誰も知らない
ラングハイム城から脱出した後、オレークは男を連れ、自分の戻りを待っていた仲間たちと合流した。
他のオルキス人たちとも合流できて、男はホッとしていた。
「助かった……!さすがはカルロフ将軍だ……俺、もうダメかと……」
緊張感と恐怖から解放された男はヘラヘラと笑い、気安い口調で話しかける。自分を見るオレークが、冷たい目をしていることにも気づかずに。
「それにしても……あの野郎!売女のドロテアと言い、あいつと言い……オルキスを裏切る売国奴共め――」
悪態を吐く男は、言葉を失った。
喉を掻き切られ、真っ赤な鮮血を飛ばして倒れ込む――ひゅーっと掠れた音を立てて息をし、男は仰向けに倒れ込んだまま、動けなくなった。
「まだ息があります――トドメを」
オレークの振る舞いを仲間は咎めることなく、むしろトドメを刺してしまうよう言葉をかけた。
剣を収め、冷たい目で男を見下ろしながら、不要だ、とオレークは言い捨てた。
「この出血量ならば間もなく死ぬ。そうでなくても、血の臭いを嗅ぎ付けて獣もやってくることだろう――いっそ、このような腐肉を食わされる獣のほうが気の毒というものだ」
あえて急所は外し、化神が、自分の攻撃に合わせて逃げられないよう男の足の腱も斬っておいてくれたのだから。
自分の犯した罪を悔い改める時間ぐらいは、与えてやることにしよう。
オレークの言葉に仲間たちも頷き、すがるような目を向ける男を放置して、みなその場を立ち去った。
目を覚ました時、ユーリはナーシャの腕の中にいた。
もぞもぞと動いてみると、ナーシャの腕はあっさりユーリを離す。見上げてみれば、彼は寝息を立てて眠っていた。
むに、と頬を軽くつねってみても、ナーシャはわずかに眉を動かすだけで目を覚ます様子はない。
なんだか面白くて、ユーリは起き上がってナーシャの顔や髪に悪戯をしてみた。
サラサラの髪を撫でると、隙間から耳が見える。
……そう言えば、ナーシャは耳を覆う髪型をしているから、彼の耳は見たことがなかったかもしれない。指で突くと、ナーシャがわずかに頭を振った。
「……くすぐったいんだけど……」
眠そうに目を開けて、ナーシャが抗議する。ふふ、とユーリは笑った。
「実に触り心地の良い耳だ」
「あの……あんまり触らない方が……。耳って、性感帯らしいし」
「そうか。それを聞いたら、ますます止められないな」
「こらこら」
止めるどころかさらに耳をふにふにするユーリに、ナーシャは苦笑した。
「おはよう。よく眠れたようだな」
頬杖をつき、改めてナーシャの顔を見下ろして、ユーリは笑う。ナーシャも笑い、起き上がってユーリの頬に挨拶のキスをした。
二人で着替えをし――ナーシャは自分の服をさっさと着終えて、ユーリの着替えも手伝う。丁寧に襟も整えた後、今度はユーリの髪に口付けていた。
二人で部屋を出ると、扉のすぐ外にはセレスとヒスイが。
「……ずいぶんすっきりした顔だね。昨日は死にそうな顔してたくせに」
腕を組み、ジト目で自分を見てくるヒスイに、ナーシャがまた苦笑いする。
「我ながら単純だっていう自覚はあるよ」
「ま、いいけどね」
ヒスイが肩をすくめる。
二人もおはよう、とユーリは笑顔でセレスたちに挨拶した。
「――さて。帝都への出発の刻限が迫っている。レナート、キミはバックハウスと合流し、帰還の準備を手伝ってきてくれ。ボクはグライスナーと話してくる」
「ああ。じゃあ、またあとで」
ナーシャとヒスイと別れ、ユーリはセレスを連れてグライスナー参謀を探しに行くことにした。
いまはムートと一緒だろうか――化神同士なら気配が追えるから、ムートを追って、セレスがグライスナー参謀を探してくれている。
ムートは参謀と一緒にいたので、すぐに見つかった。
「グライスナー。間もなく出発しようと思うが、状況は?」
「陣はすでに片付け終わり、兵の一部は帝都へ出発しております。私たちも、あとは陛下の号令を待つばかり」
「うむ。城に残る者も決めたことだし、みなを集めて出発を」
言いかけて、ユーリは言葉を切る。何も言わないが、グライスナー参謀は自分に話したいことがあるのではないかと感じて。
