怪物 (4)
討ち合う腕が痛む。
手綱を握りながらの攻防だから、剣は片手で握ることになり、フリッツァー将軍の攻撃を受けるたびに腕にダメージが蓄積していく。だが、退くわけにはいかない。
歯を食いしばり、ナーシャは攻防を耐えた。
武器を落とされないように、しっかりと握り締めて――そうなると、どうしても手綱を握るほうの手が甘くなる。
将軍の剛腕を防いだ拍子に体勢が崩れ、馬上から叩き落とされてしまった。
辛うじて受け身は取ったが、地面に放り出されて無防備なナーシャの頭上に、将軍は大きな剣を振り下ろしてきて。
転がって剣を回避し、懐から短剣を取り出す。それを、フリッツァー将軍……ではなく、彼が乗る大きな馬を狙って投げつけた。
大柄なフリッツァー将軍が乗る馬は、並よりもずっと大きいから、ナイフ投げの名手でなくても命中させるのは容易だった。
短剣が刺さった馬は、痛みでいななき、さお立ちになるので、フリッツアー将軍は馬を飛び降りるしかなかった。
ナーシャも急いで体勢を立て直し、地面に着地した将軍を狙って攻撃を仕掛ける。将軍は、ナーシャの一撃を容易く受けとめた。
――力比べでは、自分は彼に勝てないことは分かっている。
まだまだ経験も足りないし、実力は将軍の足元にも及ばない。
そうと分かっていても、ナーシャも退くわけにはいかなかった。ここで、自分が彼を足止めしなければ、帝国は勝てない。ユーリも、より危険な状況に追いやられることになる。
勝てるかどうかなんてことは考えず、ナーシャはただ、目の前の敵に集中していた。
――左手の紋章。光が陰る様子はない。
この若者の化神らしき姿は見えない。自分の相棒と同じく、ローゼンハイム皇帝のいる隊に回っているのだろう。
紋章の力を使い続けながら、ここまで自分に食らいついて来るとは。
敵ながら天晴、というのがフリッツァーの本心であった。
実力は自分のほうが遥かに上だが、気迫で食らいついて来る男に、油断はできない。
フリッツァーもまた、紋章の力はすでに発揮していた――想定していたよりもずっと早く、相棒は自分の力を必要とし始めた。
勝敗の決め手は、恐らく実力よりも、体力。
先に体力が尽きたほうが負ける。そしてどちらも、すでに限界は見え始めている。
だがフリッツァーも若者も、限界など見ないふりで目の前の男と戦い続けていた。
ユーリを抱えたまま、ヒスイは敵の腕から逃げ回っていた。巨大ゴリラはユーリを最優先と判断したようで、おかげさまでさっきよりは動きやすい。
……動きやすいけれど、ユーリを連れている分、制限されてしまうこともあって。
「ちっ……片手じゃ浅い……」
ユーリを抱え、長い腕を回避して敵の足もとに入り込み、巨体を駆け上がって直接相手の首を狙う――でも、片手で刀を握っているから、硬い皮膚に阻まれて大した傷にはならなかった。
敵の化神がジタバタと暴れ、ヒスイは巨体から飛び降りる。巨大ゴリラは拳がめり込むほど強く地面を殴りつけ――誰もいない場所を、なぜ――大きな手いっぱいに、土の塊を握り締めていた。
「いったい、なにを――」
最初、化神の怪力で握り集めた土の塊を投げつけてくるつもりだ、とユーリは思った。
だが土の塊は宙に放り投げられ……それを、勢いをつけて敵の化神が殴りつける――砕け散った土が飛び散り、矢のような鋭さで降り注いでくる。
セレスがバックハウス隊長の前に立ち、青い光を放つ剣を構えて大きく振りかぶった。
「頭を下げて、姿勢を低くしていろ!」
巨大な氷の壁を作って、降り注ぐ土くれからバックハウス隊長や帝国兵たちを守る。
それでも氷の壁にはヒビが入り、一部は破損して、帝国兵を襲った。
「ユーリ、しがみついてて!」
