これまでのおさらい (2)
「マティアスの運命は変わったよね……?ミーナとの姦通罪を疑われて逮捕されちゃったけど、ミーナが好きだったのはシャンフだし、それだって、私がミーナに意地悪して彼女を孤立させちゃったからで……」
「果たして運命が変わったかどうか、その結果が出るのはまだ先だな。人の心がどう変化するかは誰にも分からない――五年後には、やはりヴィルヘルミーナは誰かに恋をして、ユリウスを裏切ってしまっているかもしれない」
フェルゼンの正論に言葉が詰まるが、それでも、いまの段階ではその心配をしなくていいのも事実だと思う。
皇后ヴィルヘルミーナ――隣国シェルマンから嫁いできた、シェルマン王の姉。
巻き戻り前、幼かったルティは彼女にユーリを奪われたと思い込み、幼稚な嫉妬で彼女を孤独に追いやってしまった。
ローゼンハイムの城で孤立してしまったミーナは、物怖じせず人懐っこく自分にも接してくれるシャンフに淡い想いを抱くようになり……周囲には、ミーナとマティアスが通じ合っているように誤解されて……。
「私とミーナは、いまはちゃんと家族になったわ。ミーナも、お姉様の后としてすごく頑張ってる」
巻き戻り前の世界のミーナは、閉じこもって、ひっそりと目立たないように振舞っていた印象だ。
ユーリの邪魔にならないよう、ルティに嫌われないよう、余計なことをしないようにしていた。
でもいまの世界のミーナは社交的で、皇后として積極的に仕事に取り組んでいる。
「ミーナ、ノイエンドルフ公爵と仲良しみたい」
仲良しと言っても意味深なものではなく、ユーリは戦で城を不在にすることも多いタイプの皇帝だから、共に城を守る人間同士、協力し合う必要がある。
だから、宰相とは何かと接点が多いほうが普通ではあるのだが……。
「ノイエンドルフ公爵……相変わらずいやなおじさんだけど、お姉様ともちょっと仲良い感じがする。公爵も、巻き戻り前と何か違うことがあったのかな」
不思議がるルティに対して、フェルゼンは黙り込む。
そして考えた――この事実を、いまのルティに話してしまってもいいのかどうか。男と女のことを話すには、彼女はまだ幼すぎる気も……。
「……ノイエンドルフは、最初の世界でもユリウスに惚れていた。あの性格ゆえ、それを表に出すことなく彼女に皇帝としての生き方を望み、対外的にはユリウスの女としての部分を否定してきた――それで、おまえに対して母親として振る舞う姿にも否定的だったのだ。いまはそれを否定しなくなったために、態度が和らいだように見えるのだろう」
フェルゼンの言葉に、ルティがぱちくりと目を瞬かせる。
何を言われたのかすぐには理解できなかったみたいで、視線をさまよわせた後、驚いた顔でフェルゼンを見つめた。
「ノイエンドルフ公爵……お姉様のことが好きだったの?」
「うむ……。口を開くとあれだが……見た目は絶世の美女だからな、ユリウスは。そばにいて、あの美貌に魅せられるのも無理はあるまい」
いったい自分は何を真面目に語っているのか――ちょっと馬鹿馬鹿しい気分になりつつ、ルティに説明する。
「そっかぁ。そうなんだね。お姉様、世界一綺麗だもんね」
嬉しそうにニコニコと笑い、ルティが言った。
ルティ的には、母親の美貌が絶賛されるのは喜ばしいことらしい。どうやらフェルゼンが悩んだ通り、幼いルティには、まだちょっと男女の仲というものは理解できないようだ。
「あ。じゃあ、もしかして。ラファエル様も、お姉様のことが好きなのかな」
フェルゼンが頷くと、やっぱり、とルティが笑う。
「ラファエル様から、お姉様好き好きオーラが出てるように見えたんだ。お姉様が色んな人から慕われるのはとっても良いことだよね!」
ユーリが家臣たちから慕われれば、ユーリの孤立も防げて、未来が変わるとルティは期待しているらしい。
巻き戻り前の世界も、ユーリに恋い焦がれる男は多かった。
ノイエンドルフ公爵とバックハウス隊長も、その一人。
マティアスやミーナ、ナーシャ……親しい人たちを失って孤独だったユーリに次に寄り添った男がバックハウス隊長だった。巻き戻り前の彼は、もともと色恋に疎かったためにユーリへの感情が恋であることに気付かず、忠実なる家臣として彼女を支えていたのだが……宰相ノイエンドルフは、その光景を危険視した。
皇帝ユリウスが女であることに否定的だった彼は、バックハウス隊長の存在が原因でユーリが女になってしまうことを恐れ、隊長を謀殺してしまった。
――本心では、当たり前のようにユーリに寄り添う彼に、男として嫉妬したところもあったのだろう。
宰相は男としての感情を自覚し、封じ込めていたから。対照的なバックハウス隊長が許せなかった。
そして友を謀殺されたことでグライスナー参謀が復讐に走り、宰相ノイエンドルフもまた、謀殺されてしまった。
巻き戻り前の世界でも、ユーリは敬遠されていたわけではない。むしろ、彼女の美貌が男たちを惑わせ、彼女を巻き込んで何人も破滅させていた。
だから、ユーリを助けるために本当に必要なことは、男たちからの好意ではなく、自分の才能を自覚させ、コントロールさせること。いまのところは、概ね上手く言っている……と、思う。
