想いが通じ合っても (3)
時計の鳴る音に、ルティたちはハッと気づいた。ユーリも時計に振り返り、もうこんな時間か、と呟く。
「さすがにもう、城に帰らないと。長居してしまったね」
ユーリの言葉に一瞬頷きかけて、だめだ、とすぐに思い直す。
ユーリの言う通り、もう帰らないといけない――でも、ここは踏ん張りどころだ。
ワガママ三昧でユーリに申し訳ない、という反省は頭の片隅に追いやり、いや!と首を振った。
「帰りたくない!もう眠いし、今日はここにお泊りしたいの!」
小走りで駆け寄り、マティアスに抱きつく。ルティに抱きつかれ、マティアスは狼狽していた。
「泊まっていけよ。雨も降り出したし、オレも、アンタたち帰すの心配だ」
「……そうだな。今回は私もシャンフの提案に同意だ」
窓に視線を向けながら、シャンフとセレスもそう言った。
しとしとと暗い空から降り注ぐ雨を見つめ、ユーリも苦笑いする。
「雨は嫌いじゃないが、ボクももう、今日は濡れるのは御免だ。仕方がない――マティアス、一晩世話になるぞ」
今夜のルティの寝かしつけはマティアスに任せ、ユーリは風呂に入っていた。
セレスに身体を洗ってもらい、大きくため息を吐く。
「今日のルティは、ずいぶんワガママだったな」
ユーリの肌に傷をつけないよう丁寧に洗い流しながら、セレスが言った。そうだな、とユーリも同意する。
「久しぶりのワガママに、正直とてもホッとしている」
辺境のあの城を出てから、ルティは我慢を強いられ続けていた。
もっと駄々をこねて、ユーリに感情をぶつけてくれていいのに、ユーリを困らせないよういつも我慢して。
だから、マティアスのところへ遊びに行きたいと自分から言い出した時、拒否する選択肢など存在しなかった。
笑顔で見送って……もしかして、あれはユーリと一緒に遊びに行きたいという意味のワガママだったのではないか、ということに気付いた。
ルティが遊びに出かけると言えば、ユーリはたいていついて行く。マティアスの屋敷なら、ルティ一人で大丈夫だと思って見送ってしまったが……了承するユーリに対し、ルティが複雑そうな表情をしたのを見て、あとからそんなことにようやく思い至った。
それで気になって迎えに来たら、すっかり引き留められてしまった。
「……マティアスは、ちゃんとルティを寝かしつけることができているのかな?」
セレスに身体を拭いてもらいながら、ユーリが呟く。
ルティは寝つきもいいし、さして難しくはないはずだが……初めてのチャレンジを、彼は無事成功させたのか。
ユーリが浴室を出た時、その答えは分かった。
「おや。もうルティは眠ったのか?」
「絵本を読み切る前には、すでに――お疲れだったのでしょう」
ふむ、とユーリは考える。
たしかに今日はテンションが高かったから、いつもより疲れて、眠りに落ちるのも早くなったと言われれば納得だが。
……深く詮索するのはやめておくか。
「うん、ご苦労。ルティの寝顔は、天使のように可愛らしかっただろう」
「幼い頃のユリウス様によく似て」
同意しながら、マティアスがそっとユーリの頬に手を伸ばす。
水気を含む髪がマティアスの指先に触れ、もう少し拭いたほうが、と忠告された。
「ずいぶん寒くなって参りましたから。お風邪を召してしまいます――というか、その恰好は……」
ようやく、ユーリの格好に気づいたらしい。ずいぶん薄着だし、着ているものはいつもの寝衣ではなく、マティアスのシャツ……。
「着替えが見つからなくて。キミのを拝借することにした」
「……申し訳ありません。突然のことだったので、着替えを用意しておくようシャンフに言いつけるのを忘れておりました」
急な泊まりだから、いつもの寝衣を出させるのをすっかり忘れていた。急いでマティアスが取りに行こうとするのを、ユーリが止める。
