0050 我が試練は誰が為に[視点:狂樹]
生きることは"試練"の連続である。
生まれ落ち、産声を上げて、羊水に浸された肺から大気を吸い込むという最初の呼吸をすることすらもが、地上に生きとし生けるものに等しく与えられた最初の試練である。
今は「副伯」にして「テルミト伯への反逆者」として名を知られつつあった、リッケル=ウィーズローパーにとっては、その最初の呼吸すらもが大いに危険で、そして致命的な"試練"であった。
慈悲深く冷酷にして偉大なる【全き黒と静寂の神】により生み出された、一握の土くれに始まる麗しき【闇世】の環境は、一言でいえば極限にして過酷なものである。
力ある迷宮領主か、最低でも『自治都市』にすら頼ることのできない辺境の小集落に生まれ落ちた者には、生きることただそれだけが死と隣り合わせの闘争であり続けた。
そんな、開拓者……という名の追放者達の小集落にて母の死と引き換えに生まれ落ちたリッケルは、そのはらわたの中から這い出してくるまでは死産したと思われており、危うく"魔獣避け"として遠い森に埋められる寸前であった。
いや、現に一度、リッケルは埋められたのである。
彼がそのような、最初の"試練"を乗り越えることができたのは、たまさか母の死骸が飢えた野獣に掘り起こされ、はらわたが裂かれた時点でその野獣がより大きな巨鳥に喰らわれたからに過ぎない。
滴る母の血と、巨鳥に食い破られた野獣の血溜まりを啜り、その血を求めて這い寄ってきた『血枯らし蔦』達に生き餌として保護されたからに他ならない。
そうして1年後――特定の迷宮に属さぬ"脱藩者"であり『自治都市』や【闇世】の各地を巡る無頼たる「旅侠」の一人に偶然見出されたリッケルは『ウィーズローパー』の姓を与えられ、数年の流浪を経て、先代の【人体使い】に預けられることとなった。
リッケルを鍛えた男は、多くの「旅侠」がそうであるように、お世辞にも慈悲深い者であったわけではない。
たまたま『九大神』が一柱である【果香と腐根の隠者】の加護を受けた……と思われたリッケルを"魔物寄せ"に利用して、危険な"仕事"での囮として扱うこともまた幾度と繰り返されてきた。そうした日々もまた、リッケルにとっての"試練"であったのだ。
――そしてリッケルは、流浪の果てに実質的な質のような形で捨てられ預けられた【人体使い】の下で、"試練"には褒賞が与えられることを知る。
自分とは異なる生まれと境遇の中で、異なる零落と異なる"試練"をくぐり抜けながらも――同じ場所に辿り着き、巡り会うこととなった、一人の少女と出会ったのである。
その名をリーデロットという。
***
「生きることとは試練である。そして試練とは、乗り越えし者に報酬が約束されたもうたものである」
ハルラーシ回廊は南南西、"西壁"の絶壁に自治都市『花盛りのカルスポー』を臨む迷宮【疵に枝垂れる痛みの巣】の『作戦本部』でリッケルが檄を飛ばす。
彼に仕える従徒のうち、主だった十数名が長卓を囲み、まるで舞台劇の演者のような抑揚に富んだ、よく通る声でリッケルの独演が続く。
従徒達の中には、過日、怨敵であったテルミト伯との単独会談に臨んだ主を影から守るべく、武装して『隠し扉』の裏側に控えていた者達の姿もある。
その時のリッケルは、怨敵を前にして、あまりにも彼らの知る主とは異なる「毒気を抜かれた」ような姿であり洗脳や精神系の【魔眼】に侵されたかと疑っていたところである。しかし、壇上に立って熱弁を振るい始めるリッケルの姿を見て――彼らは「いつもの調子に戻ったな」と胸を撫で下ろす。
――【疵に枝垂れる痛みの巣】の従徒達のほとんどは、自治都市『花盛りのカルスポー』の出身者である。彼らが、伯爵たる【人体使い】、そして【蟲使い】を敵に回してまでリッケルに仕える理由はただ一つ。
リッケルが枯れゆく『花盛りのカルスポー』を救った"英雄"であったからだ。
「枯れゆく時代は終わりを告げ、種子のままに終わりの無い冬を耐える時代もまた過ぎ去ろうとしている。君たちは等しく、試練の時代に抗い、挑んで耐えてきたのだ」
リッケルは、単に従徒達にのみ語りかけているのではない。
