0208 氷の融かさるるは赦免に在らず
かつてこの地が【森と泉】と呼ばれていた時代から先住してきた人々が住む『旧市街』と、【紋章】家とロンドール家の施策によって集められた移民や、『関所街』の発展の登り気流に乗ろうとして集った商人や職能者と彼らを守る兵士達が住む『新市街』。
その2つの区画が交差する狭間にできあがった、未だ『貧民窟』には至らぬまでも、『貧民街』と言って良い通りの片隅に、ラシェットと母が住む家はあった。
『長き冬』がついに終わり――紛れもなく「オーマ先生の"力"」による――街の気温も、そして人々の体温をもあたためていく。そんな『春』の訪れは、建物と建物の間を覆うように染み込んでいた重い寒気はおろか、人々の心情や意気をも上向かせたかのように。
決して、この街を処刑の恐怖によって苛烈に統治していた執政ハイドリィ=ロンドールが不在であるからだけではないのだろう。
どこか明るい意味で燻るような活気が、雪に覆われた地面から新芽が萌え出づるかのように、そこかしこで顔をのぞかせていたようにラシェットの眼には映っていた。
季節が遷っただけでなく、何か、この街はおろか周囲一帯を覆っていた根本的な何かが遷り変わったことを、実感として感じ取っていた。
――今、彼が佇むのは、病身の母のために"暖"を取るのにも一苦労していたボロ屋たる自宅の前である。
野外や農村でもないのに、どこか土気た臭いがするのは、雪解けた湿気がじめじめとしつこく消えない日当たりの悪い地点だからであろう。
物心もつかないうちの父の死後、無理をし続けた母は身体を壊し、その治療のために蓄えは無くなった。街には『救貧院』という施設もあったが――事実上【人攫い教団】に乗っ取られた場所であり、父が元は衛兵の小隊長という取り締まる側だったことと相まって、ラシェットと母は仕返しのように見捨てられていたに等しかったと言える。
……そうした事情も相まって、ラシェットには選択肢が無く、『貧民街』に移った者の多くがそうであるように――この街で勢力を持つ密輸団の手下のそのまた使い捨ての駒となったが、ヘレンセル村でエリスと、そしてオーマと出会ったことによってその【運命は流転】したのであった。
だが、少なくとも次の冬までは、湿気た売れ残りの薪を奪い合うことをせねばならない……などとはもう心配しないでよくなった。
それだけではない。オーマの"商売"を任されていた『珍獣売り』の二人――既にそれが珍獣どころの存在ではないと知ってしまった――から約束された給金ならば、『貧民街』から、片隅とはいえ『新市街』の方へ母を連れて居を移すこともできるだろう。
『算術』をゼイモントとメルドットに――頭の中で響く彼らの【心話】を通して教わりながら、その程度の皮算用は、できるようになっていた。
そして【深き泉】での一件が終わり。
『関所街』まで帰ってきたラシェットは、ククを――オーマから預けられたとても賢い猫――肩に乗せながら、通りと自宅を隔てる木の板の扉に手をかけようとして、息を呑み、立ち竦んでしまっていたのであった。
――その中に誰がいるのかを、知っていたからだ。
【魔獣】の存在をラシェットも知っているし、聞いている。
それによって村ごと追われて流民となったような者も『貧民街』にはいたからだ。
だが――その大群を率いる存在。
御伽噺や、神話に登場するような存在こそが「先生」の正体であると、あの【深き泉】でラシェットは決定的に思い知り、あるいは思い知らされたのであった。
……決してラシェットが手を下したわけでは、ない。
しかし、この世の地獄としか表現できない、阿鼻叫喚の地獄の闘争の中で、エリスを護るためだったとはいえ、『関所街』を発った兵士達やエスルテーリ家の兵士達を死に追いやった側に自分がある、という実感が冷たい剣を背中に押し当てられたような悪寒が後頭部からかかとへと伝っていく。
密輸団『西に下る欠け月』の手下になった時にさえ、一切感じることのなかった――何か、道を踏み外してしまったような、急速に自分が自分でない存在となってしまったような、そんな実感が、扉に手を掛けようとした瞬間に一挙に去来したのであった。
