『花月新』④
これはゲームか現実か。
その二つの境目が無くなる程、俺は没入していた。
「それを以って、錦にお手本を見せてあげよう」
そう言った後――兄さんは構える。
深く腰を落とし、前に重心を掛けた体勢。
目線が真下になるほどの前のめりになり、その後――刀の鯉口を切る。
キン、と金属音が木霊した。
「……」
見惚れる程の兄の構え。
そして――
「覚悟が出来たらおいで、錦――――『明鏡止水』」
彼がそう呟いて。
雫が水面に落ちる音と共に、『静』が広がっていく。
左手で柄を持った瞬間――目の前の兄は、『消えた』のだ。
「……何だよ、これ……」
思わず嘆く。
いや俺の目には、確かに彼の姿が映っている。消えたなんて事はない。
でも――『居ない』んだ。
殺気どころか、存在感すらも感じない。
雪が降る音、風が鳴る音。それら全てに同化したかのように――
近付いても、近付いても――それは感じ取れない。
「……はあ、はあ――」
殺意も存在感も――何もかも感じないはずなのに、恐怖は増幅していく。
聞こえるのは自分の息だけ。
俺が斧を構えても、兄さんは全く動じない。
殺気を感じさせない――つまるところそれは、どこから攻撃が来るか分からないモノ。
……俺は、このまま攻撃をして大丈夫なのか?
……まず、自分は何をしているんだ?
……逃げたい。今すぐここから、後ろを向いてそのまま――
「――ッ、くそ――」
やがて重い脚を無理やり動かし、兄の前に辿り着いた。
……そうだ。
このまま、攻撃すれば良い。
目線も下に向いている。
――落ち着け!
何も――直接行かなくてもいいんだ。
「――らあ!」
動揺する自分を宥め、構える。
何時ものようにインベントリを開いて、もう一つのスチールアックスを取り出しそれを投げた。
……なのに。
「――!?な、何で……」
構える兄に、確かに俺は投擲した。
しかし……まるで彼を避けるかのように、斧は兄の近くの地面へと突き刺さったのだ。
そして彼も、全く動じていない。
……これは、兄のスキルか俺の迷いか。
結局――直接行くしかないという事。
俺は、逃げられないんだ。
「……はっ、はっ……」
そして、到達。
目の前。
荒れる息を抑えながら、俺は魂斧を構える。
右腕で、震える左を支えながら。
兄の姿をしたそれに、俺は――
「――――――ッ!!」
刹那。
俺が、『攻撃』をしようとした時。
底知れぬ殺意が、俺の全身を覆い込む。
全方位。
刃が、俺の身体全部に向けられている感覚。
――どこを向いても。
――どこに逃げても。
それは喉に肉薄して……決して、逃れられない。
怖い。
怖くて、仕方がない。
振りかぶった斧が、時が止まったかのように動かない。
動けない。
動けない。
動けない。
「――……」
兄さんが構えから動きだす。
殺意の波が、俺を完全に覆った――そんな時。
左腕を伝う電流、流れ始める脳内麻薬。
『死』。
その危機に、没入していく感覚が――確かに、そう脳に伝えたからか。
「――――っ!」
刹那。
また――亡霊と戦った時の様に、景色がスローになっていく。
――兄は、目の前に斧が迫るというのに、目を全くこちらに向けない。
――美しい構えが振り解かれて。
――先ず動くのは右手。ほぼ同時に足。
――微かな金属音。風を切る音。
――迫る殺気の針が、しっかりと俺の首を指していた。
情報が、頭の中に入ってくる。
この危機を――乗り越えろと。
「――――『抜刀』」
辺りの降雪は、蠅が止まれる程に遅く。
心臓の鼓動は、死んだかと思う程に遅く。
ゆっくり。
ゆっくり、ゆっくりと。
俺の中で、時間は過ぎていくけれど。
迫る――『銀色』。
神秘性すら孕んだ『居合』。
『それ』だけは――どうしようもない、目にも止まらぬ早さだった。
「――ぐッ!!」
どう尽くそうにも避けられない。
可能なのは――藻掻く事だけ。
ほんの数ミリだけでも、俺は急所を外す事に専念した。
一閃が、俺の首を掻っ攫う。
《状態異常:出血となりました》
「……はっ、はあ……」
息が切れる。
アナウンスが耳を通り抜ける間に、HPも七割を切っていた。
……まだ、死んでない。
「流石だね。今のでほとんど終わらせる気だったんだよ」
刀を鞘に戻しそう笑う兄さん。
俺も、てっきり死んだかと――そう言いかけようとした時、兄さんの殺気が再び戻る。
「さあ追撃だ、錦――『水飛刃』」
「――!?」
「はは、休む暇は与えないよ――」
構える俺に、再度抜刀。
そして当然の様に、水色の刃が俺に飛んで襲いかかる。
避けようとするが――到底間に合わなかった。
「――つッ!」
「決めようか――『絶剣』」
崩した体勢、そのまま腹に直撃。倒れる俺の身体。
眼前には、再び水色のエフェクトで刀を纏った兄さんが居た。
刀を上に構えてから、溜めの一撃が俺を襲う。
「ぐっ――!」
大振りの攻撃。
でも、この体勢じゃ――対応出来ない。
最期に、情けなく俺の声が木霊した。
《貴方は死亡しました》
《黄金の蘇生術を使用しますか?》
《サクリファイスドールを使用しますか?》





