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タライのそらざらい

 ふう~こうして温泉に入るってのも久々な気もしてくるな。

 年中、温泉に入るっていう人もいるかもしれないが、うちは寒くならないと足がどうにも向かないタチでね。今年に入ってからだと、はじめてじゃないか?

 温泉に浸かることで、入り口に掲げられていたようなもろもろの効果が得られるとされるが、おかれる環境の変化もでかいと思うんだよな。

 自分の家なら勝手知ったるなんとやらだが、外に出ると景色も空気も変わる。人の出入りだってあるだろう。そこできっちりと気持ちが切り替わるゆえに、身体も刺激を受けてよい方向へ行くんじゃないか、とね。


 ――どうせなら、そこに面白い話でもつけてくれると、もっといい?


 お前、いつでもどこでも貪欲すぎるだろ……少しは落ち着いたほうが、かえって頭も回るかもしれないぜ?

 でもまあ、そうだな……じゃあ、ここの洗い場でも使われているタライに関する話をするか。


 洗濯機が出張ってくるまでは、タライはメインの洗濯道具のひとつだったといえよう。

 外国でも全身で湯につかるのがよしとされなかった時期に、タライを用いた行水が中心だったと聞く。ほかにも寿司桶として使われたり、舟として使われたりと幅広く応用が可能だ。

 だが、俺の地元だとそれら以外に「そらざらい」に使われることが多かったそうだ。

 そらざらいのそらは、漢字の「空」だ。文字通り、空中のことを指す。

 つまり、そらざらいとは空中でたらいを振り回すかのような動きでもって、すくい、さらっていくのだとか。


 なぜこのようなことをするのか、というと地元には空気を読む独特なやり方が伝わっているのだという。人間集団における雰囲気とかの話ではなく、文字通りの体へじかに触れてくる大気のことだ。

 これを占いに用いる技術があるというのさ。地元では今も、昔ながらの木製のタライが一家にひとつは用意されている。普段使いをしなくても、そらざらいに用いるためだ。

 そらざらいの周期はおよそひと月に1回程度だが、例外的に臨時で行わなくてはいけないときもあるんだよ。


 子供のとき、俺もそのタイミングとかち合ったことがある。

 確か、学校から帰ってきたばかりの午後だったな。5コマ目までしかなかったから、夕方と呼ぶにもまだ早い時間帯だった。

 玄関の戸を開けるや否や、むっとした熱気を伴った風が俺の頬をなでる。ほんのわずかな間の接触だったが、顔をしかめるに十分だった。

 とてつもなく、臭かったからだ。カメムシの発する臭気をベースに、さびついた鉄をふんだんにブレンドしたような、一度嗅いだら鼻を通して脳の奥まで刻まれるような悪臭だった。

 同時に確信した。これは「そらざらい」をすべきときなのだと。あらかじめ教わったような状況だったからだ。


 すぐに家の中の母親へ報せる。

 母親もそれを受けて、予想していた通りに木のタライの出番となった。うちの、そらざらい用のタライは、床下収納の中におさまっている。普段は梅干しづくりのためのつぼが入っていて、その横にデンと空っぽな状態で置かれているから、ちょっぴり妙なかっこうだ。

 そのかすかな梅干しの臭いを帯びたタライを握り、母親は玄関へ立つと、すっすっとタライを左右に動かしながら、すくいあげる動作を繰り返す。

 あたかも、そこにたっぷりと水があるかのような動き。しかし、水があるなら奏でたであろう「じゃぶじゃぶ」という気配なく、タライは空を切っていく。

 けれども数十回の動きのあとに、タライを見たならばその異様さは一目瞭然。引き上げた母親が持ち帰ったタライは、本来の木材が持っていた黄色味を帯びた白など、ほとんど残っていなかった。

 代わりにそこを染めるのは、藍色。いやつゆ草色に近い青色を帯びたものに近かったな。

 わずか数分のそらざらいでもって、タライはほぼ汚されつくされたわけだ。


「こいつはまた、イキがよさそうだね」


 そうひとりごちた母親は、そのまま家の裏手へ。裏庭に出したままの物干し竿へ向かった。

 そこにはいくつか、ひもで括り付けた洗濯ばさみがある。中には布団も優につかめるほどの大きさのものも備えていた。

 すでにほかの洗濯物は取り込まれていて、竿はがらがらだ。うち、端っこの大きめのひとつを選んで、母親はタライのふちを挟ませて垂らしたんだ。

 こうまで、そらざらいをして汚れたタライの最後のお勤めが待っている。めったに見られないこともあって、俺は家の窓越しにつるされたタライをじっと見守っていた。


 5分ほど経っただろうか。

 不意に、甲高い音とともにつるされていたタライが、大きく揺れる。

 風のためではない。揺れがおさまったときには、向かって下部。地面に一番近いタライのふちに大きくヒビが入っていたんだ。

 いったん始まると、そこからはもう立て続けだ。

 一度とまったはずのタライは、何度も音を立てて激しく左右に揺さぶられた。そのたび、先ほどまでタライだったものの一部が割れて、真下に飛び散る。

 十数回も経たのちには、もうタライははさみでつるされるわずかな部分しか残っていなかったんだ。これは処理されたのち、新しいタライが用意されて、またあの梅干しのかめの横で時を過ごすことになるだろう。


 あの臭気は、このタライを砕いたものによるマーキングの一種とされている。

 それをさらって、色とともに移せるのは木製のタライのみ。さもなくば、臭いをかいだもの自体が、ほどなく打ち砕かれてしまうと言われているんだ。

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