春が来た (1)
ローゼンハイム帝国を出奔したディートリヒは、カルタモ公国にてカルタモ公の保護を受けていた。
「カルタモでの暮らしにはもう慣れたか、ディートリヒ。要望があれば言うだけ言ってみると言い。私も叶えられるものしか聞き入れるつもりはないから、遠慮はいらんぞ」
「カルタモ公殿の厚意には感謝している。俺のような厄介者を厚遇し、力を貸してくれているのだ。不満などない」
互いに白々しいことは承知の上で、カルタモ公エルネストもディートリヒも笑顔で応対する。
相変わらず調子の良い男で信頼する気にはなれないが、いまのディートリヒにとっては頭を下げなければならない相手だ。
ローゼンハイム皇帝に弓引き、帝国軍に被害を与えた罪人。無論、帝国側からは身柄の引き渡しを要求されている。
それをのらりくらりとかわして、公国での生活を支援してくれているのが他ならぬカルタモ公エルネストだ。
ディートリヒのいまの身分は、エルネストにかかっているといっても過言ではない。
「わざわざ俺を気遣って呼んだのか?」
「いや。今日は教団から使者が訪ねてきていてな。私とディートリヒに紹介した者がいると、クレメンス殿が」
クレメンスの名に、ディートリヒが露骨に嫌そうな顔をする。
ディートリヒの素直さを、カルタモ公エルネストは笑ってたしなめた。
カルタモ公エルネストは信頼ならない相手だが、クレメンスは軽蔑する相手だ。
口だけ出して手は出さない、の典型例であり、軍人としての側面も持つディートリヒはあの男に敬意を払う気にはなれなかった。聖職者でありながら権力を欲する俗物。
自分はあの男に笑顔で応対するような立場にならなくて良かったと、愛想よく振舞うカルタモ公を見て感心したほどだ。
「ラグランジュの聖女の話を聞いたことはあるか。最近、カルタモにもその噂が届くようになってきたが」
「その名前だけなら。具体的に何がどう聖女として評判なのかは知らない」
「うむ。私も詳細は知らんが――どうやら、ユリウスの腹違い妹らしいぞ」
「は?」
カルタモ公の言葉に素で驚き、ぽかんとする。
そんなディートリヒの反応に、気持ちはよく分かるぞ、と言わんばかりの満足そうな笑みでカルタモ公は頷いた。
「その反応が見たかった。信じられない話だろう?」
「信じられないというか、有り得ない」
ディートリヒが冷静に言った。
「腹違いということは、ユリウス――俺にとっては伯父のほうのユリウスの娘ということだろう。あの伯父上が隠し子なんて」
「公表し、然るべき権利を与えるか?」
「いたら、とっくに死んでいる。我が子だぞ。生殺与奪の権利を握っているような相手を、特に意味なく生かしておくような男じゃない。物心がついた時から面白半分に動物を殺し、十代になる前には解剖してみたかったなどという理由で人間を何十人も殺している。ユリウス二世に弟が一人しかいなかったのは、他の兄弟はすべてやつが殺してしまったからというのは有名な話だ。俺も、父から絶対に伯父と二人きりになるなと厳しく言われてきた。二人きりになどなってしまったら、必ず俺のことも殺そうとするから、と」
ユリウス二世の悪虐っぷりは知っていたが、それでも、ディートリヒの話にさすがのカルタモ公も引き気味であった。
話している間にクレメンスたちの待つ部屋に着き、カルタモ公エルネストが室内に声をかける。
召使いが扉を開け、中へと入ると、中央の豪奢な長椅子に彼らは座っていた。
クレメンスはもったいぶった様子で立ち上がり、笑顔で二人を出迎える。
「二人に紹介したい者がいて、こうして訪ねて参りました。すでに聞き及んでおられるかもしれませんね――彼女の名はジュリエンヌ。ラグランジュの聖女と呼ばれ、人々から敬愛される女性です」
クレメンスに紹介された少女が立ち上がり、カルタモ公とディートリヒに向かって控えめに礼をする。
ちらちらとこちらの反応をうかがう様子は、権威ある男たちを前に緊張している……というより媚びているようにしか見えなくて、初対面からディートリヒは彼女に悪印象を抱いた。
