嫌~なあの人
つぶつぶにはさ~、苦手としている人がどれくらいいるの?
あはは、そんな慌てなくてもいいっての。たとえアタシが苦手だとしても、怒ったりしないって。どうしても、距離置きたいなあとか考えちゃう相手はいるものよ。物理的にも、精神的にも。
なんだろうね、嫌いとか通り越した苦手っていうのは。煽りでもなんでもなく、遺伝子レベルで敬遠しちゃうって、自分でも信じがたい気分になるのよねえ。前世でなにかあったんじゃないか、という表現もあながち間違いじゃないのかもしれないわ。
別に生まれ変わりがどうこうじゃなくって、はるか以前のご先祖さまから受け継いだものがうずくというか。がちでやばい相手っていうのは、種のために受け継がれているのかもしれないわね。
アタシも小さいころ、ほんとーにダメな相手っていうのがいてさ。ちょっと大変な目にも遭ったわけ。そのときの話、聞いてみない?
――また、あの人だ。
そう認識すると、アタシはもうじき青になる横断歩道待ちの列から、そっと逃げ出した。
季節は春先。水色のポロシャツに、深い青色のジーンズを履いたその人は白髪がちらほらと混じった40~50代の男性だったわ。
アタシの当時住んでいたところのどこかにいるおじさん、という認識くらいで家も知らない。アタシまわりの人でも顔を知っているという声は聞いたから、アタシにだけ見える人みたいな手合いでもない。
顔立ちだけでみたら、整っているほうだと思うけど、アタシはどうもそのおじさんに強い苦手意識を持っていた。
遠目に姿を見るだけで、両足の裏側がピリピリし始めたり、つつっと水が伝うような感覚をともなったり。汗が肌を垂れるようなものとは、ちょっと違うのよね~。こう、皮膚の内側へもろにしずくをこぼされたかと思う、ダイレクトなものよ。
とにかく、そばへ近寄るのも嫌なわけで、アタシはそのときも逃げを選んだわけ。
横断歩道を越えると、その近くにバス停があって、アタシはそこに用があった。けれどもあのおじさんを見てしまった以上、その近辺にとどまることは気がすすまない。
アタシは遠回りをしてひとつ先のバス停まで移動して、そこからバスに乗り、目的地へ移動したわ。そこでの用事も無事に済ませることができたけれど、ちょっとくたびれちゃって。
家の近くのくだんの停留所まで数十分はかかる道のりだったこともあって、バスの最後部の席へ腰を下ろすや、うとうとし始めてしまうアタシ……。
それが、あのピリピリとくる刺激で、はっと目を覚ましたわけ。
寝る前に比べて、どっと密度が増した車内。その私の座席の真ん前、バスの後部タイヤの上へ乗っかるような位置に腰を下ろしていたのが、あのおじさんだったわけ。
――これは、まずったなあ。
最後尾の席だと、前の座席たちの間を縫った中央のスペースを抜けなくては降りられない。つまりは、あのおじさんの横を通る必然性が生まれてしまった、ということ。
外の景色を見る。どうやら、私が寝入ってからさして時間は経っていなかったみたいで、目標とするバス停はまだまだ遠い。歩き通す元気はないけど、いったん降りて新しくバスを待つという策もあったでしょう。
でも、アタシにとってこのおじさんの横を通る、というのは一世一代の大博打のようなもの。正直、足をそちらに向けるだけで脊髄に冷たい氷の柱を突っ込まれたように、生きた心地がしなかったわ。通路よりも、いっそバスの窓をぶち破って外へ飛び出したいような心地だった。
高いところが苦手な人の話とかにもない? 観覧車とかが止まって、このまま高いところにとどまり続けるくらいなら、いっそそこから飛び降りてしまいたい……という感じ。
あれに近いものよ。とはいえ、実際にバスを壊すような真似をしたら、あとあとどのような迷惑をこうむるかという想像だって、漠然とだけどもできる。やるわけにはいかない。
アタシにとって最高なのは、このおじさんが自分からさっさと降りてくれること。そこまでいかずとも席を移ってくれること。後者をバスで期待するなんて、ほぼできないものだけどね。
一つ目……二つ目……。
