動き始めたもの
「今夜は、ひとまずマティアスの屋敷に戻る」
左手のダメージが落ち着くと、休んでいた長椅子から起き上がり、ユーリが言った。
城にこのまま泊まっていけばいいのに、とディートリヒからは労わられたが、ユーリは首を振る。
「この城には泊まる予定がなかったから、部屋の準備ができていない――ここは風呂もないし、ボクの全身を映す鏡もない。最上の美を整えるのには向かない場所で休むのは今日ばかりは気が進まないし、枕が変わるのも好きじゃないんだ」
注文の多いやつ、とディートリヒは苦笑したが……ユーリが指摘したように、この城にはユーリのための部屋はない。彼女とて、れっきとしたローゼンハイム皇族なのに。
マティアスの屋敷のほうがよほど寛げる、というのは実は最もな言い分だ、と内心では誰もがそう思っていた。
「では……ノイエンドルフ公、話の続きは明日の朝……もう今日か。少し遅めに始めることにしよう。迎えもそのように手配しておいてくれ」
当たり前のように宰相に命令するユーリに対し、宰相ノイエンドルフはわずかに沈黙した後、御意に、と頭を下げる。
宰相が頭を下げる相手はローゼンハイム皇帝ただ一人であるべき――だが、彼女が宰相に命令する姿はとても自然で。
やはり、彼女がいま、皇帝の座に最も近い人間なのだということを、宰相も認めるしかなかった。
ルティを連れてマティアスの屋敷へ戻って来たユーリは、寝室まで付き添って、ルティを寝かしつけていた。
不安そうにしているルティを優しく慰め、寝台で横になる娘の頭を撫でる。
――普段ならとうに眠っている時間。幼い身体も襲い来る睡魔には勝てず、ほどなくしてルティは眠りに落ちた。
ルティが眠ったのを確認し、ユーリは立ち上がる。
「やはりマティアスの屋敷のほうがルティも落ち着くようだ。明日からはこの子も城暮らし……本当は、このままマティアスの屋敷で暮らすほうがいいのだろうが……」
そう呟くユーリを見て、ようやくセレスも彼女の真意を察した。
ユーリがわざわざマティアスの屋敷に戻ったのは、自分のためだけでなく、ルティのためでもあったらしい。
……確かに、ユーリがあんな恐ろしい目に遭った場所では、ルティも落ち着けなかったことだろう。城は知らない人ばかりで……マティアスの屋敷のほうが、よっぽど安心だ。
そして、これからもずっとここで暮らすべきだと考えている。ユーリは城で暮らすことになるだろうから、自分からは離れて……。
「セレス、ルティを頼む」
セレスは何も言えず、自室へと戻るユーリを見送る。
人形サイズで、ルティの眠る寝台の枕もとにちょこんと座り込んで。
ユーリが部屋を出ると、すぐにナーシャとマティアスに会った。二人とも、ルティのことを心配して待っていたようだ。
ルティは、とナーシャが尋ねてくる。
「ぐっすり眠っている。あの子も、今日は緊張の連続だったからね。不安や怯えも敵わないほど、疲れ果てていたのだろう。可哀相なことをしてしまったかな……」
考え込むような仕草をするユーリの顔に、ナーシャがそっと触れて眉を寄せる。
「君も、もう休むべきだ。まだ顔色も悪いし……少し熱があるんじゃないか」
大丈夫さ、とユーリは笑うが、ナーシャも苦笑いで、そう言うだろうとは思ったけど、と返す。
「ここに戻ってくる間も、隠そうとしてたけどふらついていたよ。血もずいぶん失ったんだから――彼に付き添ってもらって、もう部屋に戻って。ユーリのこと、ちゃんと休ませてあげてください」
ナーシャが振り返ってマティアスに言い、マティアスがかすかに頷く。やれやれ、とユーリは屋敷にある自分用の部屋へと大人しく戻っていき、マティアスは彼女についていった。
二人を見送ると、ナーシャの頭に人形サイズで乗っかっていたヒスイが、口を開いた。
「いいの?いつもなら、マティアスと二人きりなんて許さないのに」
「良くはない。いまだって、本当はそんなことさせたくない」
ナーシャがため息をつく。
「……でも、ユーリが一番必要としてる相手は彼だから。いまだけは、どうしても彼にそばにいてほしいはずだ」
「ふーん。いつもあいつを斬り捨ててやりたいって空気出してるくせに。君たちって、よく分からないことをするよね」
