カリラ湖城でのあれこれ
ユーリの出産のために、皇帝一家がカリラ湖のそばにある城へと住まいを移したのは冬の始めの頃。
家族水入らずとユーリがこだわってくれたおかげで、ルティは誰の目を気にすることもなく城での生活を楽しんでいた。
これは、カリラ湖城へと住まいを移して数日頃の小話である。
「そろそろ眠る時間だ。特に課せられた予定もないだけに、キミも規則正しい生活を心がけなくてはいけないよ」
ユーリに諭され、うん、とルティは素直に頷く。
皇族としての責務も勉強も免除となっているが、自堕落な生活はいけない。なにせ、帝都グランツローゼに帰る時には、ルティも皇女になるのだから。自堕落な生活を続けていたら、改めて皇女として過ごすようになった時に大変だ……。
ユーリとミーナにおやすみなさいのキスをしてもらって自分の寝室へ向かおうとしたルティは、ふと足を止める。立ち尽くすルティに、ユーリが首をかしげた。
「ルティ?」
「……うん。あのね……」
もじもじと。
マティアスに振り返り、彼の顔色をうかがうように、ルティは上目遣いに彼を見た。
「あの……マティアスにも、おやすみなさいのキスしてほしい……」
ルティの言葉に、マティアスが硬直する。
マティアスはいつも、ルティと一線を引いている。マティアスとルティの親子関係も、もはや公然の秘密ではあるが、それでも。臣下として振る舞うよう努めている。
……でも、このお城にいる間だけなら……と思って、決死の思いでわがままを言ってみたのだが……。
「素晴らしい提案だ」
やっぱり言わないほうが良かったかな、とルティがちょっぴり後悔していると、ユーリが笑った。
「――マティアス。皇帝命令だ。この城にいる間は、ルティの父親として振る舞うように。親としての責務を放棄すると、ボクが個人的に何らかの罰を与えるぞ」
無茶苦茶な、と言わんばかりにマティアスは眉間に皺を寄せ、ルティに視線を戻して黙り込む。
へにょりとルティも眉を下げた。
「キミも慎ましい男だな……皆の目があるところでは難しいだろう。今夜はキミが、ルティを寝かしつけたまえ。そしてちゃんと、ルティの要望を叶えるように」
その夜。ルティは不思議な夢を見た。
お城の中――あれは、グランツローゼでもこのカリラ湖のでもなかった。ルティの記憶が正しければ、もっと幼い頃に暮らしていた辺境地の城……たぶん、そのお城にあったユーリの部屋。
ユーリは、ルティの記憶にはない姿だった。とても若いというか……幼い……。
「ほら、マティアス。キミも抱いてあげたまえ。こんなにも愛らしい天使を前にして、抱っこもしないなんて許されざる冒涜だぞ」
そう言って、寝台に腰かけたままのユーリは、腕に抱いているものをマティアスに差し出す。白い布に包まれて、何を抱いているのかはルティには見えない。
マティアスはそれをじっと見下ろし、黙り込んでいた……が、やがて自分も手を伸ばし、ユーリからそれを受け取った。
ぎこちなく抱くマティアスに、ユーリはくすくす笑う。しばらく二人で布に包まれた何かを見つめていたが、ユーリがため息をつき、マティアスは彼女を労わった。
もうお休みを、と声をかけられて、ユーリは頷き、寝台に横たわる。
「……その子が泣いたら、必ずボクを起こすんだぞ」
「乳母がおります――ユリウス様は、どうぞごゆっくり――」
「ボクの子だ。母親のボクが優先されるべきだろう」
ユーリにしては珍しく、本気で怒っているような声だ。マティアスも、不機嫌丸出しのユーリを相手にするのは慣れていないのだろう。これまたマティアスにしては珍しく、ちょっと狼狽している。
しばらくマティアスを睨んでいたユーリが、ふっと笑ってマティアスが抱いているものに手を伸ばす。
「愛しているよ、ボクの姫君。キミの母親になれたことが、ボクにとって最上の幸福であり名誉だ」
ぐう、とお腹が鳴り、夢はそこで終わりを告げた。ぱちっと目を開けた時、そこはカリラ湖城のルティの部屋。
