アナスタシウスの物語 (3)
良く晴れた朝、ルティは皇太后ドロテアが暮らす新しい尼僧院に到着した。
前の尼僧院よりは閉塞的な雰囲気があって、門の前に立っただけでも重苦しい空気が伝わってくる。
小さくも白く美しい花が植えられていたラヴェンデル尼僧院とは異なり、ここは花はほとんどない……皇太后のような訳ありの女性たちが集まる場所。
少なくとも、ルティを楽しい気分にさせてくれるような場所ではなさそうだ。
「ローゼンハイム帝の遣いの者です。すでに先触れの手紙をお送りしていましたが、これをドロテア様に」
門から顔を出す院長に、グライスナー参謀が丁寧に挨拶する。
皇帝の紋章でもある薔薇の刻印が入った手紙を差し出し、それを受け取った院長は顔を引っ込めてしまった。
以前、ルティがミーナやエディと一緒に世話になった尼僧院の院長と違って、彼女からはあたたかい雰囲気は感じられず、冷え冷えとした空気が流れるばかり。
「あの手紙って?」
院長が戻ってくるのを待つ間、クルトが参謀に尋ねた。
「陛下からの恩赦の手紙だ。面会に応じるのならば、ラヴェンデル尼僧院へ帰すと」
「いいのか?ちょっとインタビュー取るだけなのに……有意義な証言をしてくれるかどうかも分からないのにさ」
「もともと、別件でラヴェンデル尼僧院へ帰す予定だった。インタビューは丁度良い口実だっただけだ」
院長が戻って来たので、話はそこで打ち切られた。
警戒する様子の院長に、この子たちを、と参謀はルティとクルトを指す。
「私はここで待ちます。尼僧院内に立ち入るのは子どもたちだけ――護衛は同行させます。それは譲れません」
参謀は、ちらりとルティとクルトを見た。
クルトの肩には人形サイズになったシャンフ、ルティの腕には小型犬サイズになったペルがいる。院長はそれらをうさんくさそうに見たが、反対はしなかった。
建物としては綺麗だが、中はさらに重苦しい雰囲気だった。
クルトと二人で緊張しながら奥へと進み、明るい中庭でルティは彼女と再会することになった。
ユーリの生母にして先の皇后――皇太后ドロテア。
貞淑さを象徴する尼僧の衣服は、周囲への拒絶と過去に囚われた彼女の内面をよくあらわしているようで、彼女と向き合い、ルティは口を開くこともできなかった。
ドロテアのそばには、彼女の化神がいる。
ヒスイと同じ系統の民族衣装を着た、真っ白な少女。陶器でできた人形のような冷たさがあり、彼女もまた、ドロテア以外のすべてを拒んでいるようであった。
皇太后は無言で石造りのベンチらしきものを指し、ルティとクルトは互いを見合った後、沈黙したまま座った。対面にドロテアが座り、彼女の化神は宿主に寄り添う。
ルティもクルトもベンチの上で身を固くし、黙り込んでいた。皇太后も何も言わず、そこそこ長い時間、三人の間には重苦しい沈黙が続いた。
話をしなくては……ということは分かっているのだが、声を出そうとしても喉を重く冷たい何かが塞いでいて、唇も、縫い合わせてしまったかのようにぴったりくっついていた。
クルトも似たような状態なのだろう。時々、何かをうかがうようにルティをちらちら見てくる。
……さすがに、皇太后ほどの相手になると気楽に話しかけることができなかった。
「久しぶりだな。オレのこと、覚えてる?」
気まずい沈黙を破ったのは、クルトの肩に乗っているシャンフだった。
ルティもクルトもシャンフを見た。皇太后と彼女の化神も、視線をシャンフに向けた。
「……覚えているわ。紅蓮の紋章――そう。その子の父親は、エルメンライヒ侯だったのね」
「マティアスを知ってるの?」
意外な話題に思わず飛びついてしまったが、皇太后の視線が自分に向けられた時、ちょっぴり後悔した。
彼女の目に正面から見つめられ、身を縮こませてしまう。
「紅蓮の紋章は、もともと王国が所有していたものだった。それをあの男に渡し、エルメンライヒ家の人間に宿したのは私……」
なんてことのない話のはずなのに、皇太后の声は暗い。クルトの肩に乗っているシャンフも、なんだか怖い空気だ。
