皇帝ルドルフ (1)
ユーリは目を瞑り、静かに呼吸を繰り返して、揺り返し襲いくる不快な波をやり過ごしていた。自分の頭を、ぎこちなく撫でている手を感じながら。
――昔から、看病となるとマティアスはこれをやりがちだ。
きっと、マティアス自身が幼い頃、こうやって両親から気遣ってもらったのだろう。
人の看病などどうしたらいいのか分からないマティアスは、恐らく無意識に、自分がやってもらったことを真似て。
そんなことを考えてユーリが笑うと、マティアスが不思議そうに首を傾げるのが見えた。
「だいぶ楽になった。そろそろ、ルティたちを呼び戻して、屋敷に帰ることにしよう」
「御意に」
マティアスが頭を下げ、ユーリも身体を起こす――視線が変わって、部屋に、他に人がいることに初めて気付いた。
彼の姿を見つけ、目を丸くする。
「叔父上!いらしてたのですか――申し訳ありません、気付きませんで」
ユーリの言葉に、マティアスも振り返ってルドルフ帝の姿を確認し、恭しく頭を下げる。
ルドルフ帝はマティアスにちらりと視線をやった後、ユーリが腰かける寝台に近づいてきた。
「姿が見えぬので尋ねてみれば、控え室に下がったと聞かされてな。体調を崩したのか?」
「お恥ずかしい話です。パーティーの楽しい雰囲気に飲まれ、人と酒にすっかり酔ってしまったみたいで」
愛想よく笑い、ルドルフ帝の問いにユーリはよどみなく答える。
いったい、いつからこの部屋にいたのか……どこから、自分たちのやり取りを見ていたのか。場合によってはかなり背筋が寒くなってしまうのだが、そんな内心はおくびにも出さず、ユーリは笑ってみせた。
ルドルフ帝は、ユーリの本心を探るようにじっと凝視してくる。
もう一度視線をマティアスにやり、下がれ、と短く命じた。
「マティアス」
ユーリも声をかけると、マティアスは隣へと移る。
寝室からマティアスが出て行くのを見送った後、ユーリに視線を戻したルドルフ帝は、相変わらずユーリをじっと見つめたまま、しばらく黙り込んでいた。
「……あれは、そなたによく躾けられておるようだな」
「ローゼンハイム皇室に、忠実に仕えているだけですよ。マティアスはボク個人の部下ではありません――良き友であれたら、とは思いますが」
自分を凝視する叔父の視線にも平然と笑い返す。
ルドルフ帝がさらに寝台に近づき、そばの小さなテーブルに置かれた水差しと杯を手に取った。澄んだ水が杯に注がれ……それを、ユーリに差し出してくる。
ユーリは杯を見、ふっと笑って受け取る――いま、自分を苦しめる毒を盛った張本人から、次の飲み物を差し出されるなんて。
滑稽さと皮肉さが入り混じった感情で笑って杯に口を付ければ、ルドルフ帝が口を開いた。
「……余が毒を盛ったことに気付いていても、平然と飲み下してみせるとはな。そなたは実に、我が兄によく似ておる」
水を飲み、ユーリは再びルドルフ帝を見る。
自分を見つめる瞳は、どこか遠くを見ていた。ユーリの後ろに見える、父の姿――ルドルフ帝にとっては、実兄の姿だろうか。
「美しくも傲慢で、残虐な男であった。あの男が皇帝となった時、帝国は終わると誰もが考えていた。兄が帝位に就いた時には、反逆を企てる者は絶えず、当時の宰相すら、皇帝の振る舞いに異を唱えた」
父ユリウス二世が即位していた時代の宰相。マティアスの父親だ。
さっきまで、マティアスは自身の家族のことを語っていた……そのタイミングで、叔父からも彼の話を聞くことになろうとは。
「宰相は、オルキス王国侵略に最後まで反対し、皇帝の侵略戦争に遺憾の意を示し続けた。知っておるか、ユリウス。自身の母親の祖国を」
「……名前だけですが」
オルキス王国とは、ローゼンハイム帝国の東側に隣接していた国。
ローゼンハイム帝国は、かつて大陸の支配者とも言われた大帝国が分裂して生まれた国である――この地域一帯は、大帝国から分裂して生まれた国だらけ。
どこの国も、いずれ分裂した国々が統一され、大陸の支配者へと返り咲くことを夢見ている。無論、自国がその支配権を握った状態で。