それは、あの"戦場"で、無我夢中で行動していた高揚の中では感じ得なかったもの。
そこから、多少「オーマ先生」の力を借りつつも、ひたすら『関所街』へ駆け戻ってきた中で気づかなかった……あるいは気づかないようにしていた実感である。
こんな自分が、何も知らない母や、逆に何かを知ったかも知れない「彼女」に、合わせる顔などあるのだろうか。
塗り潰されるような想いに支配され、ラシェットは扉に手を掛けたまま、歯を食いしばって硬直してしまったのであった。
――だが、それをどう取り扱えば良いのかもわからぬ少年の苦悩を吹き飛ばすように、扉が勢いよく内側に向かって引き開けられる。
母がとりあえずと着替えさせたのだろう。
"彼女"は、『貧民街』……は言い過ぎでも『新市街』のごく普通の町娘と言ってもパっと見差し支えないような格好をしていて――しかし、キッと怒らせた目と吊り上げた眉に漂う、まだ幼さを残しつつも勝ち気な気品は確かにこの国の貴種たるを引く容色。
「や……やぁ、エリス」
まるで睨みつけられている、ように感じてラシェットは勝手に気圧されたのだ。
エリスが身体を大きく振りかぶり――平手打ちでもされるのかな、と思った次の瞬間には、どんという軽い衝撃と共にやわらかい感触が、『貧民街』には似合わぬ、ほのかな若草のような感触がラシェットの上体を包み込んだ。
「この、馬鹿」
その一言が、全てを物語っていた。
心から自分のことを案じていたのだろう――貧民の少年には分不相応も過ぎる【転移】の力なんぞを使って、本来はラシェット自身が避難する先とされていた、ククが金子を送り届けてくれた「母の居場所」に自分を送り届けたことの意味を、指差爵に生まれたエリスが、想像していないはずはないのであるから。
――「オーマ先生」のことは、エリスには何も見せなかったはずだ。
自分の胸の中で震えるエリスを抱きしめ返しながら、ラシェットは安堵はしていた。
そして、今はただの年相応の少女でしかないエリスの背をさすりながら、「ごめん」とだけ口にする。
奥から母の呼ぶ声が聞こえた。
買い足すことのできた暖と薬によって、調子が良いようであり――ささやかだが食事を用意してくれていた様子。
……エリスとは話し合うべきことがいくつもあった。
それは決して、思う通りにはいかない、難しいことだという覚悟はしていたが。
だが――抱きしめ合って、『春』の香りをただ一滴、どこかで意識したことがラシェットの心の底を覆っていた暗くて寒くて重い何かをまで裏返してしまったか。
――多分、何とかなる。
先程までのくよくよしていた気持ちが吹き散らされたかのように、芯のような部分に根付いた心地。
いつの間にか肩から降りて、部屋の中に入り込み、こちらを振り返りながらあくびをするククの細められた眼差しは、早く中に入って暖まろうと誘っているようでもあるのであった。
***
ラシェット少年から、エリス=エスルテーリ新指差女爵に、セルバルカを含めたエスルテーリ家兵の生き残り達が後に帰還すると伝えられたことを、監視役兼護衛役として付けていた"猫"に化けた表裏走狗蟲から【眷属心話】によって伝達される。
結果から言えば、ロンドール家を見張る役割を負っていたエスルテーリ家において、不忠者であったミシュレンド従士長の一派は一掃され――もちろん俺は選択的にそうした――ヘレンセル村の村長も努めていた古参の忠臣セルバルカを中心とした者達が戻る手筈となっている。
この俺の迷宮から、そして【深き泉】を巡る騒乱から、記憶を消されつつも生還せる『送還組』として。
「エスルテーリ家の"任務"は、これで完了と言えるでしょう。おそらくですが【王家】によって、王都へ召還されることとなるかと思われます。正式な"指差爵"への叙任と爵位継承の認証も必要となるでしょうから」
というのがルクの見立てである。
だが、いかにどの派閥でもなく『長女国』そのもの、すなわち【王家】に仕えるエスルテーリ家ではあっても、形式の上ではロンドール掌守伯家に仕える指差爵家。
そのロンドール家が今回の一件で完全に失墜。
