夜中の遭遇戦 (3)
せめて何も言わず、ルティは精一杯の抵抗を示す。男は紳士的に手を差し出し、ルティの反応を待った。
ルティの後ろから、虎が唸り声をあげるのが聞こえた。虎がこちらに飛び掛かってくる――ルティを飛び越え、自分の宿主目掛けて。突進しているようでもあり、男は突き飛ばされていた。
次の瞬間、男が立っていた場所から炎の柱があがる。燃え盛る炎でルティと男たちは遮られ、ルティもぐいと引っ張り上げられた。誰かが自分を捕まえている。
ドキッとしながら振り返れば、シャンフだった。片手でルティを抱きかかえている。
「ルティに触るんじゃねえ!」
シャンフはルティを自分の背後にやり、ペルがすぐに自分のそばに寄ってきた。
「ペル、ルティたちを守ってろよ!」
虎の相手はシャンフに代わった。
虎の咆哮が鳴り響き、炎が弾け飛ぶ。セレスはあの鎌を持つ男と戦っている。
しばらく呆然としていたルティは、いまなら逃げ出せることに気付いて、慌ててミーナのもとへ戻ろうとした。そばの木を支えに立ち上がろうとしているミーナを見つけ、ルティはエディをしっかり抱きしめたままそっちへ走る。
ペルはルティから離れ、誰かに噛みつこうとしていた。虎の宿主だ。
チッと男が舌打ちする。さすがに虎の宿主は、化神相手では戦えないようだ。セレスと互角に渡り合ってる鎌の男がおかしい。
威嚇はペルに任せ、ルティはミーナを気遣った。
「ミーナ、一緒に逃げよう!」
自分で歩くぐらいまでには、ミーナの足もなんとか回復したようだ。一緒にペルのもとへ向かおうとしたルティの肩を誰かがつかみ、ルティは思わず悲鳴を上げた。
リーゼロッテ様、と冷静に話しかける声で、ルティは相手を察し、振り返る。
「マティアス!」
「遅くなりました。相手に逃げられてしまい、申し訳ありません」
相手が逃げ出しただけで、シャンフたちがやられてしまったわけではなかった。それを知り、ルティはとてもホッとした。
それから、暗い木々の隙間からバチバチと光るものが見えた。閃光がこちらに向かって走ってきている。あの光は見覚えがあったから、ルティにもすぐ分かった。
ヒスイだ、と思った時には、もう彼は虎に飛び掛かっていて、シャンフはセレスのほうへ跳んでいた。
「セレス、そいつはオレにぶっ倒させろ!てめぇ、さっさと逃げてんじゃねえ!」
「仕方ないじゃん。オレも最後までやりたかったけど、今回の目的はおたくらに勝つことじゃないし。これでも仕事には真面目なんだよ」
勝負の最中にあっさり逃げられ、どうやらシャンフはお怒りらしい。決着がつかなかったことに怒っているわけではなく、まんまと逃がしてしまった自分に怒っているようだ。
虎の宿主が、鎌を振るう男に呼びかけている。
「潮時みたいだね。五対二じゃいくらなんでも不利だ――また報酬と評価が下がる……」
あたり一帯を包むほどの大きなつむじ風が起き、目が開けてられなくてルティは腕の中のエディをぎゅっと抱きしめた。激しい風を受けてエディは泣いている。
マティアスとミーナ、それにペルは、小さなルティたちが吹き飛ばされてしまわないよう、そばについてかばってくれていた。
目が開けられるようになったとき、闇に光っていた鎌も、真っ白な虎も、すっかり姿を消していた。
代わりに蹄の音と馬のいななきが近付いてきて、松明を片手に持った騎馬隊がこちらへやって来た。先頭にいるのはナーシャだ。
ルティたちを見つけ、馬を降りてすぐに駆け寄ってくる。
「ルティ、ミーナ、大丈夫かい?」
「大丈夫よ。私もミーナも……エディも、ほら。泣いてるけど、怪我はしてない」
泣きじゃくっているエディを見せながら、ルティが言った。ナーシャが笑う。
「エディのことまで気遣ってくれて、ルティは本当に優しい子だね――ヒスイ、化神たちは?」
「逃げた。追いかけてもいいけど、逃げ足に関しては僕以上のスピードだよ。追いつけないかも」
「追わなくていい。ルティたちをユーリのところへ無事に連れて行くほうが優先だ」
そう言って、ナーシャは部下に二頭の馬を連れて来させる。乗って、とルティとミーナに促した。
それから、毛皮のマントをルティ、ミーナ、それにマティアスに渡す。
「思ったより近くまで来てくれたから、二、三時間もあれば戻れそうだ。でも雪道をその恰好で歩き続けるのは危険だから、三人とも馬に乗ったほうがいい」
ガウンを羽織っているとは言え、ルティたちは寝衣のまま。靴も雪道には適さない布のものだし、一時間も歩いたら凍え死んでしまうことだろう。
ルティが頷いてマントを着こんでいると、雪の上に大きなものが倒れる音がした。
ペルがばたりと倒れ、すっと姿が見えなくなってしまった……。
「ペル!?」
「心配いらない。小さな姿に戻って、眠っただけだ」
雪の中から小さくなったペルを拾い、セレスが言った。セレスの言うとおり、彼女の腕の中でペルはすやすや眠っている。
「ルティの負担にならないよう、普段は小さな姿でいたんだろうな。それで、いまはルティの体力を消耗させないよう、眠ってダメージを回復させてるんだ」
セレスの腕の中で仰向けに眠っているペルの腹を、シャンフがつんつん突きながら言った。
ペルはまったく動じない。熟睡どころか爆睡レベルで、ちょっとやそっとのことじゃ目を覚まさなさそう。