真っ暗で……寝台の上でもぞもぞと起き上がったルティのそばに、ちょこんとペルが座っている。
ふわふわの尻尾をふりふりさせながら自分を見上げるペルを抱き寄せ、ルティは大きなため息をついた。
「お腹減った……」
変な時間に目が覚めて。朝ごはんまでまだまだ時間があるのに、空腹が気になってルティは眠れなかった。
厨房に……つまみ食いしにいってみようかしら、なんて悪事を考えてしまう。グランツローゼのお城では、絶対にありえない悪さだ。
……いましかできない、となると、ちょっとやってみたいかもしれない。
トコトコと自分について来るペルを連れ、ルティはそっと部屋を抜け出した。
人がいないから、真っ暗で物音ひとつしない廊下。怖さと、初めての体験にドキドキしながら、ルティは廊下を進む。
ペルがついているというのが大きかったと思う。一人だったら、さすがにここまで思い切ったことはできなかっただろう。
厨房に近づくと、美味しそうな匂いがただよってきた。
つまみ食いなんてそんなお行儀の悪いこと、本当にやるかどうか悩んでいたのだが……美味しそうな匂いを嗅いだらそんな悩みも吹っ飛んだ。
厨房の出入り口は扉がなく、暗い廊下に灯りが差し込んでいる。こそっと、ルティは厨房を覗き込んだ。ペルも、こそっと厨房の出入り口から顔を覗かせる。
「食いしん坊が増えた」
ルティが隠れる間もなく、化神の気配を察知していたシャンフに見つかってしまった。
小さな悲鳴と共に飛び上がるルティに、セレスが笑っている。
「ユーリがお腹を空かせたみたいでね。ちょうど、夜食を用意していたところなんだ。ルティもおいで。君も一緒のほうが、ユーリは喜ぶ」
セレスに誘われ、ルティはユーリの寝室へ向かうことにした。出来立ての料理は配膳カートに載せられ……ついでに、なんかむしゃむしゃ食べてる人形サイズのヒスイも乗っていた。
セレスやシャンフと一緒にルティが姿を現すと、ユーリは笑顔で歓迎してくれた。二人で長椅子に並んで座り、セレスに給仕をしてもらってスープを食べる。具は控えめだが、空っぽなお腹が満たされるような充足感はあった。
ルティとユーリの分を取り分けると、シャンフはカートを押し、残りの食事……と、ついでにヒスイを載せたまま、部屋を出ていってしまった。
「ユーリから、フェルゼンの分も一緒に作ってあげて欲しいと頼まれていたんだ。それでシャンフと会って、手伝ってもらった――ヒスイはどこから嗅ぎつけたのか、気付いたらつまみ食いをしていた」
セレスが説明する。
シャンフは残りの食事をフェルゼンに持って行ってあげたらしい。フェルゼンも、お城に入ってきたらいいのに……。
「そう言えば、マティアスはボクの命令をちゃんと果たしたかい?」
食事の合間に、ユーリから話しかけられる。ルティは頷き……えへへ、と額をおさえて笑う。それで十分伝わったようで、ユーリも笑い、ルティを抱きしめてくれた。
「ならば良かった。ルティも、この城にいる間は遠慮なくマティアスにわがままを言うといい。マティアスも、本当はキミにわがままを言われるのが嫌いではない」
「そうかな……」
お腹も程よく満たされたことで、話している間にルティはまたウトウトとなってくる。自堕落な生活はダメだと戒めたばかりなのに、さっそく悪さをしてしまった……。
「おやすみ、ルティ」
自分にもたれかかって瞼を閉じるルティの頭を、ユーリが優しく撫でる。暗闇の中、ユーリの声だけは聞こえていた。
「セレス、奥の寝台に運んであげてくれ――ボクでは、もうこの子を抱きかかえるのも難しくなってしまった。ついこの前まで、この腕に収まっていたような気がするのに……」
その後、ルティはユーリの寝台に運ばれて、母と一緒に眠った。そしてもう一度、夢を見た。夢というか、眠る前の記憶を反すうしていたというか。
――お休みなさい、リーゼロッテ様。
そう挨拶をして、マティアスがぎこちなくルティの額に口付ける。パチパチと目を瞬かせた後、へにゃりと笑うルティに、マティアスもわずかに顔を緩ませていた……。