ローゼンハイム帝国とオルキス王国は、国々の中でも特に強い力を持っており、争いが絶えなかった。
しかし、長い戦の中で民は疲弊し、消耗され……三十年ほど前に休戦協定が結ばれた。
時代で言えば、ユリウス二世、ルドルフ皇帝の父親の代に結ばれたものである。いつかは破られ、再び戦の世となるだろうと誰もが思っていたけれど、それを強引に破って王国を討ち滅ぼしたのが、ユリウス二世――ユーリの父親だ……。
「母親から聞いたことがあるだろうか。兄が、どのようにしてオルキス王を討ったのか――大紋章を持つ男が敗け、紋章を持たぬ男が勝った。本来ならば、有り得ぬことだ。しかし……化神が恐るべき力を持っていたとしても、それを宿す主は所詮生身の人間よ……」
ルドルフ帝が、懐から短剣を取り出す。なぜか、それを見た瞬間ユーリはぎくりとなって思わず後退ってしまった。
なんとなく……としか、言えない感覚だ。なんとなく、その短剣に不吉なものを感じてならない。
叔父は、ユーリのその反応に笑う。
「これで紋章を破壊しろと、兄はオルキス王に迫った。その当時、兄は友好的な客として王国に招かれ、善良な篤志家を装って孤児院を訪問し、幼い子供たちに菓子を与えた――たっぷりと毒を含ませてな。毒が効き、子どもたちがのたうち回って苦しむ光景を前に、オルキス王に問うたのだ。自らの紋章を破壊して罪のない子どもを救うか、子どもを見殺しにして自分を殺すか――王として、民を守る責任者として、究極の選択を突き付けた……」
「父の逸話はボクの耳にも多数届いております。特に驚くこともない、おぞましい事実ですね」
オルキス王国は、ユーリの母親の祖国である。母は、ユリウス二世に滅ぼされた王国の王女だった。ユーリにとっても、無関係な国ではない。
……とは言え、特に愛着があるわけでもない。物心ついた時には、とうに滅んでしまっていて……ユーリには、もう歴史上の国でしかないのだから。
叔父はいったい、何を語りたいのか。気になるのはその一点だ。
いままでずっと、ユーリのことを無視していた。存在しないもののように扱っていた。実兄ユリウスに振り回され続けてきたから、そんな男によく似た姪など、疎ましい存在でしかなかったのだろう。それはいい。今更だ。
問題は……そうして無視してきた姪のもとに自らやって来て、急に昔語りをし……父親や祖国のことを、ユーリに教えようとすること。
父親を侮辱されて怒ればいいのか、それとも、そんな父親を持ったことを嘆くべきなのか。
滅ぼされた祖国のために、ユーリが復讐に走ると思っているのだろうか……。
「……不快であろう?そなたのルーツ……すべてを、余は否定している。普通の人間ならば怒り狂い、絶望し、混乱を極めて堕ちるものだ。だがそなたは平然と……見た目だけでなく、何もかも本当に、あの男そっくりだ――」
叔父の真意がつかめずじっと見つめていたユーリは、彼の瞳に狂気の光が宿るのを見た。
本能が警告を告げるが、ユーリが動くよりも早くルドルフ帝が先に行動に出る――視界が反転して、寝台に押し倒される。
自分の身体を強く押さえ込んだ叔父がのしかかってきて、ユーリは身動きが取れなかった。
「あの男、何度殺してやろうと思ったことか……毒を盛ってやったこともある。余から毒入りの飲み物を渡されたあの男が、どんな反応をしたか分かるか?いまのそなたのように、美しく微笑んで飲み下してみせたのよ。空になった杯を手に、こう言った」
――君は良い子だね、ルドルフ。
僕は君のことが、とても愛おしく感じるよ。僕は可愛い弟に恵まれたものだ。
「そなたの口調は、兄そのもの……父親のことなど何も覚えていないだろうに……血は抗えぬというものか……」
話している間にも、ルドルフ帝が持っていた短剣でユーリの服を引き裂いてくる。露わになった肌に、叔父が舌を這わせてくる――叔父が何をしようとしているのか、もはや明らかだ。
叔父の身体を押し返しながら、ユーリはセレスを呼ぼうとした。
