0265 市井の猜疑は歌と噂の合間にて融(と)くるか
【盟約暦514年 歌い鷲の月(6月) 第21日】
――あるいは【降臨暦2,693年 合鍵の月(6月)第21日】(152日目)
この日、都市ナーレフに新たなる正式な”代官”が立つ。
実質的な街と地域一帯の統治者なれど”執政”に過ぎなかったロンドール掌守伯家ではなく、『長女国』において、この地の正式な領主である頭顱侯【紋章】のディエスト家の血筋に連なる男子ジェローム=レジージェ・ディエストの着任である。
……だが、元来であれば来任早々に臨時代官であったエリス指差爵との引き継ぎは、遅れに遅れたのである。
ディエスト家の”廃”嫡子であるとも、どこからともなく噂の広まるジェロームは、ナーレフ到着早々何処かに引きこもってその姿は杳と見せることはなく――富裕者達や”才有り”達向けの色街に入り浸ったのだ、とも追加の噂を添えられたのだ。
これに対し、ロンドール家に対する牽制を担うエスルテーリ家のエリスが単身ナーレフに乗り込んできて、執政ハイドリィを相手に公衆が見守る面前で一歩も引かぬ舌戦を繰り広げたことは、住民達の記憶にも新しい。
そのハイドリィが失脚し、彼の配下であった恐るべき『猫』達も逃散し――その行方もまたわずかな血霧を残して消え去ったと噂される――臨時代官となったエリスの元で、かつて【森と泉】と呼ばれたこの地の民と、ナーレフが建設されてから移り住んできた民との間での融和が進められたのは、まだ、つい最近の動きでしかない。
人々の間では、このように語られている。
――【森と泉】とその聖地【深き泉】の聖なる神性を魔獣扱いして滅ぼし、ナーレフ一帯をおろか麗しき『長女国』をも混乱に落とそうとしたハイドリィ=ロンドールの野心を、若きエリスが止め、砕き、そして改めたのだ……と。
なにせ、その【深き泉】に向けられた魔獣討伐の遠征で――神性の怒りに触れて命を落とす者が続出する中、それでも生き延びて街に帰還した兵達が、口を揃えてそう言うのである。
いいや、兵達だけではない。旧きワルセィレの民の中でも『長女国』の支配にまつろうことなく抗ってきた【血と涙の団】の勇ましき戦士達も、聖地に赴くという目的が共同したことで、エスルテーリ家の従士隊をも交えた奇妙な同道を果たしていたが――同じく、あの冬の怒りを鎮め遅い春を呼び起こした戦いを生き延びて街に帰還した戦士・勇士達が、全く同じように口を揃えてエリスの偉業を周囲に語り聞かせるのである。
ちょうどそれは、ヘレンセル村を救ったとある”治療師”一行の活躍と同時期のことであったか。
ついに【四季】の混乱と怒りは鎮められ、ナーレフでは初めて本格的な意味で、旧き住民達と新しき住民達の相互理解が春の雪解けの如く始まりつつあったのである。
故に、人々は新たなる代官ジェロームが街に現れてからの膠着を、エリス派との駆け引きや水面下での闘争が起きているのだと噂した。
然もありなん。
ジェロームの”お目付け”役である随行員達が、初日から露骨に高圧的なることよ。
街に残留した吏員達やかつての反抗分子であったものが街の警護を担う側に回った【血と涙の団】、エリスを支えるエスルテーリ家の従士達に対して、ディエスト家の威を示して主導権を奪おうとする有り様が、住民の面前で街の各所各所にて繰り広げられていたのである。
逃散したと思われていた『猫』達が【紋章】侯の名の下に召集されるや。
そのような噂までもが、ナーレフの夜に生きる者達から口を揃えて新市街・旧市街を問わずに染み渡り始めていた中でのこと。
一人、また一人と、数十人規模であったジェロームの”目付け”達がそれぞれ不可解な形でその影響力を失っていくこととなる。
ある者は偶然の事故によって不具となり。
ある者は街の中でも札付きの密輸団の類との関係を暴かれて捕縛され。
ある者は色街に沈んでいたことが発覚して罷免され。
ある者は誰にも知られることなく影も形も霧消したかのように消え失せていく。