ユーリの視線を受け、グライスナー参謀が口を開く。
「逃亡を許してしまった最後の一人が、先ほど遺体で発見されました。かなり獣に食い荒らされた状態ではありましたが、あの男で間違いありません」
「そうか。確認できたのなら幸いだ。これで、この城の者たちも安心して過ごせる」
色々と気になる状況ではあるが、全員が確実に始末できたのなら、それで解決だ。
かすかに笑うユーリに、声を落として参謀が話し続ける。
「男を逃がしたのは別のオルキス人です。リンデンベルク伯とは面識があるようでしたが」
グライスナー参謀の肩にとまっている文鳥が、「ちゅんっ!」と鳴く。どうやら、この化神が見ていたらしい。
ナーシャの様子を見守るために城を飛び回り、彼が誰かと対峙している光景を。
「それが誰なのかは分かっているのか?」
「いえ。さすがに距離があり過ぎて」
グライスナー参謀は、化神のムートと視力を共有できるそうだ。ムートを通して、彼はナーシャたちの様子も見ていた。
ただ、自分が優先すべきは城内のならず者たちを始末して、城主一家を救うことであったから、それの追及はできず、はっきりとしたことは報告できない。
だから誰にも話さず、ユーリにだけ打ち明けたのだ。
「……そのことは、一旦忘れるように。ボクも気になることはあるのだが、まだ確信のない話ばかりでみなに説明できずにいる。少なくとも、現段階でレナートはボクたちの仲間であり、確証のないことで嫌疑をかけ、彼からの信頼を損なう真似はしたくない。ノイエンドルフには、ボクから話しておく――彼への報告を怠ると、あとが怖いからな」
最後はちょっとおどけたように言い、グライスナー参謀は静かに頭を下げる。
ユーリも、何かに気付いている。なら、自分があれこれ邪推して、余計な気を回す必要はない。
「特に、バックハウスには話さないように。対応を未定にしている秘密を教えられても、彼は混乱し、困惑するだけだ」
「御意に」
ユーリの言う通り、バックハウス隊長は、そんな秘密を教えられても困り果てるだけだろう。自分はどうすればいいのか――秘密を守り、沈黙を貫き通すなんてことは、彼が最も苦手としていること。
……教えないほうが、彼への優しさである。
ローゼンハイム帝国西側に隣接するカルタモ公国。
かつては間にライス王国を挟んでいたが、王国を長年支え続けてきた将軍は戦死し、ライス王も命を落とし――泥沼の後継者争いで国は荒れ果て、その混乱に乗じてカルタモ公国に国土を奪われ、もはや国としてのかたちを成していなかった。
カルタモ公エルネストは、カルタモの発展に大いに満足していたが……ひとつ望みが叶えば、次の欲がわき出すのが人間というもの。この勢いで、ぜひローゼンハイムからも何かを頂戴したいところ。
とは言え、彼も君主としての器量はある。
まともに帝国に戦を挑んで、勝てるはずがないぐらいの計算はできた。
「なにせ、帝国にはフリッツァーの化神を倒してしまうだけの化神が彼女を守護しておるのだ。それも複数。皇帝自身も化神持ちの紋章使いとなれば、勝ち目が思いつかん」
対面する使者に、エルネストはひらひらと手を振る。
使者は帝国との共闘を申し出てきたのだが、カルタモ公エルネストはそれに乗る気にはなれなかった。
彼らの支援は有難い。彼らの協力があれば、ゼロであった勝率が多少は可能性が出てくる。
それでも、絶望的な数字であることに間違いはない。
彼らが全面的に帝国軍と戦い、自分は勝利の手柄だけを掠め取ればいいのであれば、賛同してもいいが。
――そんな主君の内心を、カルタモ宰相は感じ取っていた。
欲深い男だが、自分の強欲さはよく自覚しているし、時期を待つ辛抱強さはある。主君としてはなかなか有能な男であると、宰相を始め臣下たちも評価していた。
「化神ならば、私たちにも対抗する術がある。化神持ちの紋章使いぐらい、教団には大勢いるのですから」
使者が、胸を張って言う。エルネストは愛想の良い笑顔を貼り付けながらも、そりゃそうだろう、と内心忌々しく思った。
大紋章は、エンデニル教団が管理しているのだ。国で手に入れたものも、何だかんだと口を挟んできて取り上げようとしてくる――エルネストも、教団の機嫌を取るためにいくつか寄贈した。