「ペル……ごめんね。私のせいで……」
頼りない化神だなんて思ってたけど、本当のペルは強くて、とても頼もしい化神だった。宿主のルティが小さくて頼りないから、ペルも小さな姿でしかいられないだけだったのだ……。
「ご主人様。私はカリラ湖の城の様子を確認して参ります」
オレーク・カルロフという、ナーシャの新しい家人が、ナーシャにそう話しかけていた。
頼む、とナーシャが頷く。
「二十騎ほど連れて行ってくれ。化神はもういないようだが、用心するように」
ナーシャの指示にオレークは頭を下げ、肩にイタチを乗っけたまま馬に乗り、城へ向かって走って行った。
そう言えば、あの虎の宿主が五対二と言っていたが、あのイタチが五体目だったのか。ちゃんと駆けつけて、ヒスイと一緒に戦ってくれていたらしい。小さいから、闇に溶け込んで全然見えなかった。
ルティが馬に乗ると、その後ろにマティアスが跨った。エディをミーナに任せ、眠ったままのペルを今度は抱える。
ミーナと一緒に馬に乗るのはセレスだ。ミーナはおくるみの上から毛皮で包んだエディをしっかり抱いている。
馬が歩き出し、ルティはユーリのいる陣へと向かった。
逃げ回っている時は必死だったから何も感じなかったけれど、馬に乗っていると、だんだんルティも寒さを感じるようになってきた。
吐く息は白く、息をするたび、胸の奥が凍っていくような感覚に襲われる。肌が出ていると、その部分が刺されたように痛くて、マントで顔のほとんどを覆っていた。
暗いから、景色も変化が感じられず、いったいどれぐらいの時間が経ったのか――どれぐらい進んだのか分からないまま進み続けて。
遠くに明かりが見えた。
陣は開けた土地に張られ、煌々と火が焚かれていたから、遠目でもすぐに分かった。
こちらへ駆け寄る人影が見える……誰なのかはっきりとは見えなかったけれど、ルティはユーリだと察した。
まだ距離があるのに馬を降りようとじたばたして、結局、シャンフに地面に降ろしてもらった。
「お母様!」
必死で自分も走り、彼女であることを確認して叫ぶ。
すっかり凍えてしまった身体――おまけにペルまで抱えていては、走ることすら難しい。足がもつれて転びそうになったルティを、ユーリが抱きとめた。
そのまま、ユーリの胸にルティはぎゅっと抱きつく。
「とても恐ろしい旅をさせてしまったね。キミの勇気を、ボクは誇りに思うよ」
ミーナたちもこちらへやって来て、馬から降りる。ユーリはミーナを抱きしめ、それから彼女の腕にいるエディを見て微笑んだ。
「二人とも、すっかり身体が冷えてしまっている。ボクの天幕においで。温かいものを持ってこさせよう」
ルティとミーナはユーリの天幕に入り、防寒用の衣服に着替え、ストーブの前で手足を温めた。天幕内はセレスも一緒だ。
ルティたちにはすぐホットミルクが振る舞われたが、エディが泣き続けている。ミーナがあやしても、いまだけは効果がなかった。
「待たせたね。おいで、エディ」
ユーリが天幕に入ってきて、ミーナから泣き続けるエディを受け取る。
簡素な寝台に腰かけると、ユーリはエディを自分の胸に吸い付かせた。エディはぴたりと泣き止み、母乳を飲み始める。
乳母は一緒に連れてこれなかったから、カリラ湖の城を出て以降、エディはずっとお腹を空かせていた。いままでよく我慢してくれたと思う。
「近くの尼僧院に遣いを送り、キミたちをしばらく預かってもらえる段取りができた。明るくなったら、セレスを始め護衛をつけてキミたちを送ろう」
エディにお乳を飲ませながら、ユーリが言った。
「戦が終わったらすぐに迎えに行く。雪道をまた歩かせることになってしまうが、ボクたちと一緒にグランツローゼへ帰ろう」
うん、とルティは頷く。
話している間に、お腹が満たされて満足したエディは、すやすやとまた眠り始めた……。
「ルティ、キミももう眠ったほうがいい。夜明けまでまだ時間がある。ここは安全だ。ずっとセレスに守らせるよ」
「ペル、明日になったら目を覚ましてるかな」
寝台に横になりながら、枕元に寝かしたペルを見る。
しばらく目覚めないかもしれない、と道中で言われてしまった。化神が自分で回復しようと思ったら、時間が長くかかってしまうと。
「ペルを回復させるためにも、まずはキミが元気にならないといけない。さあ、おやすみ」
ユーリはルティに毛布をかぶせ、優しく頭を撫でる。額にキスされると……おやすみのキスを受けると、ルティの身体は条件反射で眠くなっていく。
「ミーナ、キミも休んでくれ。エディはセレスが見ている――子どもたちを守ってくれてありがとう」
「お礼なんて必要ありません。あなた様の妻として、当然のことをしただけです」
ルティと一緒に寝台に入りながら、ミーナが微笑んで言った。
同じ毛布に入るミーナに、ルティは抱きつく。ユーリとミーナの二人に守られた安心感で、ルティは瞼を開けていられなくなっていた。
「セレスは、エディのお世話が上手だよね……」
眠くて、むにゃむにゃ声でそんなことを呟く。頭の上で、自分を寝かしつけるユーリがクスクス笑う声が聞こえてきた。
「ボクとキミを育ててきたんだ。この中では一番のベテランさ」
同意するように笑うセレスの声も聞こえてくる。それを最後に、ルティの意識は闇の中へと沈んでいった。