とは言ったものの、自分を前にした女の反応なんてこんなものだ。良くも悪くも、このジュエリンヌという少女はごく普通の感性の持ち主なのだろう。
……初対面でもまったく自分に媚びることなく、むしろ主のように振舞ってみせたユーリが、何もかも別格過ぎた。
「なんと清らかで美しい女性であろう。彼女の前では、美の女神も霞んでしまう」
カルタモ公エルネストは大仰に挨拶し、聖女を絶賛する。聖女ははにかみ、クレメンスは満足そうだ。
「ジュリエンヌか……」
聖女の手を取って口付けながら、エルネストがぽつりと呟く。
ジュリエンヌ――帝国語読みだったら、彼女の愛称はユーリとなっていたことだろう。その名前は偶然の一致か、それとも……。
「彼女の父が与えた名だ。自身の名をもじって」
クレメンスが言った。
聖女は瞼の裏の父を思い描くように目を閉じ、何やら物思いにふけっているようだった。
そんな様子を、非常にバカバカしいな、と思いながらもディートリヒは口を閉ざしていた。
「彼女について、面白い与太話も聞いているぞ」
「我々のほうでも、その真偽については調査中です。ことがことだけに、慎重に結果を出さねばならない――しかし、彼女が特別な力を有していることは間違いありません」
クレメンスの言葉に、いったい何のことだ、とディートリヒは思った。
カルタモ公エルネストも同じことを思ったに違いない。ディートリヒが彼を見た時、エルネストもこちらに視線を返してきたのだから。
聖女ジュリエンヌが、そっと左手を差し出す。手の甲の紋様を見て、ようやくクレメンスの言葉の意味を理解した。
「大紋章を宿しているのか。ということは、もしかしてあの男……?」
カルタモ公は長椅子のそばに立つ美しい男を見た。
この部屋に入った時から、その異質さはディートリヒも感じていた。ただ者ではないだろうと思っていたが、彼も化神だったのか。セレスやヒスイを見たことがあるから、カルタモ公もすぐに察したようだ。
「次の戦場は、大きな転機となるやもしれませんな。清らかなる聖女と、強欲なる皇帝――どちらが勝者となるか。結果次第では、世は大きく動くことでしょう」
クレメンスは笑顔で言い、カルタモ公は曖昧な笑顔を返すだけで何も答えなかった。
「あの女、どう思う?」
「偽者だろう。当人らがどこまで理解してやっているのかは分からないが」
部屋を出た後、自分たちの声が彼らに届くことのない距離まで来たことを確認して、カルタモ公が話しかけてきた。
即答するディートリヒに、ふむ、とカルタモ公が自身の顎を撫でる。
「やはりそうか。美しい女性だとは思ったが、ユリウスのような強烈さはなかったしな。あのユリウスの妹を自称するにしてはインパクトが足りぬというか」
「俺も同感だ。あのユリウス三世の妹で、あのユリウス二世の娘……と言うには、大したことがない」
化神持ちの紋章使いだったことにはさすがに驚いたが、それだけだった。それでユリウス二世の落胤を自称するには、なかなか厳しいことだろう。
どこまで本気で、妹としてローゼンハイム帝と対決するつもりなのかは知らないが。勝負……どころか、同じ舞台に立てるかどうか。
「だが、ルドルフ帝の嫡子ディートリヒとしては悪くない追い風だろう?ユリウス二世の血を引く聖女は、我々の味方らしい」
カルタモ公の言葉に、ディートリヒは何も言わなかった。
正直、それが一番気に入らない。ユーリの正統性を非難している自分が、ユリウス二世の落胤なんてものを利用して対立しようというのは、矛盾していると思うのだ。しかもそれが、あからさまな偽者と来れば。
……勝つためには必要なことで、自分が幼稚な感傷で反発しているだけだと分かっていても。
「国同士の戦というものは、戦場で勝敗を決めるものではない。ローゼンハイム帝と戦うのならば、正攻法だけでは勝ち目はないぞ」
「……それは分かっている。その手のことに関して、俺が青いことも」
あの女に勝つためには、馬鹿正直に真正面から戦っても不可能だということは理解している。
