交差 (2)
ディートリヒと共に本陣に残ることになったユーリは、準備をする兵たちを見回っていた。
兵たちの士気は高く、気力に満ちている。統率もしっかりとれているし、大きな問題は見受けられない。
だから、彼らを導くべき立場にある皇帝が、兵たちに不安を感じさせるようなそぶりは見せるべきではないと分かってはいるのだが……。
一通り見て回った後に、ユーリはディートリヒの隊を見に来た。
ディートリヒはユーリが来たことに気付いていないみたいで、何やら部下たちと熱心に話し合い、ユーリに背を向けたままだ。
声をかけることなくディートリヒを見守っていたが、ふと、彼の左手の手甲が気になってそっと手を伸ばす――ユーリの手が触れた途端、ディートリヒが驚愕して振り返り、思いきり手を払いのけてきた。
ユーリも驚いたがディートリヒも目を見開いて動揺をあらわにしており、互いに目を見開いて相手を見つめていた。
「すまない。キミの左手の手甲にヒビが入っていたものだから、気になって」
「あ、ああ……そうだったのか」
ユーリが言えば、ディートリヒも自分の左手を見て、初めて気付いたようだった。
恐らく戦闘に支障はない程度ではあるが、ディートリヒの手甲に小さなヒビが入っている。新しいのを作らないと、とディートリヒも小さく呟いた。
「……俺のほうこそ悪かった。やはり戦場に出ると、ついピリピリしてしまって」
「ボクの輝きを間近にしたら、動揺するのも無理はない。心の準備が必要になることを、すっかり失念していたよ。ボクも、緊張していたのかもしれないな」
「おまえは戦場に出ても相変わらずだな」
ディートリヒは苦笑し、ユーリは笑う。
それは普段と変わらない光景……だったが、ディートリヒと別れた途端、ユーリは考え込んだ。
「あの時のボクと、同じ反応だな……」
ポツリと呟き、以前、自分が同じようにディートリヒの手を払いのけてしまった時のことを思い出す。
あの時の自分は感情に翻弄され、自分へと伸ばされた手に思わず嫌悪感を抱いてしまった――ディートリヒに思うところがあったわけではないのだが、誰かに……特に男に触れられるのが、堪らなく不快だった。条件反射のように手を払いのけてしまって。
……果たして、いまのディートリヒの行動の意味は……。
一部始終を見ていたグライスナー参謀は、静かに彼女に声をかけた。
「陛下。何か気になることでもございますか」
「うむ……少し。残念ながら、キミたちに話す段階にまで至っていないのだ。見て見ぬふりをしてくれたまえ」
そう言って、ユーリはいつもの笑顔に戻る。
疑惑を抱いてはいるが、彼女もまだ確信は持てていないらしい。それが何か、グライスナー参謀にも分かるような気がした。
――ディートリヒのことだ。
彼の挙動に、かすかだが違和感がある。具体的にどう感じるのかと言われれば、何となく、としかグライスナー参謀も答えることができないのだが。
しかし、ユーリも同様の違和感を抱いているというのなら、自分の気のせいで打ち切るわけにもいかない。ユーリですら周囲に打ち明けられないことではあるが、できるかぎりの手は打っておくべきだ。
参謀は、カルタモ軍の本陣に向けて出発を進めているラファエル・フォン・バックハウス隊長の部隊を探した。
馬の準備をしているバックハウス隊長を、ちょいちょいと手招きして呼び寄せる。
「ラファエル。リンデンベルク伯の部隊から離れ、信頼できる部下たちを連れてこちらへ引き返してくることはできるか」
「なんだいきなり」
周囲を気にするようなそぶりでこっそりと声をかけてくる友に、バックハウス隊長も声をひそめた。
……あくまで気持ち程度だが、普段の声量に比べれば小声である。
「ディートリヒ殿下のことだ。少し気がかりなことがある……陛下の御身に関わることゆえ、万一を考えておまえに備えておいてほしいのだ」
