これまでのおさらい (1)
厳しい冬も終わりが見え始めた今日この頃。まだ時々吹く風は冷たいけれど、日差しはずいぶん暖かくなった。
久しぶりにユーリと一緒に町へ降りて――今回はナーシャと共に。
赤烏新聞社を訪ねようかとも考えたのだけれど、何となく気分が乗らない。理由は分かっている。
何をしていても、悲しい考えが頭をよぎってしまって、ルティの気分はすぐに沈んでしまうからだ。
「大道芸が来ているみたいだね。もうすぐ春……建国祭も近いから、行商をしようと流れの旅人も増えているそうだよ。警備が大変だって、グライスナー参謀が話してた」
町のあちこちから聞こえる賑やかな声に、ナーシャがそう説明する。
活気づくのは良いことだ、とユーリが言った。
「戦続きで、国も重苦しい雰囲気になりやすい。今年は、憂さを忘れてしまうような、華やかで明るい始まりになってほしいものだ」
「今年はもう、戦争しない?」
ルティが尋ねると、そうなればいいな、とユーリは笑顔で答える。
しょんぼりとするルティに、ナーシャが明るく声をかけた。
「しばらくは戦の心配もないよ。ローゼンハイムの皇帝が化神持ちの紋章使いであることは、もう周辺諸国も知ってるんだ。喧嘩を売ったところで返り討ち――挑んでくる国なんて、そうそうは存在しないよ」
うん、と頷きながらも、だから戦となった時よりいっそう恐ろしいのだ、ということをルティも理解していた。
そう簡単に喧嘩を売っていい相手ではない、ということは、向こうもそれ相応の戦力を用意して戦争を仕掛けてくるということ。
楽な戦いにはなるまい……。
「ナーシャ……どこにも行かないで」
「ルティ」
目に涙を溜めて自分を見上げるルティに、ナーシャが困惑するのを感じた。
もちろんだよ、と優しい笑顔でナーシャはルティの頭を撫でる。
「君たちを置いてどこかに行ったりしないよ。大丈夫だから、一緒に観に行こう?」
ナーシャと手を繋ぎ、ルティも大道芸の見物に混ざる。
異国の大道芸はダイナミックで、観衆たちも大喜び。ユーリも楽しそうに笑い、ナーシャも感心していた。
ルティ一人だけが、いつまでも沈んだ気持ちで大道芸を見物していた。
間もなく、帝国に春がやって来る。辺境地の城を出て、帝都グランツローゼで迎える三度目の春。
絶望的な未来から巻き戻ってきて、二年が過ぎた。
確かに、色んなことが変わってきたかもしれない。過程はずいぶん変化した……でも、どの運命も、結末は変わっていない。
マティアスは皇帝ルドルフの命を奪ってしまい、ユーリはローゼンハイムの皇帝になり、ディートリヒは帝国を裏切ってしまった。
戦場から戻ってきたグライスナー参謀からディートリヒの裏切りを知らされた時、ルティは血の気が引く思いでフェルゼンを呼び寄せた。
「ディートリヒがいつ裏切るのか、私、全然知らなかった……」
ディートリヒ裏切りの報告を聞くまで、この戦がそうであったことにまったく思い至らなかった。
しょんぼりしながら、でもそう言えば、と思い返す。
そもそも……巻き戻り前、気が付いた時にはディートリヒは裏切り者になっていた。無知な自分はたしかに情勢に疎い子どもだったと思うが、それにしても、ディートリヒのことはずいぶん後になってから知ったように思う。
そのことを話せば、そうだろうな、とフェルゼンが頷いた。
「最初の世界、ディートリヒの裏切りが明言されるようになるのは、もっと後のことだ。ディートリヒの裏切りを証言できる者がユリウスしか存在せず、その証言を疑う声も多かった。いまから三年ほど後の戦場で、カルタモ軍と共に姿を現したディートリヒを見て、ようやく公にも知らされることになる」
「やっぱりそうだよね……子どもの私は色んなことを教えてもらえなかったり、ずっと後になってから知ることになったりしてたけど」
ディートリヒの裏切りに思い至らなかったのも、そもそもの記憶が曖昧だったから。それがいつの出来事なのか、ルティは正確には知らなかった。
ただ、ディートリヒの裏切りで思い出した。
「……ナーシャ……。ナーシャも、今年、お姉様のもとを離反したんじゃなかった……?」
ディートリヒの裏切りで思い出した、もう一人の裏切り。
必死で記憶を掘り起こし、手繰り寄せ、ナーシャがいったいいつローゼンハイム帝のもとを離反するのか思い出した。
ナーシャのことも詳細は知らされなかったけれど、いつもそばにいてくれた親しい人だったから、ある時から急に姿を見なくなったことは覚えている。
それが、もう間もなくだったような気はする。
「このまま運命が変わらなければ、レナートは今年の冬、ユリウスと決別する決定的な出来事が起こる」
「それって……」
フェルゼンの次の言葉を待ったのだが、彼は何も言わない。
ルティは首を傾げ……それからハッと気づいた。
「もしかして、いま、フェルゼンは喋った?私、それを聞けなかった?」
フェルゼンは自身が所有する紋章の影響で、相手の知らない未来を語ることができない。
相手が知らない未来、の定義がなんだかあやふやな気がするが、判断基準はフェルゼンじゃなくて紋章だから、ルティにはよく理解できない法則性なのかも。