カルスポーと【樹木使い】の特別な同盟の証として、『作戦本部』の中央に植わえられた一本の縞模様の花栽の樹木。それは【樹木使い】の固有の力である【木の葉の騒めき】により、自治都市カルスポーの側にある"兄弟樹"を通して、リッケルの言葉を直接、自治都市に住まうあらゆる者達に伝えるものでもあった。
「――かつて陥され、堕とされた僕を受け入れてくれたカルスポーの恩義を忘れたことはない。かつてこの地で、僕が君達に約束した『十分咲きの栄え』を忘れた日は一度たりともない。そして、今それを成す時が来た。慈悲深く冷酷なる御柱たる【果香と腐根の隠者】の名において、僕は迷宮と『自治都市』の新しい関係の構築を成す」
喫緊の問題として、カルスポー出身の従徒達は、テルミト伯による「停戦」を欠片も信用はしていなかった。
【蟲使い】による攻撃こそ大人しくなったものの――それは直接的なものに限られており、例えば『蟻塚』や『蜂の巣』といった戦力増強はむしろ強化の兆しがあり、"褪せ花病"を始めとした複数の疫病の不自然な流行が始まっていたからである。
そしてそれがわかっているからこそ、テルミト伯との約定に従って、海を超えた『最果ての島』などに遠征軍を送ることがもたらす、カルスポーの不安を取り除く責務がリッケルにはあった。
だが、次に続くリッケルの宣言は、そのような彼の従徒達をして動揺にどよめかせるには十分なものであった。
「芽吹き花咲き、果実を成して移ろうように、この僕リッケル=ウィーズローパーにとって、この【樹木使い】なる銘は一時の姿に過ぎない――今こそ僕の構想を明かそう。僕は迷宮をカルスポーの森と融合させる。そしてこの身を『生きている樹海』の再誕のための"種"に費やす覚悟だ」
「か……り、リッケル様、それは一体……?」
『生きている樹海』とは、かつてハルラーシ回廊がハルラーシ回廊となる以前。
初代界巫にして【城郭使い】、"最も偉大なる旅侠"であった侠客クルジュナードによる『築城開拓譚』によって『自治都市』の基礎が形成されるよりも、少しだけ前の時代。
迷宮に頼らぬ者達にとっての"最も安全な土地"と呼ばれた、かつてのハルラーシ回廊の中域部一帯を覆う、巨大な樹海を指す言葉である。
生半可な迷宮の侵入すらをも拒む極限の環境でありながら、『九大神』の恩寵によりあらゆる『ルフェアの血裔』にとって住みよい環境に"調整"された楽園の地であり――そして初代界巫クルジュナードが引き起こした【人魔大戦】の戦禍により、【闇世】の大陸が中央から7時の方角に深く深く抉り消し飛ばされた、市井の民達においては伝承の中にのみ残る古の楽園を指す言葉であった。
『カルスポー』とは、その"楽園"の残滓をかろうじて受け継ぎ、クルジュナードがその旅の果てに遺した「城郭」の一つを拠り所として再興した『自治都市』である。
そんな"花盛り"の都市にとって、またこの都市に住まい生まれ育つものにとって、『生きている樹海』を再誕させようというリッケルの言葉は、彼のカリスマの片鱗もさることながら、代を累ね重ねて、胸の底に秘め続けた特別な響きを呼び起こすものであった。
"檄"を飛ばし終わり、【木の葉の騒めき】を切ったリッケルが、ふうと一息を吐く。
そしてその腰まで届こうかという、長すぎる髪をかき上げ、天を仰いだ。
「これで【蟲使い】に対しては、もう1ヶ月か2ヶ月は耐えてくれるかな? ……いや、3週間がいいところかもね」
「り、リッケル様……先ほど話されていた『生きている樹海』の再誕とは、一体……?」
目配せが繰り返された後に、従徒の一人が他の皆の意を一身に受けて、恐る恐るといった様子で主たる【樹木使い】の青年に問いかける。そしてその問いかけを、リッケルは、問いかけられること自体を想定していなかったかのようにぽかんとした表情で受け止めた。
だが、すぐにリッケルは従徒達の懸念に得心が行ったように苦笑する。
「あぁ、そうか、そうか。確かに君らはカルスポーの出身だが――同時に【樹木使い】の従徒でもある。御伽噺や理想だけでは保身もままならぬ、か」
「……いえ、決してそのような意味ではなく……」
「副伯様、副伯様のご決断とご戦略を知ってこそ、我ら『枝魂兵団』もまた十全に副伯様の剣となり盾となります故――」
