第三の男 (3)
ドルトラウム城に一泊し、翌朝早くには帝都へ向けて出発した。
その先の旅は、ルティもとても楽しかった。
帝国の中心へ向かっていくから、だんだん人が増えて行って、にぎやかになっていく。通り過ぎる町も規模が大きくなっていくし、治安も交通も良くなっていくから、最初の頃の気合も正直薄れ始めていた。
今夜は風呂もある宿に泊まれたから、ユーリと一緒に入って、満ち足りた気分でベッドに入った……。
夜も更け、少し冷たい風が吹き抜ける。
大きな町だから、宿もそれなりに立派だ。遠くの山並みが一望できるこのテラスは、宿一押しスポットらしい。
昼間はここで寛ぐ客の姿もあったが、この時間は誰もいない。
「ユーリ。さすがに不用心すぎないか」
一人で夜空を眺めているユーリに、ナーシャが声をかけてくる。
薄着して、とユーリの行動を嗜めながら、自分のガウンを羽織らせる――大きめのガウンを適当に着る彼女に、ナーシャは苦笑した。
「キミだって、一人でうろうろしているじゃないか。それに、いまはボクより薄着だ」
「そりゃあね。僕と君とじゃ、話が違うだろう」
「むむ。何やら理不尽な話だ」
ユーリが唇を尖らせる。そんなことないよ、とナーシャは笑った。
「ルティはもう眠ったのかな」
「ああ。町を存分に見て回り、風呂を楽しんで、食事も堪能した。すっかりすやすやしている」
「そうか。なんだか緊張しているみたいだったから、リラックスできたのなら良かった」
笑顔で頷くナーシャに、ユーリは黙り込む。じっと自分を見つめるユーリに、ナーシャは首を傾げた。
しばらく沈黙していたユーリが、やがて口を開く。
「……帝都へ着くと、ボクは皇帝になる――そんな夢を見たと、ルティが話していた」
ユーリの言葉に、ナーシャは目を瞬かせた。
「君が?たしかに、皇位継承権の順番で言えば、ありえない話ではないけど……」
「分かっている。現実的ではないと言いたいのだろう」
いまのローゼンハイム皇帝――ユーリの叔父には、息子がいる。父帝亡き後、皇位継承権の順番はユーリのほうが上であった。
でも、当時のユーリはあまりにも幼な過ぎたし、弟の叔父が継ぐのが自然な流れでもあった。その叔父には、ユーリより年上の嫡男が。
たぶん、ほとんどの人間が、次の皇帝は彼だと思っているに違いない。ユーリ自身、そうなるだろうと思って帝位に興味を示したこともなかったし。
「ユーリは、皇帝になりたい?」
ナーシャに聞かれ、どうだろう、とユーリは首を傾げる。
「考えたこともなかった。キミの言う通り、あまりにも現実的じゃなさ過ぎて。自分が帝位に就く姿を、想像したこともなかったんだ」
「それはそうだろうね」
「ボクが皇帝となると……ユリウス三世ということか。間違いなく、帝国史上最も美しい皇帝となることだろう。帝国民たちにとっては至上の幸運だろうが……ディートリヒとの対立は避けられなくなってしまうだろうか」
「ディートリヒ……君のいとこか」
ユーリは頷いた。
ディートリヒ――いまの皇帝の嫡子で、ユーリのいとこ。帝都の城で暮らしているから、ユーリも片手で数えられるほどしか彼と顔を合わせたことはない。
次期皇帝の地位に、最も近い男。周囲もそう思って彼に期待を寄せているし、ユーリよりよほど、帝王学も学んでいることだろう。
「僕と同い年ぐらいだっけ。顔を知ってはいるけど、直接の面識はないな……君と揉めそうな男なのかい?」
「いいや。ディートリヒも、帝位にはあまり興味がなさそうだった」
そう装っているかもしれないが、あからさまにバチバチやるタイプではなかった。
城に呼ばれた時にちょっと話をすることがあるぐらいで、彼の人間性を詳しく知っているわけではない。果たしてユーリより皇帝に相応しいのか、否か、それは分からない。
ただ……彼を押し退けて自分が皇帝の椅子に落下傘してきたら、諸侯たちは良い顔をしないだろう。それぐらいはユーリも予想している。
「……あくまで、ルティが見た夢の話なんだろう?深刻になる必要はないんじゃないかな」
考え込むユーリをフォローするように、ナーシャが言った。
「夢の話……か。そうだな。あくまで、夢の話でしかないんだ」
十年後から巻き戻ってきたなど、いくらなんでも突拍子もない話だ。ユーリも、全面的に信じているわけではない。
でも、ただの夢と切り捨てるには……少し、引っかかるものがある。
