夜闇に隠れているもの
ユーリが、初めて自身が女であることを思い知らされたあの日。セレスはすぐに湯の用意をして、彼女の身を清めた。
いつも太陽のように眩しく笑う彼女が、いまは借りてきた猫の子のようにおとなしく、セレスのされるがままになって、身を縮こませて湯に浸かっている。
小さくて華奢で、いまにも崩れ落ちてしまいそうなほど頼りない背中を見ていると、胸が痛んで……あの男を、八つ裂きにしてやりたいという衝動に駆られた。
「セレス、マティアスを殺さないでくれ。お願いだから」
セレスの激しい怒りを感じ取り、湯に視線を落としたままユーリが言った。
ぎり、と唇を噛み締めながらも、なんとか怒りを内へ押し殺し、わかった、と努めて冷静に答える。
「君の生活が、あの男に支えられていることは理解している――君のためにも、やつに危害を加えるような真似は控えよう。これからは私が必ず付き添って、二人きりにしなければいいだけだ」
セレスにとっては殺してやりたいほど憎い相手だが、ユーリにとっては、それでもかけがえのない相手。
一度の過ちは許すとユーリが決めたのなら、セレスも我慢しよう。二度と、こんなことを起こさないようにすればいい。
「……でも、これを拒んだら、マティアスはもうボクに会いに来なくなるんじゃないか?」
ぽつりとユーリが呟く。
その言葉に、セレスは猛烈な怒りで頭が爆発しそうだった。
――だから、セレスはあの男が許せなかったのだ。
ユーリはマティアスを無邪気に慕っていて、こんな目に遭っても、それでも自分と一緒にいて欲しいと望んでいる。
両親に顧みられることなく、国中から忘れ去られ、孤独に辺境地で育ったユーリ。明るく笑ってみせる彼女だって、寂しさぐらいある。
マティアスがやって来ると手紙を寄こして来たら、毎日彼の到着を待ち続けて帝都のあるほうを眺め、マティアスが帝都へ帰ってしまったら、彼が去って行った方向をいつまでも見つめている。
マティアスが、もう二度と来てくれないかもしれない。
ユーリにとって、それがどれほど恐ろしいことか。あの男は、そんなユーリの寂しさにつけこんだ。
それでも、マティアスはもともとユーリが慕っていた相手であり、男女の関係を強要した、という点を除けばユーリに献身的であった。
ユーリが妊娠した時には怒りが再燃したものだが、生まれてきた子は愛らしく、無垢な愛情でユーリの寂しさを埋めたルティに免じて、許すことにした。
ルティを得てから、ユーリはいつも幸せそうだ。ルティのような素晴らしい娘の母親になれたことで、ずいぶん自信がついたようだし……いまも彼らの関係に納得したわけではないが、ユーリにとっては得るもののほうが多かった――そう自分に言い聞かせて、セレスも黙認することにした。
……あの枢機卿は、話がまったく別だ。
改めてユーリの身を清め、濡れた身体を拭きながら余計なものは残っていないか丁寧に確認していく。
うなじにつけられた歯形も、無事に消えてホッとした。
「ダメージそのものは回復できないから、今日一日は赤みが消えないだろう」
「襟で隠せばなんとかなりそうだ」
服を着て、ユーリも自身の姿を鏡で確認する。
白く滑らかな肌に、武骨なローヴァイン卿の噛み跡はよく目立つ。セレスの力で噛み跡は消えたが……マーキングのような行為を思い出すと、ユーリも眉を潜めた。
「そろそろ執務室へ向かうか。ノイエンドルフが、眉間に深い皺を刻んでボクを待っていることだろう」
そう言って笑い、ユーリはセレスを連れて部屋を出た。
宰相ノイエンドルフも、ユーリと話したいことがあるのだろう。もしかしたら、本当に仕事を山積みで用意しているのかもしれないが。
セレスは何も言わず、黙ってユーリの後ろをついて歩く。なんと声をかけるべきか悩んでいるのはユーリも察していたが、ユーリもいまは、それについて論じる気にはなれなかった。
「ユリウス!」
執務室へ向かう途中で、ディートリヒに呼び止められる。
ちょっと怒った様子で、昨日のことをいきなり非難してきた。
「おまえ、俺に任せて勝手に会場を離れただろう。おかげで、修道士たちの相手を俺一人ですることになったんだぞ。グライスナーはともかく、バックハウスはそういう面では逃げ腰だから、手伝ってくれないし」
本気で腹を立てているわけではないが、とりあえず不満をぶつけておきたかったらしい。
ユーリも笑い、すまない、と反省の色など欠片もない口調で返した。
「キミが相手ならば何も問題はないと、伝えることをすっかり忘れていた。そもそも、心配もしていなかったよ」
「おまえなあ。それでおだててるつもりか?」
そう言いながらも、ディートリヒも苦笑している。
信頼されて、悪い気はしない。
皇帝として彼女が背負うものの多さも理解しているつもりだし、自分にできることならば引き受けるのは構わない――頼まれていたら、すんなり頷いていたことだ。
ユーリの非を問いたかったわけではなく、単なる軽口……日常の、世間話程度のつもりでディートリヒも声をかけただけであった。
「ボクは本気でキミの素晴らしさを評価しているだけさ。有能なキミは、見送りも頼まれてくれるだろう?」
「修道士たちを、ニコニコ笑顔で見送れって?俺一人で?」