「そしてエルメンライヒ候の家族を焼き殺させたのも私。私が紋章を宿したことで、適性のなかった彼の家族は全員命を落とした」
「そんなこと、いまこの場で話す必要もないだろ」
反論するシャンフは、とてもピリピリしている。
マティアスの家族が、紋章に強い興味を抱いていたユリウス二世の研究の末に犠牲になったことは、以前ルティも聞いていた。楽しい話ではなさそうなので、詮索せずにいたけれど。
ユーリの父親だけでなく、母親のほうもそれに関わっていたなんて……。
「結局、彼は復讐を選んだのね。それも、憎しみを向けた相手は私ですらなく……こんな方法だなんて」
「恨みや憎しみじゃねーよ。マティアスはユーリのこともルティのことも愛してるし、復讐なんか考えてない。アンタらがそういうことばっか考えてるからって、マティアスも同類だと思うなよな」
どんどん険悪な方向へ進んでいるような気がして、ルティはおろおろとしていた。
「落ち着けよ、シャンフ。俺たち、先に聞いておくべきことがあるし、その話題はもう止めようぜ」
ついにクルトが仲裁に入り、皇太后とシャンフの睨み合いが止まった。ドロテアはクルトを見ていなかったが、クルトは構わず、彼女に話しかける。
二人の言い合いを見て、クルトは逆に冷静になったらしい。
「俺、赤烏新聞社のクルトって言います。今日は陛下にお話を伺いたくて、殿下に同行させてもらいました。ラグランジュの聖女の話って、聞いたことありますか?最近、帝国でも話題になっているんですが」
精一杯の敬語で、クルトが尋ねる。皇太后は返事をしなかったが、それが彼女の答えだ、とクルトは考えたようだ。
「ユリウス二世の落胤を称していて……それについてはなんとも胡散臭い話ですが、問題は、彼女も化神持ちの紋章使いらしい上に、エンデニル教団は彼女を利用してユリウス陛下の評判を貶めようとしてます。皇太后陛下から、この件について証言がほしいんです」
「あの男のことは、世間一般で広く知られているようなことしか知らない」
皇太后は、冷たい声で言った。クルトは怯むことなく、話しを続ける。
「では、陛下がお生みになられた御子について、お話しくださいませんか」
冷え冷えとしたものではあったが、それでも、皇太后は初めてまともにクルトを見ているようだった。しばらく二人で見つめ合った後、ため息を吐き、皇太后が口を開く。
「……私が生んだのは、女の子一人だけ。ユリアーナと名付け、大紋章を宿したい夫の意向で彼に差し出しました。その後のことは、詳しくは知りません」
「ユリアーナ?それが、お母様の本当の名前なの?」
また思い付きで口を挟んでしまったが、今度は皇太后に視線を向けられても目を逸らさず、彼女を正面から見つめ返した。
クルトがちゃんと彼女と向き合っているのに、自分がおろおろしてばかりなのは恥ずかしいから。自分を見る彼女の目にドキドキしながらも逃げなかった。
「あなたの母親の名は、ユリウスでしょう。ローゼンハイムの皇帝」
「おばあさまは、お母様のことが憎い?憎い男の人の子だから」
言ってから、これは好奇心で聞いていいことではなかったな、とルティも後悔した。でも、一度口から出てしまった言葉は取り消せない。
聞いてみたかったというのも事実で、結局、この質問をぶつけてみたくて彼女に会いに来たという気持ちは誤魔化せない。
瞳が揺らぎそうになるが、懸命にルティは自分を見る皇太后から目を逸らさなかった。
「憎しみを抱くほどの関係が、私には存在しない。あの男に差し出した時、娘は失ったと思っていたわ。彼女は生き残ることができたけれど……物心もつかない赤子に大紋章を宿せばどうなるか、知らないわけではないもの」
紋章の力が制御できなければ、宿した人間は命を落としてしまう。まともに自我も持たない赤子にそんなものを与えたら……。
皇太后が我が子の生存を諦めた理由は分かる。我が子を差し出すことになった理由も、なんとなく。だから、それ自体は他人が責めていいことじゃないだろうけれど。