そうだね、とナーシャは同意した。
人間というのは、なんと複雑で面倒な生き物であろうか。もちろん、自分も例外ではなく。
ナーシャの指示をマティアスは従順に守り、今夜はユーリに付き添って、彼女が眠るのを見守っていた。
放っておくと、勝手に部屋を抜け出してどこかへ行ってしまう可能性もあるから、見張りの意味合いも兼ねて。
――どうせ付き添うなら、ちゃんと添い寝をしてくれ。
寝台のある奥の部屋には入って来ようとしないマティアスに向かって、ユーリはそう命じた。そして彼を自ら自分の寝台に呼び寄せ、ぎゅっと彼に抱き着く。
昔から、マティアスにこうしているのが好きだった。
成長して……これを気軽にやってはいけないのだということを思い知らされて以降は控えていたが、やっぱり人肌のぬくもりは心地いい。マティアスのものならなおさら……。
「……ご気分は」
「うん、もう大丈夫だ。キミにも心配をかけてしまったな」
今夜のマティアスは、昔のように振る舞ってくれていた。
ただ優しくユーリを抱きしめてくれて、ユーリの好きなようにさせてくれている。
こんな関係に戻れたらいいのに、とユーリはずっと思っていた。性的な触れ合いはなく……ただ、マティアスのぬくもりや匂いに包まれていられたらいいのに、と。
そう思っていた……はずだった。
「……マティアス。今夜はしないのか?」
ユーリが上目遣いにマティアスをじっと見つめて言えば、マティアスは分かりやすく驚いていた。
いつもは人形のように表情の変わらないポーカーフェイスのマティアスが、何度も目を瞬かせ、人間らしく戸惑っている。
しばらく目を泳がせて……ようやく口を開いた。
「ユリウス様がこのような目に遭われて……それでも情欲を貪るほど……私も、ケダモノにはなれません」
「そうか……」
なぜか、この答えに落胆してしまう。
それがなぜなのか――ユーリは考えなかった。答えはちゃんと分かっている。
――自分は、マティアスが欲しいからだ。
「ボクは……ボクは、したい……」
自分を抱く腕が激しく動揺するのを感じ、ユーリは俯いて縮こまる。
女の自分からはっきり言ってしまうのはまずかっただろうか。マティアスを幻滅させてしまっただろうか。
だが、一度口にしてしまったものは取り消せない。自分の気持ちも、取り消すつもりはなかった。
硬直していたマティアスが動き、寝台に押し倒されて、ユーリは自分に覆いかぶさるマティアスの首に自分の腕を回す。
近付いて来る顔を、自ら引き寄せた。
「もう一回、しないのか?時々、勝手に二回目を始めるくせに……」
「今夜は、いくらなんでも……。もうユーリ様にお休み頂かないと、セレスたちに殺されます。私自身も猛省しているところでして……いっそ、斬ってくれと頼みたいぐらいです」
「むむ」
マティアスが斬られるのは困る。
マティアスがユーリと肉体関係を持って以降、セレスやナーシャはマティアスを斬りたくてたまらないのだから――マティアス自ら斬ってくれと頼んできたら、喜んで剣を抜くことだろう。
「……分かった。今夜はもう、キミのためにもちゃんと休もう」
身体を清めてもらうと自分で寝台から起き上がり、寝衣を着る。
改めて自分に付き添うマティアスに向かって、ユーリは手を伸ばした。
「ほら。ボクにちゃんと休んでほしいのだろう?」
ユーリが何を望んでいるのか、マティアスなら分かるはず。
マティアスは眉間に皺を寄せ、無言の抵抗を見せた……が、やがて諦め、ユーリの隣に横たわる。
横になったマティアスの上にうつ伏せでのしかかって、彼の胸を枕にユーリは笑う。
昔から、ユーリはこうやって眠るのが好きだった。
――だって、マティアスのことが好きだから。
マティアスが自分をどう想っているのかは分からない。皇帝に命じられて、義務感からユーリの後見役をやっているのか……ユーリの要望を聞き入れてくれるのは、ただ彼の仕事だからなのか。いまも、それがはっきり分かったわけではないけれど。
少なくとも、ユーリの言葉は皇帝ルドルフの命令すら退けるらしい。
それを知った今夜――マティアスは何も変わっていないが、ユーリには、大きな変化が訪れていた。




