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タンス引き

 人の注意は、目の届くところがいいとこである。

 いや、僕なりに考えた僕の意見だけどね。見えていないものに対して、気を回すことには限界があるってことさ。

 空気とか人の心とかは、見えないけれど見ることができなくもない。これまでの状況とか相手のしぐさとかから、「おおよそ、こんなことがあった。もしくは考えているんじゃねえかなあ……」なんて想像したりね。

 しかし、それらの気配がちっともない。直立不動の輩に関しては、同じようにいかないもの。想像力を膨らませることはできるものの、実態に即しているかの確信は得られないまま接するよりない。

 閉めきった扉、タンス、押し入れ……普段から用がない場合のそれらは、ひたすらそこにとどまるのが仕事。僕たちもまた、「背景その1」として処理し、それ以上は深く突っ込まない。

 ゆえに、いざ用事があるときには、少し気を付けたほうが良い点があるかも……。僕のむかしの話なのだけど、聞いてみない?


 僕が友達の家へよく遊びに行っていた、小さいころの話だ。

 彼の家は僕の知る友達のものの中では一番大きいお屋敷で、遊び場として通される部屋は和室だった。

 畳の数を数えてはいないが、おそらく6畳間を2つくっつけた程度の広さはあったと思う。座椅子、座布団などは隅にかたされていて、必要に応じて持ってくるスタイルだから、来たばかりの部屋はいつも広々とした印象を受ける。

 鬼ごっこするにはやや心もとないが、何かしら決まりをもうける遊びに関しては十分なスペース。それでこれまでは満足していたのだが、ボードゲームのたぐいもいささかマンネリ化してきていた。

 そんなあるときに、友達はこれに誘ってくれたんだ。


「なあなあ、タンス引きしてみないか?」


 タンス引きとはなんぞ、と思っている間に、友達は部屋の隅にあるひとさおのタンスへ向かっていく。

 五段の大きめの引き出しがあるタンスで、てっぺんには市松人形の入ったガラスケースが乗せられている。


 そのタンスの前で、友達は身体をくねくねと揺らす奇妙な踊りをしてみせた。

 およそ5秒といった短い時間だったが、腕ははにわの湾曲したそれに似たようなポーズをとりながらも、身体全体も同じようにくゆらせて、とてもマネができないとひと目で思うものだったとか。


「さあ、お開け、お開け!」


 そう友達がタンスの真ん中の引き出しへ手をかけて、ぐいっと引っ張り出した。


 すると、引き出しの中からにゅっと腕が飛び出して、すさまじくぎょっとしたよ。

 その腕は太さこそ人の手のそれだったのだが、その手のひらの指は四本で、肉球らしきものが浮かんでいる。

 手首のみをひらひらと左右へ揺らす様に、友達はにんまり笑うと、その手首を両手で握りしめる。そのいとおしさたるや、生まれてはじめてもらった誕生日プレゼントを大事にするかのごとく。

「は~」と小さいため息をつきながら、恍惚とした表情を浮かべる友達。僕という客の前だというのに、その頬の緩み具合といったら、ない。

 タンスの中の腕はというと、友達に握られてからは一向に動く気配を見せず、されるがままの不動を貫いている。


「ささ、君も試してごらんよ」


 口調までのんべんだらりとした雰囲気をこぼしながら、友達が声掛けしてくる。

 当初は僕も気味悪さを覚えていたが、あまりに目の前で心地よさそうにされるのも、それはそれでちょっとむかっとしてくる。

 どれほどのものか見てやろう、と僕は友達の横へ並ぶと、友達の手へ更に覆いかぶせるようなかっこうで、己が手のひらを広げながら近づけていく。


 友達がさっと離した手の後釜に座るような感じで、僕はその4本指の肉球を包み込んだ。

 その瞬間に「あ、これはやばいわ」と直感する。

 目の前がね、たちどころにくらんで見えなくなってしまう。激しくまぶしいものを見てしまったかのような直後なのだけど、そこに不快感はない。

 手のひらを中心に、自分が望む気持ちよさを何倍にも高めたような熱さ、気持ちよさがたちまち血管の中へ押し寄せてくるのだから。

 自分の大好物を思えば大好物の。自分の妄想を思えばその妄想の。

 想像して得ていた糧たちを、身体の全神経があますところなく享受しようとしているんだ。本来は視覚に割り振るべきエネルギーまで、こちらへ注ぎ込んで、ね。


 いけない、と思ったのはここだ。

 極寒の中で浸かった温泉から出たくなくなるのと似て、グズグズしていると、離れる機会さえも失ってしまうだろう。

 思い切って両手を離すと、待っていましたとばかりに腕はタンスの中へ引っ込んでいってしまう。友達はトイレにでもいったのか、席を外していたよ。

 開きっぱなしのタンスを今一度のぞいてみたけれど、例の腕の主らしきものは何もない、変哲のない底が見えるばかり、というのがまた寒気がした。

 あの腕の主はどこにいるのか。引き出しを開く前の友達の踊りにどれほどの意味があるのか。


「あ、おしまいにしちゃったんだ。面白くなかった?」


 ほどなくして部屋へ戻ってきた友達は、のんきにそのようなことを尋ねてきたが、まじめに答える気にはなれない。

 適当にかえして、それからは友達の家とはそれとなく距離をとっていったよ。

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