そして、それだけではない。
夜を一つ越すごとに、ロンドール家の長い手によって街の非合法性を構成していたならず者集団の類もまた、その地下の拠点ごと忽然と消え失せ――うっすらとした血煙を残し――ナーレフの治安は本当の意味で改善されていく。
というのも、ハイドリィの懐刀レストルトが率いた特務部隊『猫骨亭』を頂点とした密告社会こそ、関所街であったナーレフの人心を支配する原理であったからであり、そこに、下るべくして当然の天罰と天誅が下ったのである、と人々は信じるのである。
そして、駆逐されたのは非合法なる者達だけではない。
ハイドリィとその父グルーモフがいかにこの街で人々の財産や命や誇りを、例え魔導貴族であったとしても目に余るほどに悪辣・非道な形で奪っていたのかという、その”証拠書類”の数々をエリスが代官邸に命じて公表した。
これにより、一見合法であった商会であるだとか、犯罪者ではないと思われていた者の中にも、密かにロンドール家と協力して悪逆を成していた者達の存在が露見。
再編された新たなる「市警団」によって――その中には、この街の貧民街出身でありながら、どういう数奇な縁によってかエリスの従者に抜擢され、街のあちこちを駆け回る小柄な少年の姿もあったとかなかったとか――こうした悪徳者達は白日の元に引きずり出され、しかし、公正に裁かれていくこととなる。
――このような真実が、あの、この街が変わったキッカケである、ナーレフの不義と不和と不正と不穏を全て雪のように融かした、あの【深き泉】の佇む冬の聖山での神性との邂逅から生還した者達が、異口同音にそう周りの者達に語って聞かせていたのである。
最終的に「新代官」ジェロームは、入り浸っていた高級娼館から文字通り身一つで連れ出され。
この街でやるべきことをすべてやり、糺すべきものを全て糺し――例えばロンドール一族がいかに執政としての力を使って街の表裏で非合法・非倫理・非正義的な形で蓄財を為したかの『帳簿』が一部公開され、関わっていた大商人や商会がいくつか処罰された――糺せざるものも、その道筋までは強固に均された状態となってから。
ジェロームと入れ替わるように「臨時」に過ぎぬエリス=エスルテーリは、新旧住民達に涙と歓呼を以て惜しまれながら、都市ナーレフを後にすることとなったのである。
――その最中の、エスルテーリ家の従士達をも待たせての、出立までのわずかな時間を『救貧院』の一角でエリスが迎える一幕。
そこにはこの十数、数十余日の合間に、すっかりと精悍さを増して、あどけなさの中に青年への芽吹きを宿らせるようになった、一人の『見習い』の少年の姿もあった。
決して、魔導貴族とその従者が向かい合うような距離感ではない。
だが、作り出すことのできたわずかなその時間においてだけ、二人はそれぞれ、王都へ召喚される若き女爵と【闇世】という世界の秘部より現れた存在に惹かれ巻き込まれた従徒ではなく、生身のエリスとラシェットとして、語らうことができたのだ。
「ずっと忙しかったけど、今日ばかりはさ。早く戻らないとまたマクハードさんにどやされるし」
「――立派になったね。見違えたよ、本当に」
「エリスだって……別人みたいだ。もうすっかり”代官様”って感じだな」
「貴族、だからね。嫌味じゃないってラシェットならわかってくれると思うけど――私なんて、かろうじて”枯れてない”って、それだけなのにね」
「そんなことない。エリスは、ものすごいことをやったんだ。俺みたいな、やくざ者の手先の小僧と大して年なんて変わらないのにさ?」
「責務だから、ね。お父さんが守っていたものを、私も守らないといけない。それがよくわかった。みんなは私を名君だ、英雄だ、なんて持て囃すけれどさ――でも、ラシェット、君が……貴方がいろんなところで支えてくれていたのは、わかってるよ」
エリスはラシェットをまっすぐに見つめている。
