彼らの功罪
ユーリがナーシャたちと合流した後、帝国軍は本陣を移して後退した。
後ろへとさがる帝国に対し、好機とばかりにカルタモが追撃してくるのではないかと警戒もしたのだが、不穏なほど動きはなかった。
「手当てなどいらん!この程度の傷、寝れば治る!」
「いくらおまえでもこれは重傷だろう。大人しく治療されておけ」
化神のムートの力でバックハウス隊長を治療していたグライスナー参謀は、呆れたようにため息をつく。
この男だと本当に寝ていれば治るような気もするが、さすがに今回は傷が大き過ぎる。
というか、普通の人間だったら喋ることもできないレベルの重傷のはずなのだが。
「入るぞ、バックハウス。傷の具合はどうだ」
帝国兵団の隊長の返事も待たずに天幕に入ってくるのは、もちろんユーリであった。
治療のために上半身だけだが服を脱いでいたバックハウス隊長は慌てたが、ユーリは愉快そうに笑うばかり。
「あの時とちょうど逆だな。これでおあいこだ」
「は――あ、いや……参りましたな……」
以前、ユーリの肌を盗み見ることになってしまった出来事を思い出し、バックハウス隊長は困ったように笑う。ユーリの肩で人形サイズになっているセレスも、クスクス笑っている。
「――ボクのせいで、キミに大怪我を負わせてしまった。あの姿のボクがただの幻だと知っていれば、虎の化神に背を向けることもなかっただろうに……すまなかった」
ユーリは、隊長の負傷について本心から責任を感じているらしい。
そのような、と隊長はまた慌てた。
「陛下が頭を下げることではございません!俺の鍛錬が足りなかっただけです!」
「種明かしをすると、川に飛び込んだ後、ボクはそのまま水の中にいたんだ。セレスの力を使えば、水の中でも潜むことが可能だったから――無論、ボクの体力が尽きて紋章が使えなくなれば、それも不可能となってしまうが。せめてキミたちの妨げにならないよう、ずっと水の中に潜んでおくべきだと分かっていたのだが……あの男がボクの真上に立った時、右足のくるぶしに紋章が見えてしまって、それで」
それで、ユーリは虎の宿主に攻撃を仕掛けた。ちょうどあの男は、負傷したバックハウス隊長を仕留めようとしていたから、それを妨害する意味も込めて。
ユーリと隊長のやり取りをじっと見つめ、グライスナー参謀は考え込む。
ムートを通してユーリたちの様子は見ていたし、手当ての合間に隊長からも改めて話を聞いた――それで、彼もずっと考えていたことがある。
「……陛下。私たちへの気遣いは無用で正直にお答えいただけませんか。もしや私たちがしたことは……陛下の足を盛大に引っ張る行為だったのでは」
少し気まずそうに話すグライスナー参謀に、目を見開いてバックハウス隊長も振り返った。
霧で目くらましをし、水鏡で幻を作り出す。
それだけの能力に長けていて……まったく活かせていない。それは、ユーリの足を引っ張る何かがあったから。
……認めるのは非常に気まずいが、自分たちが助けに行ったのは、ユーリにとって逃げ出す機会を奪うだけの足手まといでしかなかったのでは。
「あの能力があれば、陛下はもっと早く、安全にあの場から脱出できたはずだ。それをせず、なぜかグダグダと留まっていた――陛下を守るために現れたおまえと、おまえの部下たちを逃がすため、陛下は自らを囮にするしかなかった」
グライスナー参謀が苦々しい思いで説明すれば、目に見えてバックハウス隊長の顔から血が引いていく。
戦場では恐れ知らずの勇猛果敢な男に、本来なら有り得るはずのない表情だ。彼も、自分のしでかした失敗を理解し、青ざめている。
ユーリは曖昧に笑い、彼女の肩に乗るセレスは目を逸らしている。
……それで、返事は十分だ。
「申し訳ありません!」
地面に額をこすりつけんばかりに頭を下げるバックハウス隊長に向かって、身体に障るぞ、とユーリは声をかける。
彼女の優しさと寛大さが、いまだけは痛い。
「俺が……俺が、陛下を窮地に追いやる存在になるなど!言語道断の愚行!どのような罰でも!いえ、むしろ、俺のような愚か者は陛下のお心のまま、存分にお裁きください!」
「今回のことは、私にも責任がございます。陛下の器量を侮り、浅はかな考えでバックハウスを焚きつけたのは、他ならぬ私なのですから」
グライスナー参謀も膝をつき、頭を下げた。
失敗した時の責任を負う覚悟はできていた。だがまさか、そもそもが余計な思い付きであったとは……。自分は何もせず、ユーリに一任してしまうことこそが正しい道だった……。
「なに?なんかあったの?」
天幕の入り口から、ヒスイがひょっこり顔を覗かせてる。こら、と少年の宿主がヒスイの振る舞いを注意していた。
「すみません――バックハウス隊長を僕たちも見舞いに来たんですが、声をかけるタイミングがなかなかなくて、さっきからずっと外にいたんです」
ナーシャがおずおずと天幕に入ってくる。ヒスイは平伏するバックハウス隊長にニヤニヤ顔で近づき、なんかしたの、と面白そうに尋ねた。
「僕って遠い国からこっちに渡ってきたんだけど、僕が最初にいた国だと、相手に謝罪する時は腹を斬るのが一般的だったよ」
「腹か!陛下のためならば、腹のひとつやふたつ!」