停留所が過ぎていくのを、アタシはまるで長蛇の列のトイレ待ちをするような心地で、どうにか我慢していたわ。
おじさんは先ほどから不動の姿勢。バスの揺れに多少は体を動かすことはあっても、ほかの乗客がするような居眠り、読書など別のことに集中、車内広告や外の景色をぼーっと見る……なんてことに神経を使っている様子なし。
ただ一点を見据えたまま、こちらを振り返ることだって一度だにしない。時間が過ぎゆくままに任せている。
――早く、早く、降りてくれないかなあ。
もじもじしながら、アタシはその人の背中へ念を送り続ける。
あの皮膚の下へしずくを流されるような感触をすでに何度味わったかわからないし、本気でトイレに行きたい気もしてくる。
おじさんの早期退去に賭けて、もたもた、もたもた我慢を続けたアタシはとうとう目標の一つ前のバス停にまで来てしまう。
そうして降車ベルも鳴らず、バス停で待っている人もおらず。バスは無情にもそこを通り過ぎてしまう。
――次で、もう降りなくちゃ。
刑を執行される直前の人の気分て、こんなものなのだろうか。
これまでほかの乗客たちが増えたり減ったりするのは見てきたが、あのおじさんはついぞ動かなかった。
ほどなく次のバス停の名がアナウンスされ、アタシは降車のベルを押す。
「次、止まります」と告げる声が、アタシに覚悟を決めさせる合図だった。
たぶん、横を通るときに猛烈に嫌な思いをするだろうけれど、ほんの一瞬だけ。そこさえ乗り越えればもうあとは幸せ一直線なんだ。
ポジティブ思考で不安を塗りつぶし、いよいよバス停前最後のカーブを曲がりきったところで、アタシは席を立つ。近辺の手すりやつり革をたのみにしつつ、前へ進む。
おじさんの横を通るときは、ほんのわずかな間とはいえ、静電気に全身を貫かれたような痛みが走ったけれど、喉元過ぎればなんとやら。
もっと早くにこうすればよかったかなあ……なんて、ムシのいいこと考えながら、あらかじめ取り出していた小銭を握りしめるアタシ。当時はまだICカードどころかプリペイドカードも普及していなかった時期。バス車内の両替機がバリバリ使われていたわ。
でも、支払いを済ませて降車のためのステップを下りていくアタシの背中へ、しずくが垂れ落ちていく。あの皮膚の下を走る感触で。
いた。
おじさんが降りてきていた。アタシの降りるすぐ真後ろで、お金をジャラジャラと払う音を響かせながら。
考えてみれば、そこまでおかしくない。アタシの住んでいる地域でよく見かける人なのだから、同じバス停で降りることは十分考えられる。アタシのあとから降りてくるのも、奥の人を先に通すという、マナーの実践にすぎない。
でも、アタシとこの人、という関係においては別だ。
アタシはすぐ降りきって駆けだそうとしたけど、後ろからはどんと大きめの音がひとつだけした。
おそらく複数段あるステップを、いっぺんに飛び降りたんだ。そう思ったときには、さっと目隠しをされていたの。
あのおじさんにされたんだ……! と思った時には、もう目隠しが外されている。
目をぱちくりさせて振り返ると、すでにおじさんは私に背を向けて、何歩も先を歩いていたの。
あの人の意図がわからない。気味が悪いし、追いかける気分なんかにはとうていなれなかったけれど、ほどなく実感したことがあるわ。
あの人の背中を見送っていても、あのしずくが皮膚の下を伝う感覚や、しびれに痛みなどを伴う感覚が、いっさい感じられなくなっていることにね。
それからもおじさんを見かけるときは見かけるけれど、以前のような感覚がよみがえってくることはなかったわ。ひょっとすると、あのときのおじさんの目隠しがきっかけなのかもしれない。
アタシがおじさんを目にするたび、やたらと苦しさのようなものを伴ったのは、アタシ自身じゃなくて、アタシの中に潜む何かが発する危険信号だったのかもね。おじさんを徹底的に警戒するような。
それをおじさんは除いてくれたんじゃないかと思う。もっとも、アタシがやはりおじさんを苦手気味というのは、変わらないんだけど。




