宰相のお気に入り
戦場から戻ってきても、ローゼンハイムの皇帝に休日などない。戦争が終わっても書類仕事は山積みで、こんどは机上の戦いに挑むだけ。
それをフォローするのも宰相の仕事なので、不満があるわけではない。
――仕事に不満はないが、妨害されれば不満が出るのは当然だ。
「陛下。控えめに言っても邪魔です」
政務室にはユーリの机と宰相の机、そしてユーリを補佐するマティアスの机がある。
皇帝不在の間、皇帝に代わって書類仕事に従事していたマティアスは、ユーリが戻って来たので久しぶりの休みを取っていた。だから今日、部屋にいるのはユーリと宰相ノイエンドルフのみ。
そしてユーリは……さっきまで割と真面目に仕事をしてたのに、数分前に飽き始め、いまはなぜか、ノイエンドルフの膝に座っている。
……本当に何故だ。
「ならばボクに構え。ボクはすこぶる調子が悪い――効率の良い仕事を続けるためには、休憩を取り、リフレッシュが必要だ。ボクに円滑に仕事をさせるために、キミも協力するのだ」
「いつものように、町へ脱走に行かれればよろしいのではありませんか」
むしろ、いつもだったらさっさとそうしているだろうに。今日は部屋に留まって、なにやらグダグダと。
普段の態度に対する嫌味も含めて宰相ノイエンドルフがそう言えば、ユーリが目に見えてうなだれる。
……いつも自信に満ち、鬱陶しいほど気力に満ちた振る舞いを努めているユーリにしては、非常に珍しい姿だ。
「……ルティにフラれて傷心のボクに、その追い討ちはあんまりだ」
今日、ユーリはルティを遊びに誘って断られている――最近、遊びに出かけすぎて勉強をさぼってたから、しばらくは授業に専念したい……そうだ。
ユーリが戦場に行っている間、ルティはいつも不安そうで、落ち着かない様子で。遊び惚けているわけではないが、勉学に集中できないでいるというのは本当だ。
ユーリが戻ってきて安心したので、ようやく落ち着いて勉強ができるようになったのだろう。遅れてしまった分を取り戻そうと、彼女なりに反省して励んでいるらしい。
それは感心なことである。
しかし戦場から戻ってきて、ようやく娘とゆっくり過ごせるとウキウキしていたユーリにとっては、非常に悲しい返事なわけで。
ルティの意思を尊重し、笑顔で仕方がないと引き下がっていたが……内心、こんな感じでめちゃくちゃ落ち込んでいたらしい。
不屈のローゼンハイム帝を、唯一へこませることができる相手というわけだ……。
「……陛下」
とりあえず、本気で落ち込んでいるこれをどうにかしないと、いつまでも自分の膝に座られていては仕事にならない。
わざとらしくため息を吐き、宰相はユーリの機嫌を取るように言った。
「私の屋敷には浴室がございまして――」
「前に茶飲み話に聞いた」
「――外交官を勤めていた父のこだわりで、趣向を凝らした造りとなっております。お疲れの陛下に、ぜひ堪能していただければとご招待させていただきたいのですが」
すくっと立ち上がり、行こう、ととても良い笑顔で頷くユーリに、仕事が終わってからです、と眉間に皺を寄せて宰相が言った。
「ボクはすでに終えている。何も問題はないな。さあ、行こう」
「私が終わっておりません。邪魔が入りましたものですから、停滞してしまいまして」
「それは実にけしからぬことだ。ならば今日はもう諦めて、帰ることにしよう」
予想通りユーリは食いついてきたが、思った以上に効果があり過ぎた。ぐいぐいと自分の腕を引っ張ってくる彼女に、特大のため息を吐く。
……持ち帰って、この小娘を風呂に放り込んでる間に片付けるか。長風呂だから、いま山積みにされているものの半分ぐらいは片付けられるだろう。
「一緒に入るか、ベネディクト。今日、セレスはルティについているから、ボクの身体を洗う役目をキミに任せる」
結局、仕事は放りだされることになってしまった。
