町彦来たりて音返す
あ、つぶらやくん、その歌って確か最近はやってるアニメのやつだろ?
いや~、宣伝とかでよく流れるからさ。アニメ自体は全然知らないんだけど、歌だけは覚えちゃうんだよね。これもコマーシャルの狙っている効果なのかな。
音楽の歴史が長いことは、いまや誰でも知っているものだろう。はるか昔の儀式だって打楽器を用いた演奏に歌をくわえて、進行をうながす役目を担っていたという。そこから長い時を経て芸術になり、文化になり、娯楽ともなった。
なにしろアマチュアな立場の人でも、発信が容易になった時代だ。ちょいとネットワークを漂えば玉石混交の音楽の波に浸ることができる。個人の好き嫌いもでかいから、どれがよくて悪いのか、一概に評しづらいけどね。
いい音楽は魂に響くと形容されるほど印象深い。が、これだけ歴史が長いと悪い音楽っていうのもまた多いのさ。その嫌悪によっておさえつけている力のおかげで、なかなかおおっぴらにはならないけれどね。
僕も以前に、悪い音の一片に出くわしたことがあってね。そのときのこと、聞いてみないかい?
先ほどのつぶらやくんの場合は鼻歌だったが、ついつい口ずさんでしまうケースというのもこの世には多い。
テンションを上げたり、歌のメロディや歌詞に浸りたくなったり、あるいはこれから何かアクションを起こす自分の気持ちをコントロールするのに重宝するだろう。
僕もその日の夕方はすこぶる機嫌がよく。電車を降りてから家までの徒歩十数分のうち、駅が見えなくなったあたりの小道で、当時のフェイバリットソングを口ずさんでいたんだ。
けれど、サビに差し掛かったあたりで、ふと気づいてしまう。
――あれ? 誰か自分以外に同じ歌を歌ってないか?
かすかにだが、自分の声よりもやや高めな声が、ほぼリズムを重ねながら歌っている。
ぴたっと、口を閉ざした。それに合わせるかのように歌声もまた、ぴたりとやんだ。
ちらちら、とまわりを見回すも、自分以外の通行人の姿はない。周囲の家々には明かりこそ灯れど、窓を開けていたりして音が漏れそうな環境下でもない。
首をかしげながらも、しばらくてくてくと歩いてから、またぼそぼそと歌い始めてみると……。
――やっぱり、いる!
先ほどの家に挟まれた小道と異なり、今は橋の上だ。身を隠せるようなスペースはない。
どのような人影も見逃すまいと、僕はいっそう気を張り、目を凝らした。にもかかわらず、近辺には誰の姿も認めることはできず。ただ車道に相当する橋の真ん中を、車がいくらか行き来していくばかりだったのさ。
さすがに気味悪さを覚えてね。そこからはもう歌わずに黙って家まで歩いたんだ。
ところが、夕飯時で家族と食卓を囲んだ際に、そのときの話をしたらちょっと驚かれてね。ひょっとしたら「町彦」の仕業かもしれないといわれたんだよ。
町彦とは、端的にいえば山彦の町バージョンのようなものらしい。
山彦はいわずもがな、山や谷の斜面に音や声が反響して、こちらへ返ってくる現象のことだ。それを昔の人は、山や樹木の精霊がこちらの声に対して返事をしているのだと受け取り、やまひびきとか、やまひびくこえとかがなまり、そこに男の呼び名である「彦」をくっつけて「山彦」としたのだとか。
しかし、町彦となるとちょっと聞いたことがない。昨今の高層ビルをはじめとした建物たちに、うまいこと声が反響したのなら山彦に似たような現象も起こるんじゃないか、とは思う。
しかし、家の建つ小道ならまだしも、遮蔽物のほとんどない橋の上でも起こるとは、どういうことだ? そこを問いただすと「つまりは移動する何かが、そこにいたってことさ」と返されたよ。
町彦が起こるのに、特別な環境をととのえる必要はない。ただ向こうから、そいつがやってきさえすればいい。そいつは受け取ったものを、気の向くままに返すだろう。
ただ、返されたなら注意せよ。いったん、触れて返ったそれは、放ったものとは似て非なる。五色の響きを帯びるだろう。
「つまり、町彦から返ってくることになったそれは、良いにせよ悪いにせよ、何かしらの影響を及ぼしてくるだろう、ということさ」
その言を、僕はほどなく味わうことになる。
次の日は休みということもあり、たっぷりと眠ろうと思った。
前日の夜更かしと足し算すると昼前後まで布団の中でぬくぬくしていることも、ざらだ。
けれどもその日は、ぱっと目を覚ましたとき、平日の学校通いをするときと大差ない時間帯だったんだよ。
なぜ、起きてしまったか。それは例の歌が耳の奥へ届いた気がしたからだ。夢を見ているうちから響いている気がする。
あまりに気に入りすぎて、脳裏に焼き付いてしまっていたのか?
あほなことを考えつつ、横になったまま耳をほじる僕。ほじった直後は、その音もやむのだけど何秒かすると、また聞こえ出してくるんだ。5回も繰り返して同じことだったから、勘違いの域は越えているだろう。
――こいつが、町彦の作用か……?
そう思いつつも、まだ自力解決をしたい僕は身を起こして、耳かきをとりにいった。
ほんとうに小さいころ、親に耳掃除をしてもらって以来、耳かきそのものをしたことがない。それでも手探りで、そうっとそうっと耳の中をほじっていったところ。
するり、と耳の中を滑るものの感触。
普通の耳垢であったなら、ごそりと音を立てて耳から外れていく感じがしそうなもの。それがこれは引きずっているかのよう。
すさまじい大物なのか? と期待半分、怖さ半分。なおも僕は耳かきを突っ込みつつ、慎重に動かしていくが、じょじょに後者の感情が勝ってくる。
姿見に映した、自分の姿。それはそばのようにグレー色をした一本の麺を、長々と耳から垂らすものだったんだ。耳かきによって引き出されたそれは、すでに顔を通り過ぎ、肩へ届こうという長さながら、いまだちぎれず、途切れず、耳の中へ残っているのがわかった。
そこに神経を凝らせば、そのそばらしき耳垢がかすかに揺れ、僕の好きなあの音楽を奏でていたんだ。体の中にね。
結局、独力でこいつを絶つことはできたが、代わりに両耳からそれぞれ1メートルばかりの奇怪な耳垢……らしきものを吐き出すことになった僕。
今のところそれ以上の変調はないが、また町彦に近づかれやしないかと警戒はしているんだ。