「迷宮と我らの故郷カルスポーを、融合させる、とは一体どのような意味であるか教えていただきたいのです」
問いかけるように目で促しつつも、雲行きが怪しくなることを見かねた数名が意を決して――泥舟に共に乗る覚悟で、助け船を出す。いずれも、リッケルの従徒集団のうち、中核的な戦力を成す『枝魂兵団』の幹部である。
彼らの声色には、いつ狂い咲くともわからぬ主の機嫌への警戒と恐れがあった。
――だが、これはリッケルが暴君の類であるが故に、ここまで恐縮されているというわけではなかった。
「いいだろう、認識をここいらで共有しておこう。まず『生きている樹海』に言及したわけだから【蟲使い】はしばらくは調略と情報収集に徹するはずだ……場合によってはグエスベェレ大公にお伺いを立てにいくかもしれないね。そうなればテルミト伯――"若"への【情報戦】は、あの臆病で執念深い【蟲使い】が勝手にやってくれるさ。それで、僕達は貴重な"時間"を稼ぐことができる」
指を一つ、二つと立てるリッケルの様子に『枝魂兵団』の従徒達は一様に胸を撫で下ろす。
彼らの主リッケルは、カリスマがあり、知力も高く、そして彼らの出身都市である『花盛りのカルスポー』への恩義の心にも富んだ敬愛すべき主君であったが――ただ一つ悪癖があった。
「これはカルスポーの皆への"試練"なんだ。君達が懸念しているのよりも、さらに劇的な戦力展開を『最果ての島』の"新人"君に対して行うつもりだが、その間、彼らには【蟲使い】からも、"若"からも、あと事によってはグエスベェレ大公……本人は出てこなくても、大公のあの"じゃじゃ馬娘"辺りは出張ってくるかもしれない。全部押し留めてもらわないといけない。きっと、たくさん死ぬだろうね」
悲しそうな目を足下、【疵に枝垂れる痛みの巣】のはるか下方に座する『花盛りのカルスポー』へ向けるリッケル。それが本当に心から悲しむ表情であることを、この場に列することを許された従徒達は皆知っている。
「でも、だからこそカルスポーの皆は"報酬"を受け取ることができるんだ。彼らがこの"試練"に打ち勝って、そして僕もまた――この大きな大きな、待たされ続けてようやくやってきた"試練"に挑むんだ。"若"に、グエスベェレ大公に、頭を押さえつけられ続けてきた僕達の飛躍のために全ては必要なこと」
それは「試練」という物の見方に対する、特別とも言える非常なこだわりと執着であった。
彼は自身のその半生をして、"報酬"を求める者には必ず相応しい"試練"が与えられると確信に近い信念を抱いており――迷宮領主として、支配下においた迷宮領域においては「限定的全知」を得てからは、信念は"信仰"に近いものに変質していた。
「リーデロットは"試練"に打ち勝ったんだ、その"報酬"として彼女は立派な子を授かった。君達、君達にわかるかい? あの"若"の、あの【人体使い】の呪いに打ち勝ったんだ……死んでしまったとも思っていたけれど、それは僕が弱かったことの証拠だった。まだ、まだ、道半ばだね。でも、だからこそ」
ただ単に、自らを律し、不足を克服して「己」を向上させ陶冶させ続けようとするだけならば、リッケル=ウィーズローパーは、多くの迷宮領主がそうであるように、やや夢想家ではありつつも、ストイックな求道者の類として彼の配下達にも理解されたであろう。
しかし、彼の「悪癖」とは、およそ偶然の産物や整序された必然というものを認めず、他者の行いやその運命の巡り合せもまた"試練"と"報酬"で理解していたことである。そしてそれは――。
「故に僕はカルスポーの皆に"試練"を与える。この僕自身に新たな"試練"を課するように――そして『枝魂兵団』の要たる君達にも。"試練"を与える。これは大いなる"試練"だからこそ、それ以上に大いなる"報酬"が約束されるものである」
こと"試練"に関しては「己」と「他者」を区別することがない。
それも"報酬"を手に取ってほしいという完全な善意により、リッケルは"試練"を平等にもたらし、与え、手を携えてそれに向けて挑んでいくことに巻き込んでいくという「悪癖」があった。
彼の従徒達が、リッケルに重用されるようになればなるほど、不用意な問いかけを控えるようになるのはこのためである。暴君の癇癪ではなく――向上を願う善意の"試練"が脈絡もなく降り掛かってくることを恐れたのであった。
