日の出は暗雲と共に (2)
ユーリが皇帝となったが、戴冠式は、ルドルフ帝の喪が明けてから。しかし、政務は戴冠式を待ってからというわけにもいかず、ユーリはすでに皇帝として日々勤めていた。
ルティも、皇帝の妹としてせっせと勉強中である。
「大陸にはかつて、マルス帝国という大帝国が存在しておりました。五百年ほど前に衰退し、国としては滅亡しましたが、その文化はいまよりも優れ、我が帝国よりも繁栄を極めていたそうです」
「大帝国はまず西と東に分裂して、東側で最も大きい国として残ったのが、ローゼンハイム」
教師の教えを、ルティは復唱する。巻き戻り前にも習った歴史――今回はサボったりしないで、ちゃんと学習しないと。
「分裂した国々は、かつての大帝国が統一されることを夢見ております。その夢に最も近いのが、我がローゼンハイム帝国というわけですな」
教師はローゼンハイム帝国を絶賛しているけれど、結局……十年後には、帝国は敗北してしまう――巻き戻り前と同じ運命を辿ってしまうのなら。
帝国も、決して弱かったわけじゃないはずなんだけど……。やっぱり、色んな人がユーリから離れて行ってしまったのが大きな原因なのだろうか。
「真面目に勉強してるんだな。感心、感心」
シャンフの声が聞こえてきて、ルティは部屋の中をきょろきょろと見回す。
自分には、セレスが付いているはず。シャンフは……ユーリと、マティアスのほうについて行ったんじゃなかったっけ?
「何をしに来た。ユーリたちの護衛役はどうした」
人形サイズとなってルティの机の上で一緒に教科書を眺めていたセレスが、呆れたように言った。
シャンフは、窓から入って来たらしい。三階なんだけどね、ここ。
「いやいや。オレもちゃんと仕事中よ?ルティを連れて来いって、ユーリが」
「お姉様が――あっ……きゃあ……!」
首を傾げていると、あっという間にシャンフに抱きかかえられ、窓から一緒に飛び出すことになってしまった。
待たないか!とセレスが怒っている。
「この人さらいめ!」
「だからユーリの命令だっての」
セレスも、窓から飛び降りた。シャンフが向かった先には、ユーリとマティアスが。
「ご苦労、シャンフ」
「本当にお姉様が……あれ。お姉様も、政務のお時間じゃ……」
ルティが首を傾げると、ユーリは清々しい笑顔で、休憩中だ、と言い切る。
遡ること五分前。執務室にて、ユーリは真面目に政務に勤しんでいた。
積み重ねられた書類を黙々と片付けていく皇帝を、宰相も自分のデスクで同じく書類を片付けながら観察していた。
――及第点ぐらいには、能力はありそうだな。
マティアスの補佐付きではあるが、ちゃんと書類を正しく処理できている。もう少し効率を上げさせる必要はあるが、慣れればなんとかなるだろう。
そう思い、自分も書類仕事に集中しようと思ったら、ユーリが持っていたペンを置く音が聞こえた。
ふう、と大きくため息をつき。
「――飽きた」
寝惚けたことを言っていないで、働け小娘。
とっさに言い返しそうになったのを、大人の対応で沈黙する。
ユーリが、もう一度ため息をつく。
「ノイエンドルフ、ボクは思うのだ。労働と休息は切っても切り離せない存在だと。人は休みのために働く。だから――ボクは休憩を取るぞ」
「取るなとは言いませんが、いつ休んでもいいというわけには参りません」
「止めてくれるな。ボクとの別離が辛いのは理解できるが、ほんの一時のことだ」
文字通り一時的な休憩なのだから、辛いと思うほどの別離でもないだろう。というか、別離というレベルなのか。
「行くぞ、マティアス!楽しい休憩時間の始まりだ!」
「エルメンライヒ候。この小娘を止めろ。後見役としての務めだぞ」
ついに堪えきれなくなった宰相が、マティアスに向かってそう言ったが、マティアスはポーカーフェイスだ。
「ノイエンドルフ公。私は十五年、ユリウス様の後見役を務め……」
マティアスが、静かに言った。
「ああなったユリウス様を止めるのは無理だということを学びました。潔く諦めましょう」
「貴様が折れてどうする」
前から思っていたが……この後見人は、ユーリに非常に甘い。彼女のこの性格は、この男にも大きな原因があるだろう。
「よし、シャンフ!やってしまえ!」
「え、何を?」
皇帝になってもユーリは相変わらずだな、とのんびり傍観していたシャンフは、突然の指名に目を丸くする。
ユーリはとってもいい笑顔だ。
「煙幕だ!」
「あー……うん。できるけど……」
やるの?と言わんばかりにシャンフがちらりと自身の宿主を見れば、マティアスは左手を掲げている。
マティアスの紋章が光り、ユーリの高笑いと共に部屋は煙幕に包まれた――ゲホゲホと宰相が咳をしている間に煙は晴れて行き、開かれた窓と……姿を消したユーリとマティアス。
……この窓、もっと頑丈な鍵を作らせよう。
「うーん。化神がいると脱走も楽だな――スリルがないのは、いささか物足りないが」
ユーリと合流した後、シャンフ、セレスに抱きかかえられて城を脱走し、ルティたちは町へと来ていた。
いいのかなあ、と思いつつも、グランツローゼの町はルティもよく知らないので、楽しげに行き交う人々にワクワクしてしまう。巻き戻り前も、城での生活がほとんどで、町を出歩いたことなんてなかったから。
「まずはそっちの通りに行ってみるか。うむ、実に楽しそうだ」
そこは、商店の並ぶ通りのようだった。