ヒスイが言い、ユーリは自身の両手でしっかりとヒスイにしがみつく。ヒスイは両手で刀を握り、もう一度巨体を駆け上がって、今度は巨大ゴリラの右肩を狙う――刀身は閃光が迸り、バチバチッと音を立てていた。
雷光を帯びた刀身で斬りつけられた右肩から、真っ赤な血が吹き出す。
敵の化神が痛みに咆哮を上げ、左手でヒスイたちを殴りつける。ヒスイはいつもの高速移動でそれを回避したが……身体にかかる負荷に耐えきれず、ヒスイにしがみついていたユーリの手が離れた。
ユーリの身体が宙に放り出されてしまい、急いで彼女をとらえようとしたヒスイに、敵の拳が振り下ろされる。
もろに攻撃を食らったヒスイは姿が見えなくなるほど遠くに吹っ飛び、地面に落ちたユーリを、今度こそ敵が狙う。
「ユーリ!」
セレスが駆けたが、ヒスイほどのスピードはない。ユーリは敵の足もと。いくらなんでも、間に合わない。
それでも、もう少しだけ近付ければ氷の壁を作って彼女の盾ぐらいは――あの拳は、氷の壁もあっさり打ち破ってしまうだろうが。
「陛下!」
最悪の結末を予想し、バックハウス隊長も血の気が引く思いで叫んでいた。
岩のような拳がユーリに叩きつけられ、あたり一帯が揺れる。砂埃が舞い上がり、一瞬、何も見えなかった。
それを、バックハウス隊長は呆然と見ていることしかできず。
……砂埃が収まった時。そこには、予期せぬ有様となっていた。
拳が落ちた場所――地面は抉れ……何もない。粉砕された……のだとしても、血や多少の肉ぐらいは残るはずなのに……。
「ユーリ!」
セレスが呼び掛けるのを見て、バックハウス隊長も、ユーリがまったく別の場所に移動していることに気付いた。
全身を甲冑に着こんだ男――たぶん、体格的に男――その腕に、ユーリがいる。
状況は飲み込めないが、とにかく、ユーリは無事だ。バックハウス隊長は大きくため息をついた。
……なんてことをしている間もなく、何かに捕まれ、身体を引っ張られる。急激に視界が変わる中を、懸命に頭を動かして相手を確認した。
血にまみれ、かなり酷く負傷しているが、自分を抱えてヒスイが猛スピードで移動している。真っ直ぐに、敵の化神に向かって。
「ゴリラ対決――絶対勝ってよね」
ゴリラとは、俺のことか!?
反論したかったが、歯を食いしばってスピードに耐えることしかできず。
バックハウス隊長と共に突撃しに行くヒスイを見て、セレスは迷っていた。
ヒスイに合わせて自分もあの化神の足止めをしないと。でも、突然現れた謎の男を放置できない。やつは、ユーリをその腕に……。
「……訳あって、皇帝ユリウスに味方する」
完全に顔を覆う兜の中から、くぐもった声が聞こえてきた。セレスは男を睨んだが、男は動じる様子はなかった。
「ユリウスをかばいながらでは、おまえたちも自由には動けまい」
「セレス、行ってくれ。キミとヒスイ、バックハウスが全力で挑めば、必ず勝てる」
ユーリにまで後押しされては、セレスも敵の化神に向かうしかなかった。
小柄なヒスイは、大柄なバックハウス隊長を軽々と担いで敵の巨体を駆け上がり、今回は頭上も飛び越える。
敵の化神は左腕を振り上げてヒスイたちを攻撃しようとしたが、ガクッと膝をついた――足元に潜り込んだセレスが、ゴリラの足を凍り付けにして、叩き割ったのだ。バランスを崩し、敵がそちらに気を取られた隙に、ヒスイはバックハウス隊長を放り出した。
「お、おい……!」
一瞬、宙をふわりと舞う。
雷が落ちるようにヒスイは急降下し、バチバチッと稲光を発する刀身を振りかぶって敵の大きな首を斬りつける。
一見、何も起きなかった――だがバックハウス隊長は見逃さなかった。
ヒスイの刀で斬られ、首の皮膚の一部が焼け付いている……あそこを狙えと言うことか!