大きな戦が迫っている。今回は枢機卿ローヴァインも敵となっているのだ。帝国側も、全力で立ち向かってくるに違いない。
春が来て、ローゼンハイム帝国では賑やかな日々が続いていた。
建国際はとうに終わったが、帝都の人々はまだお祭り気分が抜けないらしい。そんな楽しい町の中で、ルティはカンカンになりながら新聞を読んでいた。
「お母様の腹違いの妹だなんて!なんて図々しいのかしら!」
怒り過ぎて手にしている新聞を破いてしまうのではないかという勢いで叫ぶルティに、落ち着けよ、とクルトがなだめる。
「落胤騒動なんてものは、どこの国のどこの王様にもありがちだって。ユリウス二世がそういう問題とは無縁の男のイメージだから、いままで出てこなかっただけで。一回ぐらいは起きるもんだろ」
なだめられてもまったく納得できないルティは、ぷくっと頬を膨らませて頭から湯気を立てていた。
ルティの肩に乗る文鳥が、「ちゅん?」と首を傾げてルティを見つめていた。
「お待たせしてすみません」
イザークが、ルティたちの座っている長椅子へとやって来る。
差し出された茶を飲んでいたグライスナー参謀は、テーブルにカップを置き、イザークを見た。
今日はグライスナー参謀と共に、ルティは赤烏新聞社を訪ねていた。
新聞社へ来たかったのは参謀のほうであり、ルティはおまけだ。もしよければ一緒に出掛けないかと誘われたので、二つ返事でついてきた。きっとラグランジュの聖女の話を聞きに行くのだと思い、迷うことなく。
仕事を片付けてやって来たイザークは、予想通りの話題を振る。
「今日の訪問の理由は分かっておりますよ。私自身、いまはそれが気になって仕方がないことですからね――ラグランジュの聖女について」
イザークは、ルティが手にした新聞を見る。
ルティが読んでいる新聞は、この赤烏新聞社が発行したものではない。外国の新聞で、いまのルティでは断片的にしか記事が読めない。
参謀に翻訳してもらいながら、教団に現れた自分の叔母(仮)についての記事を読んでいた。
「この人、本物なの?人物画は……似てるような気がしなくもないけど」
新聞には聖女の描いたと思われる挿絵があり、絵の中の彼女は……言われてみれば似ているような気がする、という程度にはユーリに似ていた。
でも、絵なんかどうにでも描ける。ルティも絵を描くから、それは分かった。
「残念ながら、この新聞で私も彼女のことを知ったぐらいですよ。ラグランジュでは、さすがに取材に行くにしても遠すぎる。一応うちでも取材チームを派遣させてはいますが、行って帰ってくるだけでも一年はかかってしまうことでしょう。いまは教団が彼女を囲い込んでしまっているでしょうから、現地へ行っても情報を得られるかどうか」
「やっぱりそうだよね」
ラグランジュとは、外国にある地名だ。帝国外のニュースだから、耳の早い赤烏新聞社でも情報はほとんどない。
彼女が本当にユリウス二世の落胤なのかどうか、帝国内の人間では確認する術もなかった。
「そのことでだな。城で一つ、試してみるべきではないかという意見が出ている。イザーク。皇太后ドロテアのインタビューを取りに行く気はないか」
参謀の言葉に、ルティだけでなくクルトもイザークも驚き、目を丸くして彼を見た。
「ちゅんっ!」とルティの肩に載る文鳥が鳴く。
「当時のユリウス二世を詳細に知る者は少ない。ならば、彼の后だったドロテア様は最も有力な証言者だ。無論、公式に彼女を訪ねることはできないが……」
グライスナー参謀が意味ありげにルティに目配せをしてくるので、ラヴェンデル尼僧院での事件のことだ、とルティは察した。
皇太后はローゼンハイム帝の命を狙った罪人となり、別の尼僧院へと移った。彼女の身の安全と……厳重な監視のために。
国内のオルキス人たちを刺激しないよう、こちらからの接触は最低限にしている、と聞いたことがある。だから、大っぴらに彼女を訪ねることはできない。
でも、今回のユリウス二世落胤の一件について、彼女は無視できない存在だ。いまの帝国で、最も真実に近い証言を語ることができる相手……。