だが、それは彼自身だけでなく――その肩の後ろに乗った何かまでをも、それを今の彼を構成するものとして、見通そうという意志の色を秘めたものでもあった。
そして、エリスは、父とともにナーレフを再び訪れてからラシェットに再会してからの、この激動の日々の中で彼に言えなかったことを、やっと、口にする決意を固めていた。
「――あなたのお父さんが何を守って死んだのかを、私は、知っているよ」
それが何であるのかを、エリスは言わなかった。
だが、ラシェットにはそれだけで十分に彼女の気持ちが伝わっている、と、そうエリスはどこか確信を抱いていた。
つい、この間のことでしかない。
ナーレフを再び訪れた際には、ついぞ、想像することもなかった形で二人はこの都市の変化に関わり、協働したのであった。
故に、多くの情報と彼と彼女を導く”大人”達に触れる中で、ラシェットがきっと何かを悟っているだろうという、そんな確信であった。
だからこそ、エリスはラシェットに伝えるのである。
「貴種の役目は役目――でも、心までは支配されないよ。私は、待ってるから」
何を、とエリスは言わなかった。
悟り、受け止める眼差しをしているラシェットを見据えながら、哀しさを湛えつつも、しかしそれと向き合うような強さを見せる笑みであった。
「私は、わかっている……とは言えないけれど。でも、理解ろうとは、しているつもりだから」
何を、とエリスは言わなかったのだ。
だから、ラシェットもまた「何を」という部分を告げずに同じように決意を返すのである。
「もっとたくさんのことを学んでくる。もっとたくさんのことを知ってくる。もっと、たくさんのことを背負えるくらい、チビだって言わせないぐらい、でかくなってくるよ。オーマ先生の下で、俺は頑張ってくるから」
期待しているから、貴方も期待していて。
しかし、エリスの笑みにほんのり宿った楽しげな色合いは、言葉にはせずともそのような心意をまとっているかのようであった。
釣られ、ラシェットも自分は何を言っているんだろうな、と微笑んで頭を掻くのであった。
――斯様なる、雪解けの街の中で、幾片にも積もったそんな”噂”の一欠片。
***
聡く、そして強い子だな、というのが、エリス=エスルテーリへのこの俺の感想であった。
……闇世に仕える迷宮領主としての効率性のみを考えるだけならば、これほどの好機もまた無い。
実際にジェロームを物理的なものを含む様々な意味で確保済みであり、ディエスト家が、廃嫡子とはいえ新代官として赴任する彼を通して最低限の主導権は確保しておこう、とナーレフに送り込んできた彼の幕僚団もまた、その排除と一部の確保が完了していた。
だから、効率だけ考えればエリスもまたそうすべきなのである。
既に、エイリアン=パラサイトとル・ベリの魔眼とリュグルソゥム一族の『止まり木』を複合させた尋問・拷問・洗脳の方法論は確立されていたが故に。
だが、決して俺自身の従徒であり、この俺を「先生」と呼ぶラシェット少年の想い人であるからと贔屓の目をかけたというわけでもない。
そもそも【深き泉】からの”生還組”であっても、俺は彼らを完全な心の壊れた傀儡にするつもりはなかったし、そうはしていなかった――多少の”噂”は歌わせていたが。それだって、特に心囁小蟲を通した、本人の自由意志をギリギリ侵さない塩梅で、しかも「今回のこの件」に関してのみ、思考や発言を少しだけ誘導した……ただそれだけのものである。
無論、エイリアン=パラサイトを通してできることできないことの限界ということも、ある。まるで本人の心の声の如く、頭の中で囁くに過ぎないので、マルドジェイミ家の【精神】魔法のように完全に人格を塗り替えるレベルでの洗脳ができる代物ではないが――それだって、やりすぎれば被寄生者達の精神を追い詰めて壊すこともできる代物ではあるのだ。
だから、俺が彼らを「そういう用途」に使うと決めるのは、明白に使い潰してこの俺の迷宮の糧にすると決めた者達のみを、である。
例えばハイドリィ=ロンドールであるだとか。