男の力に太刀打ちできるはずもなく、押し返そうとした左手をつかまれ……叔父が、短剣を振り下ろしてきた。
左手に、ドスンという衝撃。激痛は、少し遅れて伝わってきた。
「あああああぁぁっ!」
刺された瞬間は、痛みはなかった。短剣は特殊な形状をしていて、突き刺さった後、抜けてしまわないよう傷口に引っかかる形になっている。
だから……手がわずかにでも動けば、傷口に刃が食い込んできて、より深い傷を与えてくる。
ユーリの悲鳴に、マティアスが駆け込んできた。
寝台に押し倒され、服を引き裂かれ、傷を負ったユーリ。そんなユーリに圧し掛かるルドルフ皇帝。
予想もしなかった状況に、マティアスも目を見開いている。
「……貴様を呼んだ覚えはないぞ。下がれ」
皇帝らしい威厳を保ったまま、ルドルフ帝が命令する。
マティアスは動かない。立ち尽くすマティアスを見もせず、ルドルフ帝はユーリの白い首筋に噛みついた。短剣で破いた部分に手をかけ、肌を撫でる……痛みに耐えるユーリは荒く呼吸をし、叔父の暴挙を止めることもできなかった。
「何をしておる。臣下の分際で、余の命令を拒否するつもりか――ユリウスが余に蹂躙される様を見たいというのであれば、止めはせんがな」
皇帝の命令に逆らうこともできず、しかし、素直に従うこともできないでいるマティアスを、ルドルフ帝は嘲笑する。
「……リーゼロッテは、ユリウスの娘だな。あれほど似ていて、他人は無理があろう。そんな娘に、わざわざあのようなドレスを……。貴様にしては珍しく、自己主張したものだ」
マティアスが息を呑むのを感じた。
青いドレスを着たルティを見て、ルドルフ帝はあの子が誰の血を引いているのか、悟ってしまったらしい。ユーリもマティアスも、そんなつもりはなかったが……結果的に、ルドルフ帝にユーリとマティアスの関係を教えてしまった。
それが……叔父の暴挙の、きっかけになってしまったのだろうか?
叔父の手が、ユーリのズボンのベルトにかかる。これは引き裂けるはずもなくて、ベルトを外す音が聞こえた……痛みで呻くユーリは、視界にマティアスをとらえて……思わず、すがるような目を彼に向けてしまった。
「マティアス……」
血の気を失った顔で立ち尽くしていたマティアスが、わずかに身じろいだ――。
シャンフに案内してもらいながら、ルティは城の中をウロウロキョロキョロと歩き回る。
――巻き戻り前と、大きく変化しているところはないかな。
まだ一つのフロアしか見ていないが、ルティの記憶と大きく変わっている場所はない。
十年程度だし、ユーリはこの直後に皇帝となったのだから、そんなに変化がないのは当然なのだけれど。
そろそろユーリのいる部屋に戻ってもいい頃だろうか。ルティがそんなことを考えていると、初めて人と会った。
今日は皇帝の誕生日パーティーということで、城中の人が大広間に集まっている。女官や兵士たちも、そのほとんどがパーティーの警備や雑用に駆り出されているため、ルティはいままで誰にも会わなかったのだ。
知ってる人かな?とドキドキしながらこちらにやってくる相手を立ち止まって見ていると、向こうもルティに気付いた。
やって来たのは二人の男性。見覚えは……あった。
これから十年、ユリウス三世の下で彼女に忠誠を捧げることになる男たち。
知り合いは多くないはずなのに、ピンポイントで出会うなんて。そういう運命で繋がった相手だから、十年経っても縁があったのかな……。
「んん?なんだ?こんなところに子どもがいるぞ」
体格のいい、筋肉質で大柄な男――ラファエル・フォン・バックハウス伯爵が、ルティを見て首を傾げている。
コンラート・フォン・グライスナー伯爵が、笑って説明した。
「ユリウス皇子の御妹君だろう。この城でいま、子どもがいるとすれば、彼女以外考えられない」
バックハウス伯爵は、帝国騎士団近衛騎士隊の隊長。グライスナー伯爵のほうは、そんな彼の参謀。家柄も同格だし、年齢も同じぐらいの、同期コンビらしい。
グライスナー参謀は、いかにも体育会系の筋肉男なバックハウス隊長とは対照的な色男だ。