さらに上役たる【紋章】家についても、そもそもロンドール家の失態をダシに糾弾されるはずだった標的として"梟"ネイリーによって情報を止められていたこともあり――初動対応ができていないことは想像に難くなく。
つまり、今現在『関所街』ナーレフにおいて、形式的ではあっても最も高位の存在は「エリス」という少女となっていた。
元は、ラシェットの「母の薬のための金を」という希望に報いたものであった。
「クク」と"名付け"られた表裏走狗蟲に金子を届けさせ、その際に、ラシェットの身に危険が迫った際に、渡しておいた【人皮魔法陣】を発動するとしたらそこに飛ばすように設定していたものが――巡り回ってこの状況を作り上げた。
「それでもしばらくは、エリスは『関所街』にいる。いなければならない。この地を掌握して鎮守すべきロンドール家の勢力がいなくなった以上、指差爵として、事態を一旦は取りまとめなければならない……だろ? それが貴種の役割だ。魔導師であり、謀略家であるかもしれないが、同時にお前達は為政者という層を成している」
無論、こんなものはわずかな間のこと。
遮断されていた情報が届くようになった【紋章】家が、きっとすぐに動くであろうが――それまでのその「わずかな」時間さえあれば、俺には充分なのである。
『送還組』は生かして帰すが、ただで帰すことはしないのだから。
そして同時に、治安を維持するだけの必要分の戦力は残しつつ――乾坤一擲であったがために、幹部連中を含めた首脳部が一掃されてしまった関所街ナーレフの「代官邸」で起きているであろう混乱に付け込むのは、今をおいて他は無いのである。
「ご明察です、我が君。差し当たり【紋章】家も馬鹿ではないので……少なくとも今の当主ジルモは老獪な男ですから」
「自分達が首の皮一枚まで追い込まれていた、と悟るでしょうね。ロンドール家の残党は、誰にも知られずに粛清されることになる、かと」
そして都合の良いことに『関所街』にいる、反ロンドール家であったエスルテーリ家の元へは、初手で「協力」と「地ならし」の要請が届くこととなるだろう。
――いや、届くようにさせるのである。
関所街にエスルテーリ家の軍勢が到来したと知らしめるための『送還組』なのであるから。
俺は、俺の迷宮の従徒となったラシェットと互いを淡く思い合っていることが明々白々たる少女を、その政治的価値によって利用する肚を決めていた。
ラシェット少年が、彼なりに精一杯の機転を働かせて、この俺の正体が露見しないように――エリスと俺が敵対する道を歩まないように――したのであれば、毒食らわば皿までの精神で、むしろそれを最後まで大きく、より大きく、エリスという少女の運命をも巻き込んでやろうと思っていたのである。
……焦れったらしい連中だよ、本当に。
お互いがお互いを守ろうとして、しかし、そのためにしている行動と行為が微妙に噛み合わずにズレているのだ。
ラシェットは、俺とエリスが敵対する未来を恐れて、俺もエリスも守るためには自分が全てを黙っていればいいと考えており――エリスはエリスで、かつてラシェットの父に母子共に救われた恩義を密かに返そうとしていることを知られまいとすることの負い目を、どう彼に返していいかわからずに。
結果、互いに本音や本心や本意やら、要は「本」のつく当のことを言うことができずにいたわけである。
要は、そこがこの俺の技能【悲劇察知】に反応したポイントだったのだろう。
だが、展開の"仕掛け"の部分が分かったならば、その"前提"を崩してやるのは単純な話だ。
――■■君と■ナちゃんに比べたら、ずっとわかりやすくて可愛いよね、せんせ。
たとえ、本来的な動きとしては将来的に王都に召還されるとしても、この間にエスルテーリ家をナーレフ市政に巻き込んでしまえば良い。この俺と同じ側に立つようにすればよい。少なくとも、エスルテーリ家はリュグルソゥム家の復讐の対象ではない以上、彼らの利害とは対立しないのだから。
どのみち、活動の自由を確保するという意味で『関所街』に干渉する必要はあるのだ。