そして、リッケルの"試練"と"報酬"への特別なこだわりが、実際のところは手段と目的の逆転という倒錯に陥っていることを指摘できる者はこの場にはいなかった。
【人体使い】と【蟲使い】という難敵に自治都市カルスポーと共に対峙し続けてきたリッケルは、『冬人夏叢』という防諜特化型の眷属をも従徒達に配っており、一度スパイと疑われたが最後、体内を獰猛な勢いで食い破りながら成長する『冬人夏叢』に引き裂かれながら『墜落の間』から文字通り血の雨と化して『花盛りのカルスポー』に降り注ぐこととなる。
――それもまた、リッケルの認識によれば「スパイ疑惑という濡れ衣を晴らすための"試練"」であった。
「さて、アイシュヴァーク君。君の問いに答えよう――僕は【樹身転生】を敢行するつもりだ。僕は本当に、本当にこの迷宮を"樹海"に変えるつもりだ」
「リッケル様、あまりにも危険です。【人体使い】に気づかれれば、奴の二枚舌は三枚にも四枚にもなる。御身が、危険です」
「構わない。カルスポーの皆にも"試練"が訪れるんだ、それが僕の挑むべき"試練"だよ、アイシュヴァーク君」
「いけません、副伯様。あれは……あれは、未だ副伯様におかれましても未完成の技のはず。最悪ですが戻れなくなってしまいます」
「望むべし。リーデロットが一体どんな"試練"を乗り越えて、あの"報酬"を手にしたのかを僕は知らなければならない。もはや【人体使い】の継承は叶わぬ身だけれど、代わりにこの僕自らが『生きている樹海』の芯となるつもりだよ、ケッセレイ君」
「私達は……私達はどうすればよいのですか、リッケル様……!」
『枝魂兵団』の一人が、この場に最も最近加わった"末席"の女が懇願するように声を絞り出す。
リッケルが行おうとしている行為が、カルスポーはおろか【疵に枝垂れる痛みの巣】すらをも巨大な危険に晒そうとする賭けであると気づいていたからだ。
――しかし、言ってしまった直後に、彼女は『枝魂兵団』の面々からの怒りとも諦めともつかない凄まじい眼差しが集中したことに気づき――次のリッケルの言葉を聞いて、己が犯した過ちを知ることとなる。
「よくぞ言った、よくぞ言ってくれた、リューミナス君。まさか君が、口火を切ってくれるとは思わなかったけれど、でも、僕は『枝魂兵団』を信じていた。君達こそは僕の股肱の徒だ、共に大いなる"試練"に挑むに足る大切な仲間達だよ……もちろん、僕はそれを受け止める」
従徒リューミナスが小さな悲鳴を上げる。
いつの間にか、椅子に座っていた彼女の両手と両足が、蛇のように忍び寄る新緑の蔦によって絡め取られ、椅子の手すりと脚に縛り付けられていたからである。助けを求めるように周囲を見やるリューミナスの眼に映るのは、諦めたような顔、腹をくくるような顔、怒るような顔と様々な感情を噛み殺している『枝魂兵団』の先達たる面々の一様に苦渋に満ちた表情だった。
「君達には更なる"報酬"を勝ち得る権利がある。そのための"試練"を与える義務が、僕にはある――君達もまた、僕とともに、この迷宮を『生きている樹海』に作り変える礎となる機会に挑む資格が、ある。僕は感動しているよ……本当は、一人で征くつもりだった。君達に与えられる"試練"は、この迷宮とカルスポーの決死の防衛だったというのに。あぁ、九大神の恩寵よ、【根の隠者】の導きよあれ。今ここに、僕は『枝魂兵団』の解散と、そして新たなる『樹身兵団』の設立を宣言しよう」
両手を広げ、すっと立ち上がって天を仰ぐリッケル。
前後して【眷属心話】と【木の葉の騒めき】によって呼び寄せられた、リッケルの眷属たる『たわみし偽獣』達が次々に部屋に入り込んでくる。まるで、樹木が狼や熊といった四つ足の獣を模したかのような"擬獣"達が、椅子ごと蔓に拘束され、雁字搦めとなった『枝魂兵団』改め『樹身兵団』の面々を運び出していく。
その様子を満足気に見送りながら、リッケルは一人、感涙に咽ぶ。
口元を覆う手指の間からは、部屋から従徒達が全て連れて行かれた後も――幾度となく「リーデロット」という言葉が、伽藍となった『作戦本部』に響くのであった。