……ノイエンドルフ邸に召使いは大勢いるのだから、そんなものは彼らにやらせればいいだけの話ではないか、と宰相に進言できる者はいなかった。
「湯が真っ白だな。実に面白い光景だ」
「東国では一般的な風呂の特徴で、にごり湯と呼ぶそうです。様々な効能があり、そのひとつに美肌効果がございます」
「うむ。ボクの美しい肌が、ますます美しくなってしまうというわけだな」
ご満悦そうなユーリに、左様ですな、とかなり棒読みで相槌を打つ。
いまの帝国で、至高の美しさを誇る人間と言えばユーリであるのはたしかだ。類まれなる美貌であり、もっと絶賛されてもいいはず。
……なのだが、口を開くとその美貌も台無しになる女で、どうにも素直に頷く気になれない。
自分にもたれかかって白い湯船を楽しんでいるユーリを、じっと見つめる。
ここでも自分は椅子扱い――嫌なら叩き落とせばいいだけ。それをやらないのだから、結局ノイエンドルフもこの扱いが嫌ではないのだ。
濡れて顔に貼り付く彼女の金色の髪を梳けば、ユーリが自分に振り返った。
「キミの御父上の趣味は大変すばらしい。この浴室を作った者に、城の浴室も頼めないだろうか」
「……それは難しいかと。この浴室を作ったのは父が懇意にしていたオルキス人の職人だったのですが……先のオルキスとの戦争が原因で帝都で苦しい立場に追いやられ、消息不明に」
帝国に敵意を持つ人間ではなかったが、生まれた国が敵対国となってしまったら……当人らに敵対意思がなくとも、帝都で生活し続けるのは難しいものだ。
そうか、と答えるユーリも、それ以上の追究はしなかった。
しばらく沈黙が続き、浴室には、湯と戯れるユーリによって起きる水音だけが響いた。
白い肌を、雫が伝う――特に彼女は髪が短いから、うなじが露わになっていて。
後ろから彼女を抱き寄せ、吸い寄せられるように首筋に噛みつく。
「……ん。ベネディクト、ここでそういうことはだめだぞ。せっかくの湯が汚れてしまう」
「分かっております」
自分もお気に入りの浴室だ。もう修繕できる人間もいないのだから、万一のことが起きては困る。
だから、そんなことをするつもりなんてまったくなかったのに……なぜか、彼女の肌の誘惑には抗えなかった。
「そろそろ出るか。素晴らしい風呂の礼に、ボクもキミを労ってあげよう」
「有難いことで」
彼女の礼は、是非受け取ることにした。
慣れない感覚に、ベネディクトは目を覚ました。右腕……右肩のあたりがやたらと重く、右手もちょっと痺れているような気がする。
わずかに顔を動かせば、何かが頬をくすぐり、ベネディクトは顔をしかめた。
状況を確認して、そうか、と納得する。
ユーリが、自分の腕を枕に眠っていた。女と共寝をするなんて初めてのことだったから、慣れないことに自分の身体は過敏に反応してしまったらしい。
女を呼ぶことはあっても、いつもことが終わればさっさと寝所から追い出しているものだから……。
ユーリを起こさないように手を動かし、金色の柔らかい髪を撫でる。もぞ、とユーリが身じろぐので一瞬手を引っ込めたが、彼女は目を覚まさなかった。
……たまにはいいか。
そのまま彼女をそっと抱き寄せ、ベネディクトも二度寝を決め込もうとした。
――扉をノックする音が聞こえてきて、返事も待たずに相手が部屋に入ってくる。いったい誰が、そんな命知らずな真似を。
目を瞑ったまま放置しようとしたベネディクトたちに、相手は遠慮なく近寄ってきた。
「ノイエンドルフ。休んでいるところすまない。君を訪ねて客が来たと家の者たちが話している。君の姉上だそうだが」
その声はセレスだった――来ていたのか、と思う間もなくベネディクとはぱちっと目を開き、条件反射の如く身体を起こした。当然、ユーリは目を覚ましてしまい、眠そうにぼんやりしている。
「申し訳ございません、陛下。私に客が来てしまいまして――陛下はどうぞ、まだお休みに」
「ううん……いや、いい。ボクも起きよう。お腹もすいたことだし……」