「コンラート……おまえ、まさか……」
友人のコンラート・フォン・グライスナーが何を懸念しているのか隊長も察したらしく、眉を潜める。
根拠はない、とグライスナー参謀も念を押した。
「あるのはただ俺の勘だけだ。だから、おまえにだけ話す。おまえ以外に、話すこともできぬ。俺は、ディートリヒ殿下を疑っている――今回の殿下は、いやに積極的に意見を述べ……俺たちを誘導していたように感じられた」
ディートリヒの意見は、カルタモ軍の本陣を目指すことでナーシャたちを引き離し、ユーリを孤立させようとしている――という側面もある。
もしこれでディートリヒが裏切れば、自分たちは帰るべき場所を失って、敗走することになってしまう。
……なぜディートリヒが裏切るのか、その理由は見当もつかないのだが。
「うーむ。殿下も成長なさっただけではないか?この一年で実戦経験も積み、ユリウス陛下から良い刺激を受けた……と、俺は考えたい」
眉間に皺を刻み、バックハウス隊長は考えているようだ。安易な結論は危険だと、彼も理解している。
鵜呑みにするのも、頭から否定するのも、どちらも非常にまずい選択だ。だから、隊長も珍しく頭をフル回転させていた。
「おまえの意見にも一理以上の説得力はある。俺が邪推し過ぎているだけだと、突きつけられてしまえばよいとも思っている。そして俺の勘が大外れだった場合……大きな被害を生み出すことも……」
バックハウス隊長を本陣に戻すということは、共にカルタモ軍の本陣を目指していると思っているナーシャの部隊に負担を強いることになる。
特に今回は、ディートリヒへの疑いを公言できないから、ナーシャに説明することはできない。
一歩間違えれば、軍を半壊させてしまう可能性も……。
「リンデンベルク伯の動向からも目を離さず、最悪の事態も想定しておく――参謀でありながら、陛下の指示も仰がない俺の独断だ。責任を取る覚悟はある」
「見損なうな」
参謀の言葉を、バックハウス隊長は険しい表情で一蹴した。
「帝国兵団の隊長は俺だぞ。俺の役目は、参謀の意見をもとに決断を下し、全力で遂行し、選択の責任を負う。俺の言葉一つで何万という兵士を戦場に送り込むだけの地位に就いているというのに、その重みが分からないほど馬鹿ではない」
「そうか――そうだな。悪かった。おまえを侮り過ぎた」
バックハウスという男は、楽天的で脳筋というか単細胞というか、深く物事を考えるのが苦手なタイプではあるが、決して無責任ではない。
それは知っていたつもりだが、今回ばかりは自分も及び腰になってしまい、つい予防線を張るような真似をしてしまった。
グライスナー参謀が詫びれば、バックハウス隊長は笑い、しかしすぐに神妙な面持ちに戻った。
「俺はおまえの勘を信じる……が、今回ばかりは大外れであることを祈るぞ」
「それは俺も同意だ。失敗を期待して作戦を提言するなど言語道断の行為だが、この勘だけは、当たらないでいてほしいものだ」
カルタモ軍の本陣へと向かうナーシャとバックハウス隊長の部隊を見送った後、ユーリはセレスと共に天幕で待機していた。
……待つだけというのは、ちょっと苦手だったりする。
「ムートは飛んできていないか?」
「いまのところ、姿は見えないな。ヒスイとフェルゼンは、順調に行軍を進めているようだ」
二人の気配を探りながら、セレスが言った。
そうか、とユーリは頷く。
フェルゼンもナーシャたちと共に行ってしまい、グライスナー参謀は連携を取りやすいよう、中継地点まで移動している。本陣に残っているのは、ユーリとディートリヒ――それから、彼の部隊だけ。
「ユリウス、ちょっと気になる場所を見つけた。確認のために、おまえも同行してくれないか」
天幕の外からディートリヒが声をかけてきて、ユーリはそれに応え、外に出る。