そしてそこの問題さえ解消されたならば、後は、若い二人で勝手に、焦れったく甘酸っぱく互いの距離感を測って行けばいいだけのことでしかない。
――お互いのお互いに対する"罪"を共有することそのものを、お互いがお互いの傍にいることの理由としていた、■■君と■ナちゃんとは、違うのだから。
こんなものは、所詮は俺の【弱】印の【悲劇察知】に引っかかる程度のものでしか、ない。
「"仲人"にまでなってやるつもりは、俺には無い。だが、俺が成したことが原因で生じる不都合には、できる範囲で対処はする――それだけだ。俺は決して、同情的な人間でも、義侠心に溢れる人間でもないぞ? なぁ、マクハードさんよ」
―― 一連のやり取りを、【眷属心話】による情報の中継やらをも含めた"仕置き"をあえて見せつけながら、俺は、『審問室』に招き入れてきた者達のうち、"仕置き"という意味では大トリに当たる男に水を向けたのであった。
「【魔人】……いいや、あんたの話では『ルフェアの血裔』だったか。凄まじいことが、できるもんだなぁ。何でもアリかよ。隠していたことを見抜くなんて序の口――本人が知らない裏側の運命だって見通した上で、かよ」
「そうだ。そして俺は、そんなこの俺以上のことができる迷宮領主を相手に、生き延びていかなくちゃならないからな。戦える人材はいくらだって欲しいのさ、武力的な意味でも、知恵的な意味でもな?」
【基本情報】
名称:マクハード=ラグラセイレ
種族:人族[オゼニク人]<支種:深泉の民系>
職業:魁の壮商者
役職:後見役(所属:【血と涙の団】)
位階:40
状態:氷竜の血(適合率-3%)
【技能一覧】(総技能点85/126点)
マクハードという『商人』にして【血と涙の団】の『後見役』であった男は――【冬嵐】家というさらに強大な存在に利用され使い捨てられる運命にはあったが、しかし、それは最後の最後における詰めにおいてのこと。
"梟"やギュルトーマ家のような存在が「利用しよう」と食指を伸ばし駒に数える程度には、魔法の才無き身でありながら、征服された土地の民というマイナスのスタートでありながら、トマイル老をよく支えて【血と涙の団】をここまで育て上げたのである。
人脈と、知力と、胆力を持っている。
決断力と、判断力と、そして天運をも備えている――この俺という、余人にとっては災厄そのものたる迷宮領主の"標的"とされて相対してなお、命を落とさずに『審問室』に座すことができたのだ。
「『珍獣売り』ってアイディア、『次兄国』を練り歩いたあんたなら、もっと"色"をつけることができるだろう? ハイドリィの手下どもが顔を青くしていたこの臓器林だって、どんな使い道があるか、あんただったらよくわかるはずだ」
「はいよ、はいよ、はいよってんだ。どうせ俺は敗軍の将みたいなもんだ、命があるだけマシだって思うべきだろうしな……あんたにとっちゃ"丸抱え"が都合が良いとはいえ、まだまだ面倒見てやらないといけない組織まで温存してもらえるんじゃあなぁ」
決して【血と涙の団】の『後見役』としての彼を否定はすまい。
だが、俺は一代で叩き上げた『商人』としての彼を当初から買っていた。
侵略的な手段を遠回り・後回しとしつつも、【人世】で情報を得て、かつ自身の情報の露見を可能な限り隠していくためには、既存の「人・モノ・カネ・情報」の結節点を丸呑みしてでも抑えるのが最も効率的であるから。
「手前の運命も、俺を信じて頼っていたガキどもの運命も全部売り払ってまで【森と泉】を守ろうとして下手を打った。そんな俺の尻を丸ごと拭ってくれるっていうんなら、俺にはもう、あんたの"構想"に乗るしか選択肢なんて無いっていうのによ」
「ハイドリィとあんたじゃ、あんたの方がずっとマシだし好感が持てるからな。マクハード=ラグラセイレさん」
「どっちも他の誰かを利用して、自分のために死なせた悪党だぜ? ハイドリィが裏切るかもしれないと考えて消すつもりなら、どうして、俺が裏切らないって思えるんだ? "お人好し"のオーマさんよ」
「そんな簡単なことを、こんな"若造"に聞くなよな……あんたはいつだって、自分の手が最善じゃないかもしれないと思い続けてきた。そうだろう? マクハードさんよ」