彼の懐刀にして、都市ナーレフの裏を知りすぎているためにもはや解放の余地はない、レストルトを筆頭とした特務部隊『猫骨亭』の面々であるとか。さらに、その手足としてこの街で非合法の経済と暴力をちらつかせた裏の秩序を担っていたならず者達のうち、更生が見込めないような者達であるだとか。
彼らには、情報を搾り取れるだけ搾り取った後に(まだ生きていれば)表裏走狗蟲を始めとする【共生】因子活用型のエイリアンの資源等になってもらうことは決まっていたのだ。
いくら【人世】でも活動できる『班』が必要であるとはいえ――流石に小醜鬼や鳥獣の類を”半”の部分として保持する眷属達ばかりでは、自ずとできることに限界があったからである。浸透と活動と工作を深化させていくには、やはり”人手”が……いや、人の”形”の数を揃えられればできることも確実に増えるのである。
それこそ例えば、街に散った”生還組”達の体内の心囁小蟲や共覚小蟲への眷属心話による細かな指令である、だとか。
――だが、逆に言えば、それまでだ。
”生還組”が自分自身の体験と心に浮かんだ生の想いとしての「噂」を広めるのは、ウルシルラを巡る陰謀とそれを乗り越えた、ナーレフにおける新市民達と先住してきたワルセィレの民の融和の機運を醸成するところ、まで。それだって、エリスを通す形で執行した聖なる泉ウルシルラでの例の「融和イベント」や、エリス自身が文字通り腕をまくって救貧院での最前線での炊き出しと貧民達への施しあってのもの。
しかし、一度そういう方向にナーレフの世論を喚起する流れさえ生み出せれば――後は、勝手にその空気は伝染していく。
酒場や宿屋、広場など人の集まるところで、好奇心と浪漫とちょっとばかりの自己顕示欲の強い、野良の吟遊詩人達が自然発生してきたのであった。
……いいや、必ずしも彼らは”野良”とばかりも言えない。
市井に生きる民ではあったが、『長女国』という魔導貴族が支配する文明にあって、確かに魔法の使えない”枯れ井戸”達は存在を一山いくらばりに軽視されてはいるが、同時に、必要に応じて動員する場面も確かに存在する。例えば、まさにナーレフのような新たな都市を作ろうとする際に、開拓のための移民として集め送り込む時であるだとか、【懲罰戦争】における”肉壁”部隊を追加する時であるだとか。
そうした場面では、時折、走狗組織の下請けかそのまた下請けあたりの手配によって、煽動とまでは行かずとも民衆をある特定の方向に意識付けさせるような――そんな者達の需要が生じるのであった。
そうした、俺の知る言葉でいえばプロパガンダ戦略の徒となるのが、この”吟遊詩人”みたいな層である(【情報閲覧】する限り、中には本職もいたが)。
この意味において、たとえ異世界であっても、雲上の為政者による民衆操作の試みというものは大きく変わらないのかもしれない。
本当は”吟遊詩人”の他に「劇場」でもあれば、そこを通してハイドリィの悪徳三昧を脚色・誇張して公演でもさせることでさらに市民達にとっての、この一連の事件の受け止め方というものを操ることができるのだが……非合法組織への指令網を通して情報を管理していたロンドール家にとっては、流石に、そのような旅芸座であるだとかの集団がナーレフに入り込むことは、拒絶していたようであったが。
「ようやく理解できました。王都や侯都での劇座ほどではありませんが……確かに【罪花】の下部組織【路端の草】は、そういう要素を代替していたと言えますね、確かに」
「まぁ客相手の”演劇”みたいなものだろうからな、色事は」
「それを傲慢であると言うならば、確かにオーマ様の言う通り、私たちリュグルソゥム家もまた”才無き者”達とはそういうものだ、としか見ていませんでした。だから、」
≪最初からマルドジェイミ家がどういう存在で、【罪花】がどういう存在であるかを、私たちは知っていました。だから、≫