ぐう、とユーリのお腹の虫が控えめに鳴いた。そんな音も、無防備な寝起き姿も可愛らしいと思ってしまう自分は重度だ――そんな内心はおくびにも出さず、かしこまりました、と礼儀を持って頭を下げる。
「朝食を用意させておきます。私には構わず、先に召しあがってください。セレス、陛下の身支度を」
自分は手早くガウンを着こみ、ユーリのことはセレスに任せて部屋を出た。
姉が来ているのなら、さっさと対応しないと厄介なことになる。姉を待たせている客間へ向かう途中、執事が声をかけてきて、手紙が届いていると報告してきた。
差出人は、甥のルドガー。
――母が突撃していきました。
実にシンプルで分かりやすい用件だ。だが彼女が到着してから手紙が届いても意味がないだろう。
手紙は破り、暖炉に投げ入れておいた。
「おはようございます、姉上」
「――おはよう。今朝はずいぶん寝坊だこと」
姉のマルガレータに挨拶すれば、姉はじろりと視線を向け、弟の様子を観察する。
ベネディクトは、努めて冷静に姉の視線を受け流した。
「本日は、いかがなされましたかな」
「特に用があったわけではない。おまえの息災を確認しに来ただけだ――こちらから会いに行ってやらないと。おまえは細やかに近況を伝える男ではないだろう」
「申し訳ありません。多忙なものですから」
「それは理解している。宰相職は楽な勤めではあるまい。おかげで、その年まで独り身だ」
なるべく最低限の会話に済ませようと試みるが、やはり姉はどうしてもその話題がしたいらしい。
いまだ独身の弟と息子は、マルガレータにとって何よりも気になる存在なのだ。
……ルドガーと自分が結婚できない理由は、この強烈な女も多少原因だと思う。自分のひん曲がった性根に問題がないとは言わないが。
「ベネディクト。ザイフリート夫人が来ていると聞いたのだが、ボクも挨拶して構わないだろうか」
部屋に、ユーリが入ってくる。さすがのベネディクトも、ぎくりとわずかに動揺してしまった。
ユーリの姿を見て、くわっと姉が目を見開く。限界まで見開いた目で、ユーリと弟を忙しなく見やった。
「おはよう、ザイフリート夫人。今朝のキミも美しく、朝の壮麗なる光がよりいっそうキミを引き立てているな」
「――恐れ入ります。陛下におかれましては、ご機嫌麗しく……」
「かしこまる必要はない。いまのボクはただの客なのだから、キミも気楽に過ごしたまえ――ベネディクト。本当に先に食堂へ行っていいのか?」
どうぞ、と頷く。というか、さっさと出て行ってくれ。
穴が開きそうな勢いで自分を凝視する姉の視線が痛い。
「うむ。では、先に行っている。ザイフリート夫人も、よければ一緒に朝食にしよう」
ユーリの誘いに笑顔で応え――彼女の姿が見えなくなると、瞬時に憤怒の形相へと変貌した。
「おまえという男は……!よりにもよって、陛下の情人、だとぉ……!?庶子の一人もこさえずに陛下にうつつを抜かしおって!歴史あるノイエンドルフ家を、おまえの代で潰すつもりか!」
怒り狂う姉に、ベネディクトは反論しなかった。
反論すると百ぐらいになって返ってくるから、黙っているのが最も賢い選択だと身を持って実感してきていた。だから……今回も、嵐が過ぎるのを沈黙して待つしかなかった。
「それに……このような大事を私に黙っているなど……!次に城に上がった時、皇后陛下にどのような顔をすればよいのだ!知らなかったとはいえ、いままでなんという不義理を……!」
そういえば、とベネディクトもようやく気付いた。
女社会の作法やしきたりについてはベネディクトもまったく無縁なものだから、そういったことについては失念していた。
姉からすれば、身内に皇帝の愛人がいるのだ。皇后に気を遣わないわけにはいかない。
……愛人が男の場合でも、女同士、気を遣わないといけないのだろうか。
怒り狂う姉の説教を聞き流す間、ぼんやりと、ベネディクトはそんなことを考えて現実逃避していた。




