アナスタシウスの物語 (2)
「おお、よしよし。エドゥアルト殿下……私めではご不満でしょうが、今宵はどうか、ご勘弁くだされ」
泣き続けるエディを、オレークはなれない手つきであやしていた。
外へ連れて行くといい、とユーリが声をかける。
「最近のエディは、星空の下での散歩がお気に入りなんだ。この時間に泣けば連れて行ってくれると、どうやら覚えてしまったらしい」
「はぁ、なるほど」
ユーリの助言に従って外へ出てみれば、ぴたりとエディは泣き止んだ。オレークの腕の中から、くりくりとした瞳で満天の星空を見上げている。
「さすがはユリアーナ様。御母君の洞察力には、誰も敵いませんな」
オレークは笑いながら言ったが、すぐにはっとなり、申し訳ございません、と頭を下げた。
「誰が聞いているわけでもない。どのような名で呼ばれようと、ボクの輝きが変わるわけでもなし。キミの好きに呼べばいい」
ユーリは意に介した様子もなくそう言い、オレークはぎゅっと唇を結び、おずおずと口を開いた。
「……ユリアーナとは、ドロテア様が、ご自分の娘に与えた名です。姫君をお生みになった日に」
「そして母上にとっては、亡くなった娘の名だ」
ユーリが静かに言い、オレークはまた押し黙った。
「母上を責めているわけじゃない。ボクも立場ある人間で、もしかしたら、親であるよりも優先せねばならなくなる時が来るかもしれない――母上には、我が子よりも優先せねばならない時が存在してしまった。生き残るために我が子を差し出した時に、娘は死んだものと考えるようにした……それは理解している」
寛大な言葉だが、ユーリにとってそれがどれほど残酷な振る舞いか。オレークもドロテアを責めるつもりは毛頭なかったが、こればかりは、ユーリに対して罪悪感を抱かずにはいられなかった。
ローゼンハイム帝国へと侵入して幾日。監視の目を逃れるため、山の中の道なき道を進み、険しい山越えの道中。
ヒスイは一人、山の中をうろついていた。
木の実を集めたり、小さな動物を捕えたり。
……ちょっと飲み食いしないとすぐに死んでしまうなんて、人間とはなんて不便な生き物だろう。
「おい、いたぞ。あいつだ」
ナーシャのための食料を集めていたヒスイに、近付く人間がいた。
この山をねぐらとする山賊連中で、自分たちの縄張りを荒らす存在に気付いた彼らはそれを探し回っていたのだ。
「俺たちに無断で、そいつを持って行っていいと思ってんのか?」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、数人の男たちはヒスイに詰め寄る。ヒスイはじっと山賊を見つめた。
「見かけねえ格好だな。田舎者の旅行者か?山歩きの仁義も知らねえ不届き者に、俺たちが教えてやるよ」
手にしていた山の実を足元に置き、ヒスイは改めて彼らと向き合う。
「ちょうど良かった。僕も知りたいことがあったんだ」
苦しい旅の中、ナーシャは高熱にうなされ寝込んでいた。
人間のことはぼんやりとしか知らないヒスイは、とりあえず水と食べる物を集めてナーシャの回復を待っているのだが、一向に良くなる気配はない。
だから、この状況で人間に会えたのはありがたかった。
「ただの風邪じゃないですかね――よ、よくあることなんですよ!大人ならすぐ治るようなものでも、この子は小さいから重症化しちゃってるだけで……」
顔を腫らし、まだあちこちに血が滲んでいたが、山賊は精一杯の笑顔を取り繕ってヒスイに説明する。
それで、と首元に剣を突き付けたまま、ヒスイは続きを求めた。
「食って寝てれば、いつか治ります――本当です!そうやって治すもんなんです!あ、ああ……俺たちのアジトに連れて来たらいい!薬があれば治りも早くなりますし、水と食料ももっと良いのがたくさん……」
「ふーん」
山賊は必死だ。
五人がかりで少年を襲った山賊たちは、あっさりとヒスイの返り討ちに遭っていた。ヒスイは武器を持っていなかったが、山賊たちが持っていた剣を奪い取り、四人を斬って、一人だけ生き残らせた。