「もうベッドに入るだけなのに、ごちゃごちゃ着替えても仕方がない。ほら、マティアス。まだボクの寝かしつけが残っているぞ」
悪戯っぽくユーリが笑い、マティアスの腕を軽く引っ張った。
部屋を出て行こうと踵を返しかけたマティアスは足を止め、じっとユーリを見つめた後、彼女に誘われるまま奥の寝台へと向かう。
「セレス。ルティを頼む」
「分かった。シャンフと交代してくる」
苦笑いで、セレスは了承した。
ルティの見守り役をするのなら、女の姿をしているセレスのほうが適任ではあるが……それだけの理由で頼んできたわけではないだろう、ということは分かっていた。
セレスがルティのいる部屋の前に着くと、部屋からはひそひそと話し声。ルティとシャンフの声のような。
「……ルティ。起きていたのか」
セレスが入ってきたのを見て、ベッドの上でちょこんと座ってシャンフとお喋りしていたルティが、ハッと気付く。
えへ、と媚を売るように笑うルティを責める気にはなれず、セレスもまた苦笑いした。
「初心者パパのマティアスじゃ、ルティが本当に寝たかどうかまだ見極められないみたいだ。ルティが気を遣って寝たふりしたのを見て、すっかり勘違いしちまって」
「マティアス、お姉様のところに行った?」
どうやらルティなりに気を遣って、マティアスとユーリが二人きりになれるよう早く寝てあげた……寝たふりをしてあげたらしい。
ああ、と頷き、ルティの頭を撫でる。
「今度こそ、もう寝るぞ。私はマティアスのように甘くはないからな」
改めてベッドに横になるルティに毛布を掛け、トントンと優しく背中を叩く。
あの辺境の城を出てから、ユーリの話していた通り、ルティは本当に我慢強くなった。
いまも、セレスが付き添わずとも自分で横になって大人しくしている。やがて、うとうとと瞼が重くなっていって、目を閉じて大きくため息を吐き、そのまま眠りに落ちていった。
自分に圧し掛かったまま、うとうととしているユーリの髪を撫でる。
少し癖のある、柔らかい髪。幼い頃から、この髪質は変わっていない。
特に他意があったわけではなかったが、マティアスが指に絡めて弄っていたら、ユーリがもぞもぞと動いて自分を見上げてきた。
「ボクの髪ならば、今日も美しいぞ」
それは実感しているところだ。
黄金の輝きを放つ、ユーリの髪。皇族としての威厳や気品を象徴しているようでもあり、これに当たり前のように触れられる自分は、なんという幸せ者だろう、ということも感じていた。
「幼い頃のユリウス様の御髪の色は、リーゼロッテ様と同じですね」
寝かしつけをした時に触れたルティの髪色を思い出しながら、マティアスが言った。
ユーリの髪は、成長によって少し変化している。昔はもっと淡い金髪で、いまのルティと同じ色。髪色の変化と共に、自分たちの関係も変化していて……。
「ユリウス様。彼女に私が父親であることを打ち明けたのですか?」
「うん?シャンフから聞いていなかったのか?」
いいえ、と首を振りつつ、眉間に皺を寄せる。
――シャンフは知っていたのか。
ルティが、父親の正体を知っていたこと。自分にはそれを教えず……本でどつかれた頭が、まだちょと痛いような。
「ルティに気付かれてしまったんだ。ボクは、そんなに分かりやすい態度をしていただろうか」
ユーリが不思議そうに呟くが、マティアスも返事ができず、黙っていることしかできなかった。
相手の隠し事を察するというのは、マティアスの苦手としていることでもある。ユーリの気持ちに寄り添うこともできない自分には、ルティがどうしてユーリの隠し事に気付けたのか、それを理解することは一生できない気がする。
「だが最近、キミも存外分かりやすい男だということにボクも気付いたぞ。キミの心を理解する、コツをつかんだ」
「私の……ですか」