「お母様は、ずっと一人で頑張ってたわ」
父親の死後、母とも別れて一人で辺境地で暮らし続けた。幼くて、親が恋しくて堪らない年齢の頃から、ずっと。母がどんな思いで十年以上の月日をあそこで過ごしていたのか。
きっと、ルティには分からない。自分は当たり前のように母親から愛され、抱きしめてもらっていたから。
ユーリは、求めても抱きしめてくれる腕を得ることはできなかった……。
「皇太后陛下……俺は、あなたに説教できるほど偉い人間じゃないけど、でも、あなたは自惚れ過ぎだと思う」
皇太后の返事を聞いて落ち込むルティに代わり、クルトが言った。
「あなたが思ってるほど、あなたは、世間に影響を与える人間じゃない。ユリウス陛下も、あなたが思ってるほど、あなたの影響を受けてない」
皇太后はクルトを見なかったが、彼の言葉はちゃんと聞いている。それはルティにも分かった。
「怖いんでしょう。自分が見殺しにした子が幸せにしていて……あなたを恨んではいないと言われるのが。我が子を見殺しにした後ろめたさから、あなたはずっと、許されたくないと思ってきた」
他の誰も何も言えず、クルトは静かに話し続ける。
「ユリウス陛下は、立派にローゼンハイムの皇帝をやってます。俺も、偽聖女なんてもので俺たちの国の皇帝の評判を貶められたくないって、そう思うぐらいにはとても立派な主君です。そして俺が知る限り、陛下は誰かを恨んで生きるような人間じゃない」
その後、ルティたちは尼僧院を出た。
クルトの話のあと、皇太后は黙り込み、分かりやすいほどの拒絶のオーラを出していたので、もう何も話してくれないだろうと諦めるしかなかった。
尼僧院から出てきた後、クルトは盛大にため息を吐く。
「……自分が思ってるより、世間に影響を与えちゃいないなんて、俺も思いっきりホラ吹いたなぁ」
そう愚痴るクルトに、ルティは目を丸くする。嘘だよ、とクルトが言った。
「あの人の影響力は大きい。当たり前じゃん。行動一つ、言葉一つで世の中が大きく動く――そりゃそうだよ。俺たちとは立場が違う。でも……すべての不幸が自分のせい、みたいな態度がどうしても……ちょっと意表を突いてやりたかったんだ。王族とか貴族ってのはさ、自分たちだけで世界を動かしてると思い込んでることも多いから……そんなことないって」
だが、一市民と一王族では、やはり与える影響には雲泥の差がある。とても悔しいことだが、クルトはそれを認めているのだ。
「……でも、一人じゃ大きく差があっても、一人ひとりが集まれば強い力になるよ。クルトは、それを知ってるから新聞記者になったんでしょ?」
一人ひとりを動かして、大衆という大きな流れを作り出すことができる仕事。侮れないことは、ルティももう実感済みだ。
巻き戻り前の世界では、赤烏新聞社がユーリの悪名を作り上げて、民意を大きく動かしたのだから。
「クルト、お母様のこと信頼してくれてるんだね。ラグランジュの聖女なんか偽者だって言い切ってくれて、とっても嬉しかったよ」
ルティが言えば、クルトはそっぽを向き、ぽりぽりと頭を掻く。
……彼の肩の上で、なぜかシャンフがニヤニヤしていた。
クルトが皇太后に話した言葉。
クルトは、ユーリの評判を貶めようとする聖女の噂の真相を突き止めようとしてくれているのだ。真っ赤なデタラメだと信じて。
巻き戻り前の世界では、他ならぬクルトこそが、ユーリの名誉を貶めた記者だったのに。
彼も、もう大きく変わっている。
「私、ちっともインタビューの役に立てなかった。これで記事書けそう?」
「焦るなって。インタビューひとつで世間を動かせるほどの記事は書けねーよ。もっといろんなことを調べていかないとな。これも、取材のひとつでしかないって」
クルトは前向きにそう言い、ルティもホッと笑う。
たしかに、クルトの言う通りだ。
大した結果は得られなかったように見えるが、一つひとつの積み重ねが大事。それは、いままでユーリの運命を変えようともがいてきたルティにも、覚えのある経験だった。