病で伏せっているナーシャについて、人間に話を聞かなくてはならないから。
用が終われば自分も斬られる。生き残った山賊は、それが分かっていた。
「ここよりはまし?」
「雨風も凌げるし、寝心地もずっと良い」
「そう。じゃあ、そっちに連れて行こうかな」
寝込んでるナーシャを背負い、ヒスイが立ち上がる。
自分たちのアジトに案内する山賊について歩いた――ヒスイに見えないところで、男がニヤッと笑っていることに気付かず。
別に気付いていたって、自分が取る行動は変わらなかったけれどね、というのが後のヒスイの言葉である。
アジトに着くとすぐに、仲間の山賊たちが姿を現す。彼らは仲間の一人が連れてきた少年たちを不思議そうに見ていたが、ヒスイを案内した山賊はニヤニヤと笑い、一目散に仲間たちに駆け寄った。
「やっちまえ!この人数なら……向こうは病人背負ってるんだ、いざとなったらあいつを人質に……」
それ以上、彼は話すことはできなかった。首と胴体が泣き別れし、話す言葉は完全に奪われてしまったのだ。
それを見て、仲間たちも顔色を変え、武器を抜く。ナーシャを背負ったままのヒスイに、一斉に襲い掛かった。
「……ヒスイ?」
ぼんやりとした意識の中、ナーシャは目を覚ました。
見覚えのない洞窟……起きた?とヒスイが声を声をかけてくる。そちらに視線をやり、ナーシャは目を見開いた。
「ヒスイ、その傷は……」
傷まみれのボロボロになった姿のヒスイに、ナーシャは堪らず起き上がろうとした……でも身体が言うことを聞かなくて、がくりと倒れ込む。
いいから、とヒスイが諫めた。
「僕なら大丈夫だから。君さえ元気になれば、この程度の傷、すぐに治るんだから。自分のことだけ考えて」
そう言って、水を差し出す。ありがとう、と受け取って水を飲み、ナーシャは改めて周囲を見回した。
「ここ、どこ?」
「よく分かんない。君を休ませるのには丁度いい感じだから、ちょっと使わせてもらってるだけ」
「そうなんだ……」
ヒスイが差し出してくれた果物を、静かにかじる。果物は甘くて冷たくて美味しい。
「食べ終わったら、ちょっと僕のこと手伝って」
果物を頬張ったままヒスイを見て、ナーシャは首を傾げる。これ、とヒスイが取り出したものに、思わずむせてしまった。
「体内ならいずれ修復するんだけどね。外側のものは、失うともう修復されることはないんだ。だから、くっつくまで失くさないようにしないと」
そう言って次にヒスイが差し出したものは……彼の左手。
右の手で自分の左手を差し出しているヒスイの、左手があるはずの場所を見た。膨らんだ裾のせいで見えないが、ヒスイはいま、片手を失っていることになる。
ヒスイは平然としているが、ナーシャが青ざめるのは当然だった。
「だから、君さえ回復してくれればくっつくし、大丈夫だから」
ぽろぽろと泣き出すナーシャに、ヒスイは大きなため息を吐く。
だって、とナーシャは泣き続けた。
何が起きたのかは分からない。でも、自分のせい――それだけはナーシャにも分かったから。
化神のヒスイがこんなにボロボロになったのは、自分を守るために戦い続けたせい。せめて宿主の自分がしっかりしてれば、もうとっくに癒えた傷だったのに、それすらままならない。
宿主と言うだけで、当たり前のように化神に犠牲を強いる自分が情けなくて……。
「君が死ぬと、僕も消滅するんだよ。だから僕は、自分のために戦っただけ。いちいち責任を感じないで」
「うん……うん、ありがとう、ヒスイ」
泣きながら、ナーシャはヒスイの左手を支える。ヒスイが自分の左腕に包帯を巻きつける間、傷口にぴったりとくっつけていた。
包帯を巻き終えると、見た目にはくっついたようになったヒスイの左手……でも、斬り離されたそれはだらんとして動かない。
君が回復すれば僕も治る、とヒスイがまた言ったので、ナーシャは大人しく食べて、眠って……一刻も早くヒスイの左手を治すためにも、自分の治療に専念した。
そうやって過ごして二日後、体力も回復し、ナーシャたちは居心地の良い洞窟を出ることになった。