「……分かったわ。じゃあ、どうしてナーシャがお姉様と決別したのかはひとまず置いて、いまどういう状況なのか整理してみましょう。結末は何も変わってないかもしれないけれど、私たち、色んなことを変えてきたはずだもの」
フェルゼンが頷き、ルティは自分たちの状況を今一度思い返していく。
最初は、やっぱりユーリのことから。
「巻き戻り前の世界で、お姉様……ローゼンハイム帝国は隣国カルタモに敗北してしまって……ディートリヒに囚われ、しょ――処刑されてしまった」
ユーリの死を思い出すのは辛くて、つい言い淀んでしまう。嫌な感じに胸がドキドキと早鐘を打ち、泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
「皇后ヴィルヘルミーナを顧問官マティアスと共に姦通罪で処刑。反乱を起こした旧友レナートを討ち取り、その他忠実な家臣たちも互いに滅ぼし合って、ローゼンハイム帝ユリウスの治世はボロボロになっていた――その状況では、力をつけてきたカルタモに負けるのも当然だ。カルタモが強敵だったというより、帝国の自滅だな」
「そんなお姉様に追い打ちをかけるように、世論はお姉様を悪虐帝なんて呼んで批判して……民衆も、お姉様を帝国の敵と見なした」
それを扇動したのが赤烏新聞社――そんな記事を書いた記者のクルト。
フェルゼンの言う通り、ユーリは親しい人たちをことごとく失い、孤独に追いやられ、すべての元凶にまつりあげられてしまった。
「そう言えば……お姉様がいなくなった後の帝国って、どうなったの?私、覚えてなくて」
あまりにも辛い記憶だから、奥深い場所に封印して、思い出さないようにしている。
それに、ルティも逃げるのに必死で。
ずっとユーリに守られて蝶よ花よと育ってきたルティには、とにかく耐えがたい逃亡生活だった。自分のことで精一杯で、帝国の行く末なんか考えている余裕もなかった。
「お姉様をローゼンハイムの皇帝として認めないって言って争ってんだから、ディートリヒが次の皇帝になったの?」
「いや。やつはユリウス処刑時に、彼女の発火に巻き込まれて酷い火傷を負っている――ろくに起き上がることもできぬほどの重傷だった。それにより帝国は後継者を失い、カルタモ公国に吸収された」
フェルゼンの言葉に、ルティはショックを受けた。
皇帝ディートリヒも受け入れがたいけれど……骨肉の争いの末に帝国は事実上の滅亡となって、カルタモに取って代わられていただなんて。
「……あれ。お姉様はいないのに、どうして私、セレスと一緒にいたんだろう……?」
宿主が命を落とせば、化神も消滅してしまうはず。でも、ユーリ処刑後も、自分はセレスに守られていたような。
「紋章の力については、謎が多い。事実、宿主は不在にもかかわらず、なぜか私は化神としての姿を保てている――その時もセレスも、何か特殊な条件が重なっていたのではないか」
「そうかな……そうなのかも。うん、それはいまはいいや」
フェルゼンたちも、紋章のことは分からないことが多いのだろう。それについて尋ねるのなら、別の機会、別の相手にすべきだ。
いま、フェルゼンとはもっと他に話すべきことがあるのだから。
「私は、お姉様が皇帝になるのを阻止すれば運命が変えられると思った。やり直すチャンスをくれたフェルゼンの力を借りて、十年の時を巻き戻ってきた。でも、お姉様の皇帝就任は変えられなかった」
一番最初の運命は、結局巻き戻り前と同じになってしまった。
マティアスが皇帝ルドルフを殺してしまうことも、ユーリがその共犯となってしまうことも。そして、ユーリが皇帝となることも、何もかも。
「しかし、エルメンライヒがルドルフを手にかけた理由は大きく変わっている。皇帝ルドルフは姪のユリウスを襲い、エルメンライヒはそれを守るために皇帝を弑逆した」
「うん……。それで……変わったんだよね?お姉様と、マティアスの関係」
巻き戻り前では、自分の感情を理解できないマティアスと、そんなマティアスとの距離感や関係に悩みながら、女であることに決別してしまったユーリ――二人の想いが交わることはなかった。
マティアスがようやくユーリへの恋慕に気付いた時には、もう手遅れで。
「変わっている。おまえも、それは感じ取っているのではないか?」
「うーん。そうだと思う」
ユーリとマティアスは、とても親密に見える。巻き戻り前ではなかった雰囲気だ。
二人がラブラブなら、それはルティにとっても喜ばしいこと。自分の母親と父親なのだから、両親には仲良くしていてほしい。
考え込むルティを、フェルゼンは沈黙して見つめる。
紋章の影響で話せないことも多いが、話し方次第ではルティに教えることも可能なこともたくさんある。
意図的に、フェルゼンが話していないことも。
例えばマティアスとユーリの関係が変化したことで、ユーリの意識もずいぶん変わったこともルティには話していない。
マティアスからの愛情を感じることができたユーリは、女としての自分も受け入れている。
美貌の皇帝――その美貌が多くの男を惹きつけてしまうユーリにとって、それは大きな変化だ。
最初の世界で、ユーリが女としての自分を嫌悪してしまったことが、傾国へと繋がってしまった。男たちの運命を狂わせて……彼らの破滅に引きずり込まれてしまった。