夢から覚めたルティは、がらりと雰囲気が変わっていた。子どもらしい無邪気さが控えめになり、はつらつとした明るさが消えてしまっている。
夢か現実かはさておき、少なくとも、悪夢はルティの心に大きな傷を与えた。それは間違いない。
そして……自分が皇帝になる可能性と言うものを、ユーリは初めて気付かされた。
有り得ないと思い込んでいたけれど、有り得ないと思うことこそが、思い込みだったのだ。
ユーリは顔を上げ、ナーシャをじっと見つめる。
「……ナーシャ。ボクはキミのことが大好きだよ。それに、とても感謝している。ボクだけでなく、ルティにも親切にしてくれて」
「どうしたんだい。急に」
ユーリの言葉に、ナーシャは目を丸くして見つめ返す。ユーリは笑って、そういう気分になった、とこともなげに言った。
「たまには言葉にして、自分自身確認しておこうと思ってね。キミがボクたちに献身してくれることを、当然だと勘違いしないように」
ナーシャは目を瞬かせ、ふっと笑う。ぽんぽん、とユーリの頭を撫でた。
「ありがとう。僕も、君たちが大好きよだ。道の先がどうなるかは分からないけれど、君たちが笑顔で過ごせる未来であってほしいな」
「……うん。できることなら、キミやマティアスも笑顔でいてほしいものだ」
ユーリがそう言えば、ナーシャの機嫌が急降下する。
分かりやすく険呑な空気を発するナーシャに、ユーリが苦笑いだ。
「キミは、マティアスの名が出ると急激に機嫌が悪くなるな」
「大切に成長を見守ってきた女の子を妊娠させるような男……八つ裂きにしてやりたいと思うのが普通の感覚だよ?」
「ふむ、そういうものなのか。セレスもいまだに、マティアスに斬りかかるチャンスを諦めていないみたいなんだ」
「ぜひ彼女とは、共闘したいね」
むう、とユーリが唇を尖らせる。
「マティアスもボクにとっては大切な相手だ。殺し合いは認めないぞ」
「……君の頼みだから、僕はいまもあの男を生かしてるんだ。決して諦めたわけではないことを、あの男にも理解させておいてくれ」
悪びれる様子のないナーシャに、ユーリはため息をついた。
それから、二人で並んでテラスから夜空を眺める。
「昔は、キミとマティアスもそう不仲ではなかったと記憶しているのだがな……」
マティアスやナーシャは休暇を取り、都合をつけてユーリのもとを訪ねてきていた。だから、予定が重なってばったり顔を合わせることも珍しいことではなかった。
「うわっ――びっくりした」
「ナーシャ!?悪い、ユーリかと思って」
城に入ろうと扉に手を触れた途端、勢いよく開いて、中から出てきた手がナーシャの腕をつかんだ。
驚くナーシャに、つかんできたシャンフも驚いている。少し遅れて、シャンフの後ろからマティアスもやって来た。
ユリウス様、と名を呼んだが、相手がナーシャで心なしかがっかりしている。
「どうかしたの?」
人形サイズになってナーシャの頭に乗っていたヒスイが聞いた。
これだ、とマティアスが紙を見せる。
「何やら熱心に教科書を読んでいらっしゃったので、学習の邪魔をしてはならないと離れていたら、いつの間にか」
――ちょっと出かけてくる。早めに探しに来てくれ。
ユーリらしい文章に、ナーシャも苦笑いした。
それで、セレスは一緒だろうと思ったシャンフが、化神の気配を追って探しに来た。ところがちょうどこにヒスイを連れたナーシャがやって来たものだから、そっちと勘違いしてしまって――今に至ると。
「じゃあ、もうひとつの気配がセレスだね。あっちのほう」
「だな」
話を聞いたヒスイが山のほうを見、シャンフも同じ方向を向いて頷く。それぞれの化神について、マティアスとナーシャは改めてユーリを探しに行った。
辺境地の城は近くに山があり、少し進めば林もある。ユーリはよくそこへ遊びに行っていた。
セレスが一緒だから、滅多なことはないだろうが……彼女の性格を考えると、色々と不安はあるかも……。
「はっはっはっはっ!」
林に入って割とすぐに高笑いするユーリの声が聞こえてきて、マティアス達は周囲を見回した。
そして彼女を見つけて、ぎょっと目を丸くする。
「ゆ、ユーリ!僕たち人間は、化神と同じように動けると思っちゃいけないって、いつも言っているだろう!」
「ユリウス様、すぐに降りてきてください!」
高い木の上に登ってご満悦そうにしているユーリに、ナーシャもマティアスも血の気が引いている。嫌な予感しかしなくて、二人は焦った。
「心配無用――とうっ!」
「とう、じゃない!」