もうちょっと休んだら、とヒスイからは言われたけれど、早く帝都に向かいたかったし、なんだかここが臭くなってきて、その臭いが気になって堪らなくなってきたので、さっさと出て行きたかった。
「臭いの、ここからみたい。何があるの?」
洞窟を出て行く途中で臭いの発生源らしき場所を通りがかり、ナーシャは尋ねた。
「ちょっとね。邪魔くさいから埋めておいたけど、それでも結構臭うね」
何を埋めたの、とナーシャはまた尋ねたが、もう行くよ、とヒスイはそっけなく返すばかり。
――そこは、このアジトをねぐらとしていた山賊たちの死体が埋められた場所だった。
もう生かしておく必要性も感じなかったから、ヒスイは全員を返り討ちにし、今度は誰も生き残らせなかった。
生かしておくとろくなことを考えない、ということを学習したばかりだったから。
ユーリがエディを抱いたオレークと共に暗い庭を歩いていると、屋敷からドタバタという騒がしい物音が聞こえてきて、血相を変えたナーシャが飛び出してきた。
どうしたんだい、とユーリが目を丸くして尋ねる。
「目が覚めたら君がいなくて、びっくりしたんだよ……エディのところに行ってたのか……」
ほーっと大きくため息を吐いて脱力し、ナーシャがへたり込んだ。
「私ではエドゥアルト殿下をなだめることができず、見かねた陛下がいらっしゃってくださったようです。さすがは御母君殿。エドゥアルト殿下もご覧の通り――すっかりご機嫌になられて」
オレークの腕の中で、エディはナーシャを見てニコニコと笑う。
愛らしい我が子の姿に、ナーシャもつられて微笑んだ。
「僕はエディの泣き声に全然気づかなかったよ。親失格だね」
「子の泣き声には、やはり女性のほうが敏感なものです。こればかりは、アナスタシウス様でも敵いますまい」
そう言ってオレークはユーリを見たが、ユーリは暗い庭をじっと見つめ、何やら考え込んでいる。
「ユーリ、どうかした?」
「うむ……この庭を見て、気付いたことがあるんだ。ナーシャ、この庭には、重大な欠点がある」
ナーシャはオレークと顔を見合わせた。
欠点……心当たりがあるというか、特に何もない庭なので欠けてるものだらけだと言われれば確かに。でも、庭いじりが好きなメンバーでもないから、花を植えてもろくに管理できないし……。
「ブランコだ」
「はい?」
「ブランコ――辺境地の城にて暮らしていた頃、ルティも大好きだったものだ。この屋敷には、これからもエディはやって来ることだろう。だがブランコを作るのに手ごろな木もなく、ブランコに乗る経験をさせてあげられない。可哀想だと思わないか?」
ナーシャは苦笑し、オレークは目を瞬かせる。ユーリは至って真剣な様子だ。
よし、と一人満足そうな笑顔を浮かべて頷く。
「セレスに頼んで、城から手ごろな木を一本持ってきてもらうことにしよう。善は急げだ」
「いや、せめて明るくなってから……それに、ノイエンドルフ公に一応許可をもらったほうが」
夜中の内に城から無断で木を持ち出す――それを後から知った宰相がどんな反応をするか、容易に想像できてしまうだけに彼女を止めるしかなかった。
放っておくと、本当にやってしまう。
「ブランコ作りは私もお手伝いしましょう。アナスタシウス様も、幼い頃はよく乗っていらっしゃいました――エドゥアルト殿下も、きっと気に入るに違いありません」
オレークが笑う。彼が明るく笑う姿は、自分も初めて見たかもしれない。
――少し離れたところから様子を見ていたヒスイは、そう思った。
「君も久しぶりって?そう……ユーリといると、特に珍しい光景でもなくなるよ」
自分と並んで宿主の様子を見守っていたイタチに向かって、ヒスイが言った。
泣いて暗い顔ばかりしていたナーシャの笑顔をヒスイが見たのは、ユーリが生まれてから。
苦しい旅の果てに自分たちは帝都グランツローゼの城へとたどり着き、ナーシャは無事、叔母ドロテアと再会することができた。
そして、ユリウスと会う――ユーリの父親、ユリウス二世。祖国の仇と。