「この街で、オーマ様の”構想”で、あの【罪花】と【路端の草】達を排除することの優先順位がどうして高かったのかの想像が、まだ、足りていなかったなと感じてるんですよ。驚いているんです、正直なところ、」
――ナーレフという20年の対立と憎悪がそれなりに積み重なった街を掌握するにあたって、これほどまでに血が流れていないなどとは。
それが貴種でもあったリュグルソゥム一族の当主夫婦の、率直な感想であった。
彼らは、ハイドリィ一派を排除した後のナーレフ掌握においては、さらに新旧住民の対立と、特に【血と涙の団】の過激化や暴発の可能性も見ていた。ディエスト家が狙われているというならば、彼らの支配域には違いないナーレフをさらに動揺させようと考えうる他家の”走狗”達は、ロンドール家の施策によって、多数入り込んでいたからである。
この俺の迷宮領主としての力と【異星窟】の戦力の奇想天外性によって、まだ隠蔽はできるとしても――街でそれなりの反乱鎮圧や大規模な粛清と摘発は避けられないのではないか、という見方があったのだ。
……俺自身もその可能性に備えなかったわけではない。
だが、歯車が噛み合った結果(もちろん、噛み合うように努力は尽くしてきたが)、それに関しては最上とも言える形に収めることができたとは言えるだろう。
エリスという少女の勇気と責任感と自発的な行動力が、たまさか【エイリアン使い】などという存在と関わってしまったことでその運命が大きく変わってしまったであろうラシェット少年との、その心の交流の連鎖の中でより激しく触発されたものであるならば。
彼女の尽力によって、ナーレフには既に、俺が”生還組”達に歌わせた噂が一気に広まって街全体の空気を方向づけてしまうような下地というものは、既に、醸成されていたのだ。
ならば、それは彼女の”功”だろう。
いや、むしろ”功徳”と言うべきか。
本人にそのつもりはなく、この俺が【エイリアン使い】という迷宮領主という立場から勝手にそのように認定しているだけのことであったとしても、それでも、俺は彼女の行いに信賞しなければならない。
そして、それだけではない。
俺とてルクと同じく、街の掌握にあたってそれなりに血の雨を降らせなければならない可能性は決してゼロではないと、ちゃんと覚悟はしていた。だが、それを最上の形で回避できたのが、エリスを始めとした彼ら彼女らの自由意志によるものであるのだとしたら――それは、この俺自身の元の世界における世界観と合っている。
そう思う。
だから、俺は、故と経緯があって迷宮の資源とすべきと決めない限りは、中途半端な形で自由意志を奪うような安易な形で支配したくはないのだ。
――エイリアン=パラサイト達の対感知魔法の万全性のチェックがまだ済んでいないだとか、まぁ、そういう技術的な理由はいくらでもすることはできるだろうが。
まぁ、しかしそれはこの世界の”法則”に対するこの俺の理解と、それによって立つものでもある構想にも繋がることでは、あるのだが。
以上がエリスをそのまま王都へ召還されるがままに従士達と共に出て行かせ――ラシェットはエリスに着いていくのではなく俺と共に来ることを選んだが――”生還組”達からも、一度、折を見ながらエイリアン=パラサイト達を回収して、それぞれのナーレフでの新たな日常に帰らせることにした、俺の動機と判断の根源である。
――だが、エリスと直接相対さなかったわけではない。
【ウルシルラ商会】の真の持ち主として、またヘレンセル村での”縁”もある俺の存在を彼女は無視することはできない。
なにせ……【罪花】のナーレフ支店を秘密裏に壊滅させてその情報を隠蔽した後、ヘレンセル村で名をあげた”治癒術士”であるこの俺は、聖なる泉ウルシルラを巡る災厄から生還した負傷兵達の救助に尽力した人物として、噂に乗るようになっていたのであるから。
そして、別に噂だけではない。
俺は”治癒術士”なのだから、自らが助けた負傷兵やその家族達、そして救えなかった帰らずの兵達の遺族の元をこの数日間で見舞いのために巡り訪ね回った――篤志家でもある。