「シャンフ!絶対に受けとめろ!」
やっぱりというか、木のてっぺんから飛び降りたユーリに、二人は絶叫した。
シャンフとヒスイも必ず彼女を受け止めなくては、という決意で着地地点を見定め――無駄に勢いよく飛び降りたものだから、予測しにくい。
なんとかユーリの身体を抱きとめようとして……ばしゃっと、シャンフもヒスイも頭から水をかぶった。理解不能の状況に、男たちはぱちくりと目を瞬かせ。
「うーむ、失敗か。ボクの予想では、ボクの姿をしたまま着地するはずだったのだが」
ユーリが飛び降りたと思った木の影から、ユーリがひょっこりと姿を現す。ふむふむ、と何やら考え込んでいる。ユーリのそばで、セレスがくすくす笑っている。
「教科書を読んで、ボクの紋章の新たな活用方法を思いついたんだ。水を利用した錯覚……まだまだ実験が必要だな」
「ユーリ……寿命が縮んだよ……」
脱力し、ナーシャがへたり込む。マティアスも、大きなため息を吐いていた。
「ユリウス様……せっかくの才を、なんともったない……」
「ボクはボクの才能を、十分生かしているぞ。いずれ多くの者が、ボクの輝きを目にすることだろう――その日のため、一度の失敗で諦めている場合ではない」
お願いだから諦めて、とナーシャが懇願し、マティアスがまた大きなため息を吐く。
彼女の辞書に、諦めという単語はないようだ。非常に迷惑なことに。
昔から、ユーリには振り回されてばかり。
でも瞳を輝かせて笑っている彼女を見ていたら、叱る気になれなくて。
……だいぶ甘やかしてしまったな、という自覚はある。
ドルトラウム城を出発して五日ほど。順調に旅は続き、ルティたちは帝都グランツローゼに到着した。
広く、華やかな帝国の中心地。帝国の栄華を象徴する城――帝都へ出入りする門からでも、その姿を見ることはできる。
馬車から、ルティは城を見上げた。
これから先、ルティが暮らすことになる場所。十年過ごした城なのに、外観にはあまり覚えがなかった。
自分は城での生活しか覚えていない……城の中だけが、ルティの世界のすべて。それは、とても狭い世界で……。
「どうやら、マティアスは不在みたいだね」
帝都へ着くと、ルティたちは真っ直ぐにマティアスの屋敷を目指した。
マティアスは、ローゼンハイム帝国名門貴族の当主であり、ユーリの後見人も務めている。
……務めているというか、適当な地位を与え、体よく追い払われているというか。
帝都へ向かう前にマティアスにも手紙は送ってあるが、生憎とタイミングが悪かったらしい。
大きな屋敷の門の前。呼び鈴を鳴らしてみるが、屋敷内からの反応はない。セレスが、じっと屋敷を見つめる。
「……シャンフの気配もない。二人とも、出かけているようだな」
「ボクたちが来ることは知らせてあるのだし、先に入って待っていよう。ここで待たれるほうが、マティアスにとっても迷惑というもの」
ユーリが笑って言い、でもどうやって、とルティは彼女を見た。
ユーリは、荷物から鍵を取り出す。
「マティアスからもらった合鍵だ。これを渡されているのだから、ボクたちは自由に出入りする権利がある」
それはなんか違うような。
ルティは眉を八の字にしたが、セレスも特に反対することなく、ユーリは門を開け、屋敷へ向かった。
――その直前に、振り返ってナーシャを見る。
「護衛、ご苦労。キミたちとは、ここまでだな」
「うん。僕もこれで戻らないと、怖い軍隊長殿に叱られてしまう」
茶化すようにナーシャは笑って言ったが、ルティは不安になった。
あの軍隊長のところに戻ったら、ナーシャはまた理不尽な罰を受けることになってしまうのでは……いっそ、自分たちと一緒に、このまま……。
そんなルティの内心を察したように、ナーシャがぽんとルティの頭を撫でる。
「君たちがあの城に帰る時には、迎えに来るよ。またね」
あの城――いままでルティたちが暮らしていた、あの辺境の城。
あそこに帰ることは、もうない。このままルティが知っている通りの運命を辿るのなら、ユーリはこの帝都こそが家となる。
そして……わずか十年後には、その生涯を終えることになってしまう。
……残された時間は、たった十年。
人形サイズのヒスイを頭に乗せ、馬を引っ張ってナーシャは帝都の外へと向かう。ヒスイが、ちょっとだけ手を振っていた。
手を振り返し、笑顔で見送るユーリの手を、ルティはぎゅっと握る。
運命の幕が、上がろうとしていた。