可愛らしい雑貨が並び、カラフルで、ルティの目にも楽しそうに映る。
ちらりと、自分の隣に立つマティアスを見た。マティアスの手が、目の前にあって……そーっと手を伸ばす。
ルティの手が触れると、マティアスがルティに振り返った。
ドキッとなって身を竦め、ルティはマティアスの反応を待つ。
振り払われる?と不安に感じながら彼を見つめていると、マティアスはそっとルティの手を握り返してくれた。
マティアスと手を繋ぎ、にぎやかな店を眺める。
「何か、欲しいものがございますか」
店を眺めるルティに、マティアスがそう声をかけてくるが、ルティは首を振った。
「ううん。見てるだけで楽しいから、いいの」
ルティの返事に、マティアスはちょっと不思議そうにしていたが、それはルティの本心だった。
ユーリとマティアスと一緒に、こうしていられるだけで、とても楽しい。
巻き戻り前には、存在しなかった時間……あったのかもしれないけれど、見過ごしてしまった時間。今度は、ちゃんと大切にできたらいいな。
小鳥のぬいぐるみが並ぶ棚を眺めていたルティは、丸っとした白いぬいぐるみの鳥が「ちゅん!」と鳴くのを見て、目を丸くする。
ぱちくりと目を瞬かせ、じーっと見つめると、白い文鳥は、やっぱり「ちゅん!」と鳴いて。
「ユリウス様に、リーゼロッテ様……?なぜここに――と問うのは、いささか無粋でしょうか」
ぬいぐるみだと思った鳥は、本物の鳥だった。本物の鳥と言うか……鳥の姿をした化神というか。
化神ムートと、ムートの宿主のグライスナー参謀。彼はプライベートな時間のようで、いまは私服だ。
「おお、グライスナー。ボクたちは楽しい休憩時間中だ。キミは、ホリデーを満喫中といったところか」
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。いまは、ユリウス様と呼ばせていただきます」
「うむ、もちろんだとも――良い人とのデートか?」
「人を待ってはおりますが、そんな色っぽい相手ではありません。ご期待にお応えできませんで」
ユーリとグライスナー参謀のやり取りを見ていたルティは、ドン、と後ろから男に押され、よろめく。
失礼、と男は短く言ってすぐに通り過ぎようとしたが、サッと足を出してきた少年によって転倒していた。
「オッサン!いまこいつからスったもの、出しな!」
え、とルティは自分の懐を漁る。
小銭入れがない――ちょっとしたお小遣い程度しか入ってないが、お財布そのものはマティアスに買ってもらったお気に入りだ。
男は忌々しげに舌打ちし、逃げ出そうとしていたが、今度はグライスナー参謀に腕をひねり上げられて、降参していた。
「あ、ありがとう……」
返ってきた小銭入れを手に、ルティは少年を見る。
少年も、なぜかルティを見て舌打ちする。
「おまえらも、ボーっとしてんじゃねえよ!そんなモン着て、こんなところをウロウロと……狙ってくださいって言ってるようなもんだぞ!」
ルティは自分の恰好を見た。別に、変な服は着てないはずだけど……。
「下町の商店に来るには、少し上品すぎるかもしれませんね」
男を手際よく縛り上げながら、グライスナー参謀が言った。
そうか。自分たちは、かなり上等なものを着ている――金持ちだと思われたから、この男も狙ったのだ。
「ああ、私も待ち人が来たようです――イザーク、こっちだ」
グライスナー参謀の待ち合わせ相手は、男だった。
不精気味に髪を伸ばした、猫背の男性。マティアスと同い年……ちょっと年上ぐらい?おじさんと呼ぶのはちょっとはばかられる感じだ。
「ちょっと待っててくれ。役人を見つけて、こいつを突き出す用ができた」
待ち合わせ相手に、グライスナー参謀が言った。
イザークと呼ばれた男は、分かりました、と頷く。
「では、私は先に新聞社に行っています。おや、クルト。君もここにいたんですか……一緒に戻りますか?」
少年も、グライスナー参謀の待ち合わせ相手とは面識があったらしい。
新聞社……。
なんだかその単語がものすごく引っかかって、ルティはじっと参謀の待ち合わせ相手を見つめる。
「新聞社ってことは、おじ……おにいさんは、記者さん?」
「ええ。赤烏新聞を書いてます――もしよろしければ、読んでみてくださいね」
ルティが話しかければ、記者のイザークは愛想よく笑い、丁寧に挨拶する。ルティの視線が少年に移るのを見て、イザークも彼を見た。
「この子の名前はクルト。彼も我が赤烏新聞社の一員なんですよ。いまは見習いの、見習い状態ですが」
「赤烏新聞社の、クルト」
風船が破裂したかのように、ルティの頭の奥で何かが弾けた。
一気に感情が込みあがってきて……ルティは大きく息を吸う。
「あなたが、あの……デタラメ記事を書いた、最低記者だったのね!」
赤烏新聞社のクルト。その名前を、忘れてたまるものか。
巻き戻り前の世界で、ユリウス三世の悪評を散々書き立て、下世話な醜聞を拡散し、民衆の皇帝への敵意を煽った三流記者。
ユーリのことを、あることないことないことないこと書きまくって……事実もかなり捻じ曲げて、十倍ぐらいの酷さにして。
ユーリの命を直接狙ったナーシャやディートリヒなんかより、よほど憎い相手。顔が見えない分、抱いた負の感情も、彼らの比ではなかった。
ルティにとっては、世界一軽蔑し、本気で殺してやりたいとまで思った男だ。