『聖泉詣で』により、都市の融和の象徴を演じたエリスが、その貴族として急速に芽生えさせた政治的センスにおいて、この俺を無視することはできないだろう。マクハードにも勧めさせる形を取り、さらには傀儡にしたごく一部のジェロームのお目付け役の口からも提案させる形で、俺はエリスに代官邸まで招聘され、そしてその場で「参事代」に任命されることとなったのである。
まぁ、黒子だ。
なお、ル・ベリが「御方様を『代役』であるなどとは、けしからん」とぷりぷりしていたが――彼にはもっと成長してもっと色んな役割をこの俺の迷宮で担ってもらうようにしていくつもりである。「名代」や「代理人」の妙というものや、同時に、彼自身は本気で俺を尊崇しているのはそれはそれでいいとして、それを周囲にあえて見せる存在として俺が置いているということの政治的な意味も、教育していくこととなるだろう。
そうした諸々が動いたのが、つい昨日のこと。
いわば、それがここナーレフにおける臨時代官の最後の仕事である。
元々、俺自身は本来はさらに裏に引っ込んでいる予定ではあった。
だが、2つの理由から、方針を修正した。
1つはここまでで振り返ってきた通り、ナーレフの掌握が俺自身の想像を超える形でうまく噛み合い、流れた血は想定と比べたらもはや「何も起きていない」レベルでほとんど流れなかった。都市における新旧住民層の統合が想定よりも加速するならば――つまりさらなる要素もまた、そこに紛れ込んで統合を加速させることができるのである。
この場合、俺には曖昧で微妙な公的身分があった方が、むしろ動きやすい面もある。
なぜならば、実際にマクハードと【ウルシルラ商会】に当面の実務体制を構築してもらわなければならないからである。
――都市ナーレフを、単なる国境の密輸で旨みを吸える関所街から、歴史を何十段もすっ飛ばしたような『経済都市』に変貌させていくために。
そして、もう1つの理由。
「こ……ここだ」
怯えたような、しかしどこかその恐怖の感覚そのものが感情レベルでの上気の混じりが窺える上ずった声で告げるは、つい先日までは『乙女』の一人に記憶と精神構造ごと扮させられていたとかいう数奇な運命を享受していた新代官ことジェローム=レジージェ・ディエストその人。
俺は現在『参事代』として、ルクとル・ベリの両名を伴い、蝋燭の灯りのみで照らされる、どこか空気が錆びついたように重く感じられる石造りの階段を――ナーレフ代官邸の地下を、ジェロームの先導に続いて、降りていく最中であったのだ。
……言うなれば、それがここナーレフにおける新代官の最初の仕事である。
同時に、ナーレフの統治におけるこの俺の迷宮領主としての最初の仕事である――とすら言うことができるかもしれない。
「【紋章】家の封印では、ないのか……ギュルトーマ家の封印術式。道理でこちらからの感知魔法では見通せなかったわけです」
「御方様の”眼”すらも弾くのか? 生意気だが、厄介な護りということか――それで、この男だけは何としても生かして確保しなければならなかった、というわけですな」
ナーレフにおける【人攫い教団】の支部も、【罪花】の支店も排除し、レストルトら『猫』達の残党とそれに連なる治安悪化分子達は様々な形で排除し、そして活用している。
そのため、ミクロンら『地中班』によるナーレフ地下のこの俺の【領域】ネットワークの構築は市の中心部にまで進行を開始していたが……事前に地形や『長女国』側の感知魔法陣などの配置を調査したところ、一点だけ、どうしても見通せない箇所があった。
それが代官邸の地下領域であり――。
「麗しき『長女国』統治の核ですから。それぞれの頭顱侯家が技術を尽くした”工夫”を張り巡らせてはいますから――厳重に隠して、守るために。例えば【騙し絵】家なんてわかりやすいですけど、置いてあるとされる場所とは違うところに【空間】魔法で飛ばしてたりしますし」