……いささか、自覚が行き過ぎている気も……。
「お姉様とナーシャがもっと仲良くなれば、ナーシャもお姉様のそばを離れていったりしないかしら?でも……ナーシャとはもともと仲良しよね。これ以上どうしたら……」
ルティは、ユーリとナーシャの絆を深める作戦を考え込み、うんうん唸っている。
「レナートか……。たしかに、レナートにとって何よりも優先すべきがユリウスとなれば、やつも離反することはなくなるだろう」
「そうだよね!ナーシャだって争いごとは好きじゃないはずだもの。何が起きてお姉様を裏切るのかは分からないままだけど――お姉様を敵に回してでも守りたい何かが……いったい、何なのかしら……」
幼い頃から成長を見守ってきたユーリと敵対することになってでも、守りたい何か。ナーシャにとって、どうしても譲れないもの。
最初の世界――ナーシャは、ローゼンハイム帝国がエンデニル教団とあまりにも近付き過ぎたために、ローゼンハイム帝を受け入れられなくなった。
ユーリは枢機卿ローヴァインと親密になり、彼と行動を共にする機会が多くなっていた。
それが……エンデニル教団に強い敵意を抱くナーシャには、許容できないことであった。
今年の冬。枢機卿ローヴァインが帝国を再訪する。
その際、彼はユーリを伴ってラヴェンデル尼僧院へ向かい、皇太后ドロテアを死に追いやる。
それが、ナーシャ離反の決定的な出来事だ。
「……結末は変わらなかったが、過程は変わってきている。何度も……私たちは変えてきた。その積み重ねが、間もなく結果へ繋がる頃だ。いましばらく、おまえは見守っているといい――安心しろ。目指す結末は同じだと、前にも話しただろう。おまえの目的は、私にとっても果たすべきものだ。変わって欲しいと、私も強く望んでいる」
「うん……」
いままで、同じ結末を辿ってきた。そして、過程を変えてきた。
だから、きっと何かが変わるはず。そう信じて……待つしかないのかもしれない。ちっぽけな自分にできることなんて、限られているのだし。
そんな思いで頷き、うつむいているルティをフェルゼンはじっと見つめる。彼女は考えることに必死で、フェルゼンの視線には気付いていないことだろう。
――最初の世界から変わってきているのは、ルティも同じ。
単に、十年分の記憶と体験が原因ではない。
最初の世界では分からなかった自分の出自――両親の正体を知り、彼女たちからの愛情を実感して、アイデンティティを確立したルティは、最初の世界よりずっと落ち着いた気質になった。
最初の世界では、自分の出生が分からないコンプレックスからユーリに依存し、他の人間との交流を拒絶して、狭い世界に閉じこもっていた。皇帝としての険しい道を孤独に歩み、自分のことで精一杯になってしまったユーリは、娘のケアとフォローにまではどうしても手が回らず。
情緒も安定せず、ユーリが不在になると癇癪を起して泣き喚くこともしばしば――周囲との壁は余計にひどくなり、ルティも孤立した存在になった。
いまはユーリ不在でも、父親のマティアスがいるし、ミーナも家族に加わって、不安は感じても最初の世界のように癇癪を起すことはなくなっていた。
また、ユーリを中心に交流の輪も広まって、最初の世界よりずっと社交的になっている。
――ユーリの運命を変えるためには、ルティの協力が必須だと思っていた。そして、どうやらそれは正しかったようだ、とフェルゼンは感じていた。
娘のルティは、ユーリにとって命そのもの。
本人も気づかないところで、ユーリの運命を大きく左右させている。ここから先の運命……結末が変わるかどうか、ルティの存在も鍵を握っている。
フェルゼンは、悲痛な面持ちでうつむいているルティの頭を、ぽんと撫でた。
「見守るって……どれぐらい見守ってたらいい?冬まで?待ってたら、ナーシャは私たちと一緒にいてくれるようになる?」
「……これはあくまで私の勘だが」
すがるように自分を見上げるルティに、フェルゼンが言った。
「恐らく、冬まで待たずとも、大きな変化が訪れる。いままでにない展開になることだろう――おまえの目にも明らかなほどのな」
「いままでにない展開?」
ルティが首を傾げる。
これ以上は、きっと話せない。
推測というていを装えば、相手が知らない未来をある程度語ることは可能なのだが、これ以上具体的なことを言ってしまうと、さすがに紋章が妨害してくる。
だが、ルティもすぐに分かることだ。
いったいどうしたらナーシャが離れていかなくて済むのか。
フェルゼンとの話し合いを終えた後も、ルティは一人、そのことを何度も何度も悩んでいた。
しばらく見守っていればいいと言われても、やはり不安で、焦ってしまう。
何の進展も変化も感じられないまま、無為に時が流れ――ルティにはそう感じた――浮かない春を過ごした後。
フェルゼンの言っていた変化が起きた。
――ユーリが妊娠した。
巻き戻り前の世界では起きなかったこと。
ルティは血の繋がらない妹とされていたから、巻き戻り前の世界で、ローゼンハイム皇帝に跡継ぎはいなかった。しかし今回は……。
皇帝の懐妊は、今後の運命を大きく変える。
きっとこれが、フェルゼンが推測していたもので間違いない。ルティはそう確信した。