カルタモ公国のために利用したいところを、断腸の思いで。
まだ君主として若い自分は教団の機嫌を損ねるわけにはいかず、身近に適性のある者もいないことだし、と何とか自分をなだめての、仕方のない決断だった。
「化神も恐ろしいが、やつの臣下も化け物揃いだぞ。フリッツァーを倒したリンデンベルク伯、戦況を広く、確実に把握するグライスナー伯……いとこディートリヒとて兵をよく統率し、戦場を駆け回っているし……何より、ラファエル・フォン・バックハウス伯の脅威には、我が国も何度か泣かされたことがある。クリアせねばならぬ問題が山積みだ」
化神さえどうにかなれば勝てる相手、というわけではない。
ローゼンハイム帝には、彼女に忠誠を誓う臣下が大勢いる。どれもつわもの揃い……それらをすべて越えて、ようやく皇帝本人にたどり着けるというのに。
目の前の使者は、そういった事実もきちんと考えた上で計画を持ち掛けているのか――いささか……いや、大いに疑わしいところがあった。
根拠のない自信で、自分たちが勝つと信じているような。
「エルネストの話す通り、皇帝ユリウスを討つためには、周囲の人間を削ぐ必要がある。それに、公国に帝国へ攻め入るだけの口実も必要だ。単なる略奪者では、カルタモ公国は孤立してしまう」
カルタモ公と使者が話している場に、彼が口を挟む。一同の視線が集まるが、彼は動じなかった。
「……おまえは、ローゼンハイム皇帝の味方ではなかったのか」
「訳があってユリウス帝の味方をしているだけだ。そしていま、私には、おまえに帝国を攻めてもらわねば困る理由がある」
「ほう」
意味深に相槌を打ってみたが、彼はそれ以上話さなかった。
突然カルタモ宮廷に現れ、明日、エンデニル教団から使者が来ると教えに来たこの男――化神だから、男という定義は違うだろうか。
とにかくこの男は、使者が来て、共闘して帝国に挑もうと提案してくるだろうとエルネストに教えた。
誰もかれもがこの男を怪しみ、警戒しているが――いまも、カルタモ兵は彼を攻撃する隙をうかがい続けているのだが、それでも構わずこの男はここにいて、奇妙にもエルネストに助言のような真似をしていた。
「フェルゼン……だったか。おまえは、私に何を伝えたいのだ?考えがあるのだろう――私に帝国と戦えとそそのかすのだから」
「ローゼンハイム帝のいとこディートリヒを、帝国から離反させよう」
フェルゼンが言い、エルネストは目を瞬かせる。他の者たちも目を見開き、困惑したように互いの顔を見合わせていた。
「ディートリヒを?ユリウスとの仲は、険悪なものには見えなかったが」
帝国を裏切ってまで、あの男をユーリと対立させる。あまり現実的な提案には思えない。
エルネストは首を傾げていたが、フェルゼンには何やら確信があるらしい。
ならば……。
ニヤリと笑い、エルネストはフェルゼンを見た。
「ごめん――僕……今夜はどうかしてるみたいだ。頭を冷やしてくる――」
ユーリの視線から逃れるように背を向けたまま、ナーシャは部屋を出て行く。
バタンと扉が閉まって、一人取り残されたユーリは、呆然と寝台に腰かけていた。
ナーシャから、男としての感情を向けられた。信頼していた彼から、女として見られていた。
裏切られた――ユーリは、頭を殴りつけられた気分だった。
どうして、誰も彼も……自分を女として扱い、搾取しようとしてくるのだろうか。女として生まれたばかりに、奪われるばかりの自分……。
この出来事は、ユーリが女としての自分を嫌悪する感情を、ますます募らせる結果となった――最初の世界では。
ユーリはナーシャに裏切られた思いでいっぱいで。ナーシャもまた、復讐の連鎖を目の当たりにし、自己嫌悪を深ませるばかりで。
二人の関係に大きな亀裂が生まれ、やがてナーシャがユーリのもとを離れる未来へと繋がっていく。
巻き戻り後の世界では。
ユーリはナーシャに寄り添う選択をした。女としての自分を受け入れたユーリは、それも自分の役目と受け入れて。
過程は大きく変わった。だが……いまのところ、結末は何一つ変わっていない。
ユーリの覇道は、最初の世界と同じ道を辿っている。