ディートリヒは武装しており、同じく武装したままの部下を連れていた。
「いまのボクは、本陣から離れるべきではないのだが」
「分かっている。場所はすぐそこだ――だから早急に確認してほしいんだ。先遣の偵察隊の見落としかもしれない。放置はできないだろう」
ユーリはセレスにちらりと振り返り、彼女が頷くのを確認してディートリヒに同行する。
――四方を彼の部下に囲まれて。
ディートリヒに連れられて向かった先は、本陣から十五分ほどの、裏手にある崖。
帝国軍の本陣は、よじ登ることも不可能な高い絶壁を背に設置されており、開けたそこは、非常に見晴らしがよい。
落ちたらひとたまりもないというほどの高さ……下は生い茂る木々で、まったく何も見えない。ここに敵軍が潜んでいたら、察知するのは不可能だろう。
……崖登りができる化神でもいなければ、下に潜んでいたところで行動を起こすことも不可能だが。
「日が曇って、冷えてきたな。山の天気は変わりやすいと聞いていたが……朝はよく晴れていたのに」
崖から見える空を眺め、ユーリが呟く。
冬が近く、空は雲が覆って灰色だ。この光景も情緒はあるが、いまは……帝国軍の心情を表すかのようでもあって、ユーリはひそかに笑う。
「不変のものなどこの世には存在しない。だからボクは、ローゼンハイムの皇帝としてその輝きを失わぬよう、常に努力しているつもりだ。輝きが足りぬというのなら、さらに輝いてみせよう――いましばらく、ボクの光の可能性を見届けてみてはどうだ。結論を急ぐ必要はないんじゃないか」
振り返って不敵にも笑ってみせるユーリに、ディートリヒの目は険しくなるばかり。
腰に提げた剣に手をかけ――彼の部下たちは、すでに武器を抜いている。セレスも、紋章で作り出した武器を帯刀していた。
……ナーシャたちが出発した時から、セレスの力は一部解放してある。何事もなく終わることを期待しながら。
「……ユリウス。首が胴体に繋がっている間に答えろ。なぜ、俺の父を殺した?」
どこでそれを知られてしまったのやら。
迂闊だったな、と思いつつも、どこかで気付かれるだろうとも思っていた。
最初にはっきりと疑惑をぶつけてきたのがディートリヒだったというだけで、きっと他にも疑惑を抱いている人間はいる。それでも、ディートリヒだけには知られないように努めるべきだった。
「ディートリヒ。ボクはそれに答えるつもりはない。なぜなら、ボクはすでに叔父上の死の事実を語っている。あとは、キミがそれをどう受けとめるかだけだ」
ユーリが何をどう語ろうと、あとは受け取り手の解釈次第。
ディートリヒがユーリの言葉を信じられないと言うのであれば……それがすべてだ。反論も、反証も、するつもりはない。
傲慢なユーリの態度に、ディートリヒの怒りがカッと燃え上がるのを感じた。
「そうか……なら、俺は俺の結論を出すだけだ。ユリウス――貴様は、ローゼンハイムの皇帝に相応しくない!俺は、おまえのような人間を主君と仰ぎ、その下につくことを認めない!」
ディートリヒが剣を抜き、セレスはユーリの前に立ち塞がって、ディートリヒと対峙する。
腰抜けめ、とディートリヒがユーリを罵った。
「剣の腕では敵わぬからと、化神に頼るなど……!」
「まともに戦っては、ボクに勝ち目はないからな。戦争とはそういうものだろう――敵を上回る戦力を用意して、戦場に赴く。それができない指揮官では、兵を率いる資格もない」
そしてきっと、ディートリヒのほうもユーリに――化神のセレスに対抗する術を用意しているに違いない。
彼一人が、突発的に思いついて実行できる計画ではない。
いったい何が飛び出してくるのか。ユーリも身構える――セレスと二人だけで、自分はこの場を乗り切らなくてはならないのだから。




