狐の山人
これまで、どれだけの人間がこの地上に生きてきたのだろう? こーちゃんは、検討がつくかい?
地球の46億年の歴史を1年にたとえた場合、人類が生まれたのはラストの4時間程度でしかないという。産業革命が起きてからの時間はわずかに1秒程度のものなのだとか。
その間に人間はどんどんと数を増やし、資源を活用することで生活の範囲もレベルも大幅にアップさせてきた。けれど、そこにはとてつもない数の犠牲もまた存在している。
昔とは比べ物にならない数、速さ、手段でもって広がっていく人間の世界じゃあ、誰が……いや、「なに」が消えているかなんて、細かくチェックはしていられないだろう。
それらのイレギュラー的なものが、「おばけ」にたとえられていることもあるのかなあ、とも思ったりするよ。
最近、友達が話してくれたことなのだけど、聞いてみないかい?
友達が小学生のころ、山人を見たといううわさがクラスで流行ったらしい。
山人とは文字通り、山で見かける人間の意味合いだけれども、友達間では学校の裏山でときおり見かける人影のことを指す。
これまで見たと話す者は10人程度いるのだけど、その正体はいまだつかめたことがない。裏山は子供たちにとってかっこうの遊び場で、そこで遊ぶ子たちが証言しているんだ。
山人はたいてい、ふと目線を上げた先にある茂みの中にいる。雑多な枝葉にまみれているべき景色の中で、狐のお面をつけた顔が混じっているからすぐに分かるし、ぎょっとする。
向こうもこちらを見られたと悟ると、さっと顔を引っ込めてしまうものだから、満足に観察もできない。追いかけようとした子もいたにはいたが、例の茂みの近辺に人間だったら残すであろう足跡のたぐいなどは見つけることができなかったんだ。
でも、お面からはみ出る部分からのぞいているのは、人間の髪の毛。ゆえにあれは人であると多くの子が思ったんだ。
意識して探すと、この山人はなかなか見つかることがない。
実際に、一日かけて裏山をめぐったという子供もいたそうだけど、ついぞ山人には会えなかったらしい。ひょっとすると、山の中に住んでいるのではなく、よそを出歩いている可能性もある。
しかし、山を下りていたとして、あの狐のお面をかぶっているとは限らず、まったく手掛かりがないし、探らなくてはいけないだろう範囲も広いし……となかば怪談じみた存在であったわけだ。
友達自身も話は前々より聞いていたが、そのときはあまり興味がわかなかったらしい。けれど当時は怪談ブーム真っ盛りということもあり、友達も山人を探してみるかという気になったらしい。
探そう、探そうとすると山人には出会えない。そういわれているが、もしも自分がそのジンクスを破れたなら、かっこいいじゃないか。
そのようなことを思いながら、友達は裏山の中へ足を踏み入れたんだ。
苦労した先にこそ、宝は見つかるもの……そのような先入観があり、友達はすっかり油断しきっていたそうだ。
裏山に入っていくらもいかないうち、急に自分の首周りを締め付けられたんだ。
とっさに首近くへ伸ばした手が触れたのは、人の肌と思しきものの感触。さっと滑らせると、そこにはふくらはぎのものと思しきふくらみが……。
そう思う間に、ぐっと首が締まったかと思うと、視界と一緒に身体も回転。足も地面から離れて、投げ飛ばされてしまう。
――フランケンシュタイナー系? いや、ヘッドシザーズ・ホイップだと…!
プロレスもちらほら見ていた友達だけど、まさか自分が山の中でかけられる側になるなんて、想定していない。
まともに受け身も取れず、ぐるっと回って背中から固い地面に叩きつけられ、肺から一気に息が絞り出される。
その一瞬、遠のきかけた視界の中で、ぐっとこちらをのぞき込んできたのが狐のお面の主。
山人だ。
友達はほとんど吐き出し切った息が止まるような思いもする。話には遠目に見るだけだったという顔が目の前にある。
けれど、嬉しさなどみじんもない。今はひたすらマヒした肺の機能を取り戻すのに精いっぱいで、どうにか息が吸えるようになったときには、もう山人の姿はどこにもなくなっていた。
体中がいまだに痛むこともあり、友達は山から逃げ帰る。まさか危害を加えてくる輩とは思っていなかったから。これ以上、プロレス技をかけられてはたまらない。
けれど友達はその日から、家族や友達にしばしば指摘されるようになる。
顔がどこか狐じみてきた、と。
鏡で確認するも、不思議と友達自身は狐のようには思えないんだそうだ。じゃあ、僕は……というと、いわれてみれば狐に近いかなと思う。
写真かい? う~ん、持っているけれど……データだとどうだろね。つぶらやくんにはどう見える?
ごく普通の人で狐には思えない、か。うん、以前の彼は確かにその印象だし、おそらくデータかつ彼と関わりない人にはそう見えるんだろう。僕はやはり狐の印象をぬぐえない。
だから友達は今も恐れている。
いつしかみんなの自分への認識が狐となりきってしまうとき、自分も山人のごとき存在になっちゃうのでは、と。