「できることならば、ボクもそちらをやりたい――それで忙しいと言えば、ノイエンドルフの呼び出しも断って構わないだろうか」
ああ、とディートリヒが呆れたように呟き、納得する。
「それじゃあ仕方がないな。俺がやっておくから、おまえはしっかり絞られてこい」
「……有能だが、キミはいささか薄情だぞ」
ちょっと唇を尖らせ、ユーリが言った。
結局、使者たちのことはディートリヒ任せとなり、ユーリは改めて執務室へ向かうことになった。
だがディートリヒに背を向けた途端、首筋に誰かの手が触れるのを感じて反射的にパッと振り払ってしまった。
振り返ってみれば、手を振り払われたディートリヒが目を丸くしている。
「わ、悪い。襟が曲がってたから、思わず――黙って触ったら驚くよな。おまえ、女なんだし……俺が考えなしだった、本当ゴメン」
「あ、いや」
素直に謝罪するディートリヒに、ユーリも首筋を抑え、平静を取り戻そうと努めた。
自分らしくもない動揺だった……。
「ボクとしたことが……。衣服の乱れに気付かずにいたなど、なんたる醜態だ。ボク自身の美しさに気を取られ、衣服への確認を怠ってしまった……」
大仰に落ち込むユーリに、ディートリヒが呆れる。相変わらずだな、と苦笑いし、彼とはそこで別れた。
執務室には、宰相ノイエンドルフの姿はなかった。
いまは席を外しております、と先に来ていたマティアスが、部屋に入ってきたユーリを見て説明する。
「……キミも、もう来ていたのか」
「昨夜は城へ泊まりましたので。早めに来て、書類の準備と整理を終わらせておこうかと」
そう言えば、城に泊まっていくよう、ユーリがあらかじめ彼に言いつけてあった。
使者たちの相手で忙しくなるだろうから、いちいち屋敷へ帰るのも面倒だろうし……一緒に過ごすことができたらいいな、というちょっとした下心も込みで。
なのに、昨夜はユーリのほうが姿を消し、マティアスを放ったらかしにした。彼はそういうことに疑問を抱くような男ではないけれど。
必要な書類をまとめてユーリの机に置くマティアスに近づき、後ろから抱きつく。わずかに、彼が動揺するのを感じた。
不思議そうにしているマティアスに、少しだけだ、とユーリが呟く。
抱きしめられたいとは思わない。いまは、あまり人に触られたくない。ただ……無性に、こうして何かにすがりつきたい衝動に駆られただけ。
嘆き悲しむつもりはない……自分を不幸だと思うつもりもない。でも、ずっと自分だけで立っているのは疲れる。
ユーリの宣言した通り、宰相ノイエンドルフが戻ってくる気配を感じて、ユーリはすぐにマティアスから離れた。
宰相は何も気づいていないような態度で、紅茶の用意がされたワゴンを押している。
大貴族だが、彼は自分で紅茶の準備をするらしい。
自分の屋敷以外での飲食は、基本的にしない――そんな彼の例外が、仕事の合間の紅茶。
毒を盛られないよう、普段から自分で用意しているのだ。
でも今日は、ワゴンに複数のティーカップが。
「先日、陛下がお渡しくださった茶です」
そう言って、カップに一つ注いで手渡してくる。
以前、町へ出た時に土産に買ったものらしい。口に合わない、とあの時は嫌そうな顔をしていたが……。
「やはり、私が愛用しているものに比べれば大したことはありませんでした。ですが、たまに気分を変えるために飲む程度ならば、悪くないと思いました」
後日感想を教えてくれと、彼にそう言ったっけ。
ユーリはカップを受け取り、一口飲んだ。じっと茶を見つめ……静かに答える。
「……ノイエンドルフ。どうやら、キミとボクの好みは合わないらしい」
この小娘に茶をぶっかけてやらなかった自分は、非常に寛大な大人である。
……と、その時の宰相の顔は、そんな内心が盛大に出ていた。
後に、マティアスはそう語る。人の心の機微に疎い自分でもわかるほど、はっきりしたものだったと。
使者たちが帰ってしまって、静かな城に戻った夜。
ルティの部屋を、ユーリが訪ねてきた。
「お姉様を描いてたの」
訪ねてきたユーリに、ちょっぴり恥ずかしがりなら、描いていたものを見せる。ラフ画を見て、ユーリは優しく微笑んだ。
「実に素晴らしい。ボクの美しさが、この上なく見事に表現されている」
一番褒めてもらいたかった人に褒められ、ルティは喜んだ。そんなルティを愛しげに見つめ、ユーリが抱きしめてくる。
「今夜は一緒に寝よう」
「いいの?お姉様、忙しいんじゃ……」
自分を抱きしめるユーリの腕の中から、ちらりと彼女を見上げる。
もう二人で寝るなんてこともできないものだと思ってたから、とっても嬉しい。でも……ユーリに無理をさせてしまっているのでは。
ルティでは、優しく微笑む彼女の顔から真意を読み取ることは不可能だった。
だから、ぎゅっと抱きしめ返し、ユーリの優しさに甘えることにした。
「愛してるわ、お母様」
「ボクもだよ。ルティこそが、ボクに幸福を与えてくれる姫君だ」
娘の自分では知らなかったこと――知らされなかったこと。ルティはまだ、その事実に気付かない。
男や、我が子では、ユーリを支えきれないこともあるのだと。
ユーリの運命は、まだ暗い夜の闇に包まれたままだった。