さっと剣を取ろうとするバックハウス隊長を、本気にしちゃダメですよ、とすぐにナーシャが止めに入る。
「ヒスイも。隊長は真面目なんだから、冗談でもそんなことを言っちゃダメだろう」
ナーシャに咎められても、ヒスイは素知らぬ顔だ。
「キミたちの謝罪は受け入れた。ボクは怒っていないし、キミたちの行いが、許しを乞うべき行為だったとも思っていない。たしかに、皇帝の命に従わない家臣は問題だ。だがボクは、ボクの命令を忠実に聞き入れるだけの人間が欲しいわけではない。キミたちの心や感情を、封じ込める真似はしたくないな」
ユーリは明るく笑って言い、隊長も参謀も、彼女を黙って見つめた。
「ボクを助けようとしてくれたのだろう?ボクはキミたちに感謝している。だから……ひとつしかない腹を、斬ってしまわないように」
その言葉に、バックハウス隊長の涙腺が決壊した。敬愛するユーリの寛大さに、改めて感激しているようだ。
……彼女の度量の広さは甚だ同意だが、滂沱の涙を流す友に、グライスナー参謀は謝罪中の身であることを忘れて後退ってしまった。
「カルタモ軍は、どうやら本当に撤退したようだ。国境の向こうに戻ったと、偵察部隊から報告があった。ディートリヒの姿は確認できていないが……あの紋章使いたちがディートリヒを迎え入れることに言及していた以上、恐らくは」
「そうか。向こうが退いてくれたのならば、こちらも追う理由はないな。消耗し過ぎた――今回は、ボクらも大人しく撤退すべきだろう」
天幕を出て、ユーリはナーシャと二人で話していた。
カルタモ軍が撤退してくれたのなら有難い。
あのカルタモ公なら、調子に乗ってさらに攻め入ってくるかとも警戒していたのだが……今回は、完全に傍観者を決め込むつもりで参加したらしい。
いくらユーリとバックハウス隊長が大きく疲弊し、予想外の裏切りに動揺していたとしても、帝国軍に無傷で勝利することは不可能だろう。向こうも不毛な消耗戦となるのは目に見えているし、それで得られるものを考えると……やはり、さっさと切り上げてしまうほうが賢明か。
ローゼンハイム帝国の皇位継承権を持つディートリヒがカルタモについたのだ。まずは正面切って戦うよりも、それを有用に活かして帝国――ユーリの評判を貶めにかかるだろう。
「……ディートリヒは、どうして君や帝国を裏切ったんだろう」
カルタモの今後の動きについて考えていたユーリは、ぽつりと呟いたナーシャの言葉に顔を上げた。
「叔父上のことを持ち出していたが……どうだろうな。不仲な親子だったとは聞かないし、父親に情はあっただろうが……ボクも、彼がその程度で帝国まで裏切る人間だとは思っていなかった」
ユーリを個人的に恨んでも、外国と手を組み、自国を裏切るだなんて。そこまで父親に思い入れがあったようには見えなかったのだが……。
離れたところから、フェルゼンはユーリを見ていた。
思いもかけぬ変化が起き、最初の世界よりもユーリは危険に晒されることになってしまった。
それにはひやりとさせられたが、結果的には、悪くはない流れになっているのではないだろうか。
最初の世界――ディートリヒの裏切りを目撃したのはユーリだけ。帝国のほとんどの者は、ユーリから語られたことで彼の裏切りを知った。
だから……中には、ユーリが悪意を持ってディートリヒを裏切り者に仕立て上げているのではないか、と邪推する人間もいた。
突然ディートリヒは姿を消し、裏切りの事実を見た者は他にいなかったから。
戦場でカルタモ側についたディートリヒを見て、ようやく彼の裏切りが事実だと知る――今回は、バックハウス隊長やグライスナ―参謀を始め、多くの者が目撃している。
無防備なローゼンハイム帝を騙し討ちにかける姿まで見られているし、帝国軍にも被害は出た。特にバックハウス隊長の部隊は、同僚を何人か殺されているのだ。ディートリヒを許すことはないだろう……。
「フェルゼン」
ナーシャと話していたユーリがフェルゼンの姿に気付き、こちらに呼びかけてくる。
「そろそろ陣を引き上げる。キミも片付けを手伝ってくれないか」
「分かった」
ユーリに呼ばれ、フェルゼンも彼女のもとへ向かった。
ディートリヒが裏切るという結末は変わらなかった。
だが、その過程はまたしても大きく変わった。この変化の積み重ねが、ユーリが歩む道に大きな影響を与える。
……しかし、そろそろ結末も変わり始めなければならない。
ユーリと並んで歩くナーシャを、フェルゼンはちらりと見た。
このまま最初の世界と同じ道を辿るのであれば、次はナーシャが彼女のもとを離反する――それは阻止しなくては。
ナーシャが離反すると、ローゼンハイム帝国はエンデニル教団と共に、彼と……彼が率いるオルキス王国軍と戦うことになる。
エンデニル教団――枢機卿クレイグ・ローヴァインとユーリがさらに接近することになってしまい、親しい友を討つ苦悩に加え、彼女はますます精神的に追い詰められてしまう。
帝国が国内での戦いに戦力を割けば、カルタモ側に帝国につけ入る隙も与えてしまうことになるのだから、この争いはユーリの治世に大打撃を与えるだけ。
果たして、次こそは結末が変わるか――変わらなければ、自分が巻き戻ってきた意味もなくなってしまう。