それが【紋章】のディエスト家の場合、自らの【紋章石】技術ではなく、彼らが屈服させて技術を奪ったということになっている元頭顱侯ギュルトーマ家による複雑怪奇な封印術式がそこには施されており。
リュグルソゥム家のあらゆる感知魔法はおろか、超覚腫どころか賢者蟲アンの超感覚的透視の能によっても、混沌とした霧と泥のような壁(アン曰く)によって阻まれ、見通すことができなかった。
「それはそれで、逆にここにあると言っているようなものではないのか? それほど厳重だというのならば」
≪えーと、まぁそうだね、ル・ベリさん。でも別にどこの掌守伯領にも配置されてるってのはみんなわかっているし≫
≪隠しているのは、あー……別に魔法使い達に対してじゃあないんですよね≫
その仕組みは、簡単に言えば、支配者であるロンドール家またはその上位者たるディエスト家の正嫡の血族に反応して解錠される。そのような巨大な魔法仕掛けの魔法鍵である、と言えよう。
強引に突破しようとすれば、感知魔法だけでなく防護と妨害と反撃の魔法が多重かつ同期して発動し、かつ、地上に花火のごとく他の都市や下手をすれば侯都と王都に異常を知らせる光柱が代官邸をぶち抜いて天空に穿たれる――【星読み】のティレオペリル家の術式らしい――代物であり。
そのような執念的な多重なる封印である。
行政拠点として有効活用したい代官邸という上屋を吹き飛ばすというリスクを取り、無駄な時間をかけてまで突破するよりは、だったら、正統性を示して正攻法で開けて受け入れられる方がずっと望ましい。
一応、ハイドリィの最終的な始末は、ジェロームを確実に確保できなかった場合の保険として【罪花】ナーレフ支店打倒後まではミシェールには待たせていたのであった。
そして、代官邸の秘された区画から繋がるこの地下階段の道中で、既に、ギュルトーマ家の”封印”がびっしりと書き込まれ書き連ねられている。
それは幾何による象形化とそれを通した規則的な魔法列配置を基本とする【魔法陣】の書式とも、物語を紋章という形で概念的に魔石の中に圧縮して再現・再演することで超常効果を発動する【紋章】家のやり方とも、異なっていた。
喩えるならば、無数の呪言が文字として書き連ねられつつ、しかし、同時に一筆書きの絵であるかのような――耳無し芳一の全身を呪言が覆ったもののナスカの地上絵バージョンとでも呼ぶべき、文字そのものと、それが連なることで生み出す「絵」そのものが二重の意味を持った【封印】のための陣が、これでもかというほど。
訪れる者が足を踏む階段の上面を除く、天井、壁、蝋燭の燭台に隙間にまでびっしりと刻み込まれ、その中にさらに魔法的な効果を増幅させるインクが塗り込まれていたのであった。
”書庫”という言葉は、きっとこの空間では別の概念であると錯覚させられるような有り様。
その地下階段を、おおよそ、一般的な建物で4~5階ほど下った先であろうか。
ジェロームが息を小さく呑み、まるで全身を何か小さな虫に這われているかのように恐ろしげに体のあちこちを掻く。その様子を何か呟きながら興味深そうに眺めるルクと、何をしているのだこいつはといったやや侮蔑混じりの眼差しを向けるル・ベリ。
だが、階段が途切れて床が現れ、眼前には――アルファがギリギリ通れそうなぐらいの大きさの重厚な”扉”が佇んでいた。
あれほどまでに執念的に道中の階段には刻み込まれていた【重封】の証が、しかし、その先の階段と扉においては遮断されたかのように一切が途切れていた。
つまり、ここから先においては、全く別の超常が支配する空間である、ということである。
「”夢追い”コンビだけが『調査』をするわけじゃあ、ないからな」
階段の切れ目にへたり込み、先に進む意志を見せないジェロームを一瞥しつつ、俺はルクとル・ベリに告げた。
「では、本丸の攻略と行こうじゃないか。この国の【晶脈石】の秘密を、俺達の存在がバレない程度に解き明かしていってやるとしよう」