不満とか否定ではなく、果たして自分にそんなものが存在するのか、ということで首を傾げてしまう。
他ならぬマティアスが、自分の感情を理解しきれずにいるのに。
「うん。一度理解してしまえば簡単だった――キミは、ボクのことが好きで好きで堪らないんだ」
自信たっぷりに、不敵に笑ってそう言い切ったユーリに、マティアスはわずかに目を見開く。
ふふ、とユーリが愉快そうに笑った。
「シャンフ曰く、キミは感情を失ってしまって以来、自分の心が理解できないそうだな。だが心配はいらない。ボクがすべて見通し、正しい答えを導き出してあげよう」
「……はあ」
「怪訝そうだな。ボクが、間違っていたことがあるか?」
……ない、ような気もする。
彼女の誤り例を突き付けてみようかと考えてもみたが、彼女が大きく判断を誤ったことは、たしかにない。
ならば……いまの結論も、正しい……のだろうか。
「ボクの言葉に間違いはない。キミはボクを愛しているんだ」
そう言った彼女の笑顔が、どこか幸せそうで。視線が奪われ、他のことなんかどうでもよくなってしまう。
彼女の言葉が正しいのかどうか――この笑顔をわざわざ否定してまで、追究する必要はないことだけはマティアスも理解した。
「――うん。ボクは幸せだぞ」
マティアスの内心を読み取ったかのように、ユーリが言った。
……もしかして、本当にユーリにはマティアスの心などすべてお見通しなのだろうか。
そんな余計なことを考えるのは止めて、マティアスは身体を起こし、体勢を反転させる。
お、と驚いて目を丸くするユーリに覆いかぶさって、彼女に口付けた。
マティアス・フォン・エルメンライヒ――ユリウス三世の最も忠実なる臣下が処刑されて数日後。
セレスは、ユーリを城の片隅にある空き部屋に案内していた。
そこは何年も誰にも利用されず、存在そのものも忘れかけられた部屋であったが、セレスはそこに、マティアスの屋敷から持ち出した物を隠していた。
まだシャンフが健在だった頃、自分たちに何かあった時のために教えられていたもの。
「これは、他の者の目に触れてはいけないと思って。君の判断を仰ぎたい」
辺境の城で暮らしていた頃のユーリを描いた絵。生まれたばかりのルティもいる。
……ルティとユーリの関係が一目瞭然となる。だから、マティアスは自身の屋敷の中で隠匿し、シャンフも万一の事態を想定してセレスに伝えておいた。
何も言わなかったくせに……何の態度も示さなかったくせに。
描かれたものは、雄弁にマティアスの感情を語っている。彼が、どんな想いでこの絵を描いたか。
「……すべて燃やしてくれ」
短くそう言って、ユーリは部屋をあとにする。
マティアスの生きた証とも言える絵に、二度と振り返らなかった。
――マティアスがようやく自分の心に気付き、ユーリに伝えた時には、すべてが遅すぎた。
ユーリは、とうの昔に女として生きることを捨てていた。
……女の自分を、憎んですらいた。
「おーい。あんた、フェルゼンだろ?そんなとこにいないでさ、入ってきたら?」
屋敷の門の外でたたずむフェルゼンに、門の上から覗き込んでシャンフが声をかけてくる。
化神同士は気配が追えるから、やはり彼らも自分に気付いていたらしい。
「ここでいい。邪魔をするつもりはない――私が出しゃばる必要もないのだから」
「うーん。謙虚だねえ。ユーリやルティを心配して、見に来てるんだろ?どうせ空き部屋だらけの屋敷なんだから、あんた一人ぐらい、泊めたってどうってことないぜ」
するすると、ロープに吊るされた籠が降りてくる。中には軽食が。
「宿主いないと、自分で回復しないといけないから食ったほうがいいぜ」
「すまぬ」
彼の気遣いに感謝し、籠を受け取る。
――彼のこの人懐っこさが、後に破滅を招く事実には黙ったまま。