ヒスイの意図を察し、剣を逆手に持って、自分の体重も乗せて勢いよく落下する。大柄なバックハウス隊長に合わせ、剣も並より大きい。
ヒスイによって脆くなった箇所を、長い刃が貫く。
ゴロン、と大岩が転がるように巨大ゴリラの首が落ちて地面に転がった。ゆっくりと巨体が倒れ、地響きのような音と共に大地が揺れ……敵の化神が起き上がってくることはなかった。
「諸君!我々の勝利だ!」
ユーリが笑って力強く言えば、帝国兵たちが歓声を上げる。
化神という最強の武器を失ったライス兵たちは戦意を喪失し、一気に逃げ出した。
――この戦場の勝敗は完全に決定した。
「ぐっ……!」
左手の甲に焼けつくような痛みを感じ、フリッツァー将軍が一瞬怯む。
互いに相手の一瞬の隙を狙っていたナーシャは、渾身の力で剣を振った。将軍の左腕が吹っ飛び、続けざまに首を狙う。
ナーシャ自身も、その瞬間のことは覚えていなかった。気が付いた時には目の前の身体から首が失われ、沈黙が戦場を包む。
ドッと沸く声が聞こえてきて、ついにフリッツァー将軍を打ち破ったことをナーシャは悟った。
帝国兵たちが、心からの笑顔で自分を見ている。
それを視界に捉えた後、ぐらりと足元が崩れ、自分の剣を杖のように地面に突き立てて耐える。しかし地面に膝をついたまま、ナーシャももう立ち上がることができなくて。
帝国兵に支えられながら、後方へと下がった。
フリッツァー将軍が倒されたライス軍は目に見えて士気が下がり、ナーシャの勝利で勢いづいた帝国軍に圧されていた……。
「ナーシャのほうも勝ったみたい……」
そう言って大きくため息をついたヒスイは、人形サイズへと縮んでいく。
大丈夫か、とバックハウス隊長が狼狽する。
敵の攻撃をもろに受けたから、ヒスイはボロボロだ。並の人間ならば瀕死レベルの重傷……隊長が心配するのも無理はない。
「平気。化神の僕たちは、宿主さえ無事ならいくらでも回復できるから。いまはナーシャに負担かけないようにしてるだけ」
「そ、そうか。セレス殿が縮んでるのも、同様の理由か?」
セレスも、同じく人形サイズになってしまっている。彼女のほうは目に見えた負傷はないが、疲労の色は濃い。
「力を使い過ぎた。平気な顔をしているが、ユーリも限界だ」
「陛下――そうだ、陛下!」
敵の化神を倒すことに意識を奪われ過ぎていて、すっかり忘れていた。ユーリのそばに突如現れた、得体のしれない男のことを。
ヒスイとセレスを連れて、バックハウス隊長はすぐにユーリのもとへ戻った。
ユーリは男の腕から降り、兵たちをまとめていた。
「バックハウス、フリッツァーも倒したそうだ。グライスナーから、いま連絡があった」
ユーリの肩に、白い文鳥がとまっている。「ちゅん!」と鳴いて、偉そうに胸を張っていた。
「それは、なんという朗報――いや、それはさておき!その男から離れてください!怪しい奴め!」
予備の剣を構え、バックハウス隊長は謎の甲冑男と向き合う。
フェルゼンという名だそうだ、とユーリは気楽に言った。
「助かったぞ、フェルゼン。さすがに、化神が三人も揃えば楽勝だな」
「化神……化神ですと!?」
「そうらしい。宿主のいない化神だと、先ほど自己紹介してくれた」
仰天するバックハウス隊長の肩で、本当だ、とヒスイがため息まじりに呟く。
「さっきまでそれどころじゃないから気付かなかった。こいつ、本当に化神じゃん」
「主のいない化神か。なぜこんなところに」
セレスの問いに、フェルゼンと名乗る化神が答える。
「グランツローゼの城に、会いたい者がいる……それゆえ、ユリウス帝を探して戦場を追いかけてきた」
化神同士は気配が追える。ローゼンハイム皇帝は化神を連れているのだから、それを追って行けば出会える可能性はたしかに高いだろう。
ふむ、とユーリが考え込む。
「城に会いたい者。キミはボクたちの恩人だし、それぐらいの便宜は図ってやっても構わないが」
「お待ちください、陛下。こやつ……いくらなんでも怪し過ぎます!陛下に申し出るのであれば、その兜ぐらいは脱ぐべきだろう!」
顔を隠している、というのが、バックハウス隊長にとってはかなりの不快ポイントらしい。
しばらく黙り込んだ後、フェルゼンは手を伸ばし、自身の兜をつかむ。重量のありそうな兜を脱いで……顔を見た一同は、息を呑んだ。
兜の下から現れた顔は……顔ではなかった。
肉を一切持たぬ、骸の姿。
「……元はおまえたちと同じ人のカタチを取っていたが、宿主を持たずに紋章の力を使い続けたせいか、このような姿になってしまった。この姿で人の世に現れるのは憚られたゆえ、兜で隠していたのだ」
「お、おお……」
バックハウス隊長も、そういう理由では顔を隠すのも無理はない、と納得したようだ。