きっとそれは、志向する目的そのものが質の部分で違っていたということであろう。ハイドリィは、それなりに歴史と誇りがあったのかもしれないロンドール家の悲願を、【紋章】家や『長女国』そのものを見返すために邁進していたが――その"先"にあるのは限られた、自分、の延長線上にある存在のことだけを考える視点。
故に、彼は優秀なれども独善に落ちた。
……例えば、嘘でも良かったから、そうすることがより多くの善に繋がるだとか、そういう展望を描いて見せてくれれば俺の印象もまた違ったろうに。
「【奏獣】の行末は『長女国』内での更なる"荒廃"の進展でしかない。それは陰謀の道具であって、脅迫と恫喝のための凶器としてしか使われない。だが、あんたが仮に【奏獣】を使いこなしていたら――少なくともあんたは、自分のためではなく、【森と泉】の民のための武器としただろう?」
一文字しか違わないが。
俺が"武器"と"凶器"という語に込めた意味上の差異は大きい。
共に【紋章】家の支配に対する反抗を志していながら、その故に"共犯"関係にありながら、マクハードのそれにはハイドリィのような暗い報讐の情念が最優先のものとまでは感じられなかったのだ。
……まぁ、種を明かせば、『獅腹』と書いて「しふく」と読む彼の『称号』からの逆算もあるのだが。
仮にマクハードがハイドリィの同類であれば、20年前に同胞を殺戮されたことの復讐のために『長女国』の民を殺戮しようとする願いを持った男だったならば、もっとらしい称号が与えられていてもおかしくないはずだ、と俺には思えたからだ。
――だから、俺が【四季一繋ぎ】を終わらせたことを恨んでいるか、などという無粋なことを聞く必要すらもない。
「あんたは元【涙の番人】として、あの【四季一繋ぎ】を――それが人々の生活に結びついた『ひととせ』の有様を、身をもって体感して、知ってるはずなんだからな。俺には、わかるよ」
行いが赦されるであるだとか、そういうことを言っているのではない。
マクハードはマクハードとして、そう遠くない将来、彼が犯した行為によって岐路に立たされる瞬間に遭遇するだろう。ここで終わることを選択しないのであれば。
だが、それは少なくとも彼の問題であって、今俺がこの有能な男を「生かして活用したい」と思えるかどうかは……極めて個人的な機微の部分からの判断に過ぎない。
それが、マクハードと同じく、旧ワルセィレの民を【血と涙】に変えた執政ハイドリィ=ロンドールとの違いであった。
叛逆という野心を抱えていたハイドリィは、優秀な行政官ではあったとしても、例えば街全体を発展させる上で権力を分散させたり集団指導的な体制作りなどには、その能力を役立てることはなかったのだ。
側近達を通して、それぞれに限定された領域を任せつつ、相互には分断させておいて――自分自身が権限と情報の管理を一手に握る独裁統治を行ってきたわけである。
故に情報の共有が遅く、その"頭"が丸ごと刈り取られた今この瞬間、ナーレフの官吏達は、自分達が混乱の中に叩き落されたことにすら気づくことができていない。
無論、そのままであれば、事態を収拾すべく【紋章】家が乗り込んでくる可能性が最も高いが――。
「……まぁ、ハイドリィの秘密の"共有者"で、途中までは"共犯者"だったこの俺は、その分断とやらの間を泳いでいた存在だ。実際、泳がされていたしなぁ」
「――御方様のおっしゃるその『結節点』が定まらぬこの"間"にこそ、それを、我らに都合の良い形に誘引する好機というわけですな」
「管理と統制と統合は、この俺の"力"で強引にやってしまう。まだ、本当に恐ろしいのが【情報閲覧】だと知られていないからな」
そう言って俺は【魔力灯】を通し、【リュグルソゥムの仄窓】によって、送り出す直前にあれこれ"点振り"をしてやった、正式にこの俺の従徒となったばかりの少年のステータス画面などを映し出した。
【基本情報】
名称:ラシェット=ボーマイス
種族:人族[オゼニク人]<支種:魔導の民系>
職業:武装商人
従徒職:茶坊主(所属:【エイリアン使い】) ← NEW!!!
