その被害者です。婚家であるヘインズ家門ではなく、彼女がオルティス家門の墓に入っている理由をご存じですか?」
「っ……」
「夫の家にも見放され、婚家の墓に入れてもらえなかったからですよ」
「まさかっ……! エドはそんなこと一言もっ……」
カリス殿下から発された情報を知らなかったのだろう。マティアス様は酷く混乱した様子で、エドワード卿の名を出した。
すると、その名を聞いたカリス殿下は間髪入れず、呆れた様子でマティアス様に言葉を返した。
「エドとは……エドワード・オルティスのことでしょうか? あの方は、愚行を犯した姉の無実を本気で信じている、ただの阿呆者だと言われている人間ですよ?」
「なにをっ……!」
「オルティス家にも諦められている。そんな彼の口から説明が無いのも無理はないです」
「っ……! あいつのことを何も知らない部外者は、黙っていてください!」
マティアス様がそう告げた途端、カリス殿下の表情からは呆れの表情が消えた。かと思えば、殿下は真顔でマティアス様に歩み寄ると、怒りを滲ませた低い声を発した。
「黙れるものか。何度も否定をしているのに、不倫を疑われているんだ。そもそも、その証明手段が一糸纏わぬ姿で領地一周だと? 短絡的で酷すぎる。それが仮にも妻に対する対応か?」
そう訊ねた直後のカリス殿下の横顔を見ると、理解しがたいというような苦悶の表情が窺えた。だが、そんなカリス殿下の表情など気にする様子もなく、マティアス様は被害者のように反論を始めた。
「俺はどれだけ足掻こうが希おうが、一生愛する人と一緒になれない。だったら、エミリアだけが不倫で幸せになることに、それくらい要求したって良いでしょう!? 理由は違えど、前例だってあるんだ!」
「確かに有名な話だが、それは史実ではない。史実であっても、実行するなんて愚かだ。それに、ミア・オルティスの旦那が不倫した彼女にそう命じたら、あなたはきっと許さないはずだ」
マティアス様の発言に対し、カリス殿下はきっぱりとそう断言した。
すると、マティアス様は衝撃を受けたというように固まった。そして、口を閉ざし逡巡したような様子を見せた後、おもむろに言葉を返した。
「……先ほどの条件に関する発言は取り消しましょう」
シレっとした様子で、すっぱりと諦めたように言うものだから、私は思わず自身の耳を疑った。だが、カリス殿下の見開いた目を見る限り、きっと聞き間違いではない。
なんて思っていると、マティアス様が私に向き直った。何を考えているのか分からない彼の表情を見て、緊張が高まる。まさにそのときだ。
「ただ気になるんだ……」と声を漏らし、マティアス様が私との距離を一気に詰めた。
――どうして私の方に……?
気になるって何が?
不信を感じながらも、負けじと目の前までやって来た彼の目を見返す。すると、視線が交わった途端、マティアス様は怒りを孕ませた表情で口を開いた。
「さっき白い結婚や離婚と聞こえたのは……どうしてだろうな?」
「っ……!」
その言葉に心臓がドクンと跳ね、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。すると、マティアス様はそんな私から視線を外し、カリス殿下を一瞥した。
だが、再び私に視線を戻すと、冷笑的な笑みを私に向け、信じられないことを告げた。
「ああ、そういうことだったか。なら、今からエミリアを抱けば良いだけの話だな。不倫していないのなら問題ないよな、エミリア?」
――そういうことって、どういうことよ!?
何でそんな突飛な発想になるの……。
でもとにかく、白い結婚と離婚という言葉が聞こえたから、こんなにも不倫を疑っていたのねっ……。
そんなことを考えていると、マティアス様が私の腕を掴もうと強引に手を伸ばしてきた。
だが、その手が私に触れることは無かった。カリス殿下が、私に触れようとしたマティアス様の手を払い除けたからだ。
そして、殿下は流れるように私とマティアス様の間に割って入り、マティアス様との距離を取るためか、私を殿下の背後へと移動させた。
すると、そのカリス殿下の行動がマティアス様の堪忍袋の緒を切ったのだろう。マティアス様がカリス殿下に怒りの焦点を向けたのが分かった。
……今まで以上に嫌な予感がする。そう思った矢先だった。
「邪魔するな!」
そう言って、マティアス様がカリス殿下に怒鳴りつけたかと思えば、あろうことかそのまま殿下に殴りかかろうとした。
――ダメ!
当たったらとんでもないことに……!
そう思ったとき、私の身体は勝手に動き出していた。そして、マティアス様の拳から庇うように、カリス殿下の前に飛び出した。
その瞬間「危ないっ!」という声とともに、後ろから腹部に腕を回され、カリス殿下の懐へと思い切り引き寄せられた。
その直後、頬にピシャンと痛みの衝撃が走った。
マティアス様の拳が、引き寄せられて靡いた私の髪の毛に叩き込まれ、その衝撃で自身の髪が私の頬に当たった衝撃だった。
――髪の毛に当たっただけで、この痛み……。
マティアス様は過酷な鍛錬や戦場に耐え抜いた戦士よ。
そんな人の拳が、誰かに当たっていたらっ……。
そのことを想像しただけで、ゾッとするほどの恐怖が全身を襲い、ハッと殴り掛かった張本人に目を向けた。
するとそこには、この場の誰よりも衝撃を受けた様子で、驚き動揺したマティアス様がいた。
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