位階:14
【技能一覧】(総技能点55点)
「仕込み甲斐がある少年だろう?」
「あぁ、あんたはお人好しだが……ものすごくひねくれた天邪鬼みてぇなお人好しだって認めてやるよ。わかってたら、もっと違う攻め方してたぜ。負け犬の遠吠えだ、たっぷりと聞いてやがれ」
後々の上位職業への派生を見込んで、しかし基礎的な部分は【継承技能】となるように職業技能は最小限に。
――いずれ遭遇するであろう「英雄」を、いち早く察知して、その運命に干渉することができるように。
今のうちからマクハードにはラシェットに『商人』としても、そして『後見役』としても、しっかりと仕込ませれば良い。
そしてそれを以て、マクハードという、好感は抱くが完全に信用を与えるわけでもない男に対する"枷"の一つとする。
≪ま、そうなりますよね~。逆らっても仕方ないから従うってだけにしか見えませんし。望みを叶えてやる限りは裏切らないでしょうけど……≫
≪【闇世】や迷宮領主のことを学習していって、知識と知恵を付けたらわからないよ……わかりませんよねー!≫
≪しかし、旦那様は「そうあれ」と望まれますからなぁ! 己のもっともしたいことをしろ、と≫
≪そうだとも、それが旦那様だ。それで「その結果」として、旦那様をこの小僧がいつか裏切るとするなら、それはこいつの選択だ≫
≪まぁちょうどいいではないか! 『珍獣売り』の役目を引き継いで――俺達は俺達の一番やりたかったことをできる、というものだな! はっはっはっはっは≫
【眷属心話】の領域で他の者達が己のことをどんなに好き放題言っているかなど、知ってか知らずか。
だが……彼が「そこ」に参加できるようになるためには、1つ、解決しなければならないことがあるのであった。
「で、だ。マクハードさん。生かして望みを叶えるささやかな手伝いをしてやる代わりに、あんたにも協力してもらわないといけないことがある」
「ハンダルスのことだろ? 【冬嵐】家の詳細な事情まではわからないが、まぁ、俺にわかることならなんなりと、我が首領よ? ってな」
「それもそうだが、まぁリュグルソゥム一族はきっちりしている。俺じゃ見通せない部分まで、きっと洗いざらい暴いてくれるだろうから、楽しみにしておけよ――あぁ、それだけじゃなくて、まだあるぞ」
尋問は本題ではない。
俺は竜人ソルファイドを――【火】の気配を隠すこと無く漂わせ、マクハードの毛先すらをも見通す【心眼】で静かに見据えている【火竜】の末裔を目で指し示す。次にマクハードのものに映し直した【仄窓】の一点を、わかるように見据えてみせた。
「俺の従徒にしてやるために、少々、掃除が必要だよな? ――先に言っておくが、死んだらそれまでの男だったと思うことにするからな」
無論、【エイリアン使い】の名にかけて簡単には死なせることはしないが。
マクハードの体内に巣食った【氷竜の血】は稀少な情報であり試料であり研究材料であるため、可能であれば抽出したいとは思うが――例えばこの俺の権能たる『因子:氷属性』に不測の反応などをされて、またあの劣化体が出現するなどという面倒な事態が起きるぐらいならば、すっぱり、この場では浄火してしまった方がマシである。
「あぁ、拒否権なんて無いし、思い切りやってくれ。どうせ一度は【氷の竜】なんぞに身体を奪われたんだ。今更【火の竜】に焼かれたって、1回が2回になるだけだろ。望むところだ」
声をわずかに震わせていたのは、高揚か、はたまた恐怖を感じつつも己を奮い立たせようという意思であったか。
リュグルソゥム一家に預ける前に、まず、マクハードへの"処置"をソルファイドに行わせるべく、連行役の走狗蟲達に連れて行かせたのであった。
「次で最後だ。ルルを連れてこい。一番の疑問点の整理に取り掛かるとしようか」





