豊穣の肥やし
んむ、んむ、やっぱりお肉は骨付きに限るねえ。
骨なしよりも味が上だし、肉は柔らかいし、ベリーグッドだね。食べやすいから骨なしがいい、という人もいるだろうけど、僕は骨をいつまでもしゃぶっていたいんだよねえ。アイスの棒みたいにさ。
――ありゃりゃ、こーちゃん。そんな食べ方でいいの? もったいないなあ。
おいしいとこだけいただいて、端っこや軟骨がそのまんまとか、ちょっとイケてないんじゃない?
まるで、さわりだけ読んで、内容語っちゃうようなエセ読者のごときじゃん。作り手の立場だったら、腹が立つんじゃないの?
――読ませる力がなかったか、ご縁がなかったと思う?
はは、殊勝なことで。僕だったら絶対耐えらんないよ。
書いているからって、いばりちらしたい勘違い書き手も、出だしやおいしいとこしか読まないで語る、傲慢読み手も。
自分で好き嫌いしときながら、世の中分かった気で、偉ぶってるんだもんなあ。
自分よりすごい奴、偉い奴はいないって、お互い心の中で思ってるんだろ? そうやって理解できない、理解してくれない相手を踏みつけないと、自分が立っていられないんだろ?
毒を吐くから「毒者」だとか、偉いと錯覚しているから「錯者」だとか、けなしあっている間に、やることあるんじゃない? それに命がけで取り組めば?
毎日毎日、他の命をぶっころして生きているくせに、その命でやるのが、下の口からだけでなく、上の口からもクソを垂れることだなんて、本物のクズじゃん。文字通り「クソッタレ」を超えた、「クズッタレ」だよね。
そんな奴ら同士で
「俺のアイデアは正しくて最高なんだ。こうしろよ。いや、するべきだ。読み手は神様なんだよ。言うとおりにしろよ」?
「的外れで、理解できないお前になんて、この作品読む資格も、存在価値もねーんだよ。だったら書いてみれば? せめてググレカス」?
あはは、その実、五十歩百歩。おこがましいよねえ。これが笑わずにいられるかっての。
あっはっは。あー、やばいやばい、お腹痛くなってきた……。
もー、同じまき散らすならさ、相手をおとしめるだけのクソじゃなくて、よりよい明日につなげる「肥やし」にしようぜー。はるかに建設的だし、精神衛生上、いいでしょう?
相手に、受け入れる土壌があるかは、知らないけどね。
よーし、それじゃ僕も「肥やし」を用意しようかな。こーちゃん、君の畑には、まだ余裕が残っているかい?
こーちゃんは、日本人が一日にどれくらい牛の肉を食べているか、把握しているかな。
最近の調べによると5000頭に足らないくらい。これが一年ともなると、150万頭くらいの牛が、人間の胃袋のために、殺されているわけ。
初めて聞いた時には驚いたよ。それだけ始末しておいて、よく牛が絶滅しないものだってね。
肉以外でも同じ思いだ。このとてつもない量を、よく毎日まかなえているなあ、と僕は感動している。今でもだ。
それを支えているのが、農業や漁業などの第一次産業であり、働き手たちであり、「肥やし」であるわけ。
みんなで「肥やし」を作り合えばいいものを、現代は、クソだと認識したら、クソのまんまで、放置や私刑や晒し上げ。そして当事者は「お利口さん気分」だからなあ。
けっ、あほらしい。そうやって自称「お利口」なお前らが、「肥やし」を作る手間を、無駄とか言って笑っているから、「クソ」が減らずに増え続けてんだろ。バーカ。
江戸時代。18世紀も半ばに差し掛かっていた。
この時期は、初期の頃に比べて、人口が1000万人以上の増加を達成した時期と言われている。記録はあるが、あくまで「言われている」だ。
武家の数、奉行人の数、民の数。これはそのまま藩の国力、戦力を示す軍事機密に直結した。正確な報告をあげる奴は、間抜けだ。
おかげで当時から残っている人口統計の記録は、いまだに数百万人前後で、変化する恐れが残っているんだと。
この激増した人口を賄うにあたり、質の良い「下肥」が求められた。栄養満点のクソを、肥やしにするわけだ。
これを農家が買い取るんだけど、下肥問屋や専門業者が現れ、どんどん値段は釣り上げられることで、ぶうぶう文句を言う村が出てくる。
そうなればお約束。「裏」の道という奴が、いつの時代も整備されるもんだ。
その村には、通常の盆暮れの年2回以外にも、下肥を運んでくれる「裏」の売り手がいた。
それぞれの家には肥溜めがあったものの、従来のものだけでは量が足りない、十分に発酵がなされていない、という時には、その売り手から、即戦力となる「下肥」を購入したんだとか。
売り手の形態は、行商と言ってもいいくらいで、肥桶を天秤棒にかけた人が、ぞろぞろと列をなし、手分けして家を回るのだという。報酬として渡す野菜も、相場をはるかに下回った。
かの下肥が撒かれた田畑では、作物の育ちが格段に良くなり、好評を得た。
ただ、あまり頻繁に訪れては、お上の目に止まるやも知れない、と売り手たちは語っており、訪れは数年に一度。家々でも、その存在はむやみに口外されないことが約束された。
万年豊作、と言っても過言ではない、収穫。人々は年貢以外にも、当時の商品作物などを売り、新しい農具や動物を買いそろえていく。
中には干鰯などの「金肥」と呼ばれる、新しい肥料も取り寄せられたが、ここまで成長できたのは、あの下肥あってのもの。その敬意を示すために、みんなは引き続き、かの下肥も、使い続けたらしい。
だが、何度か利用を重ねた十数年後。奇妙な事件が起こるようになる。
牛を使って、からすきを引いた翌日、早朝のこと。
早めに起き出した者たちが、何者かが畑を歩き回った足跡を見つける。
植えた野菜の種や苗は無事のようだが、耕したばかりの土が、さんざんに踏みにじられている。
キツネやタヌキでも現れたか、とみんなは各自、家々で飼っている犬たちに警戒させようととか。
その日の深夜。犬たちが盛んに吠えているのを聞いて、目を覚ます人たち。外に出ると、なるほど、畑の中をちょろちょろと走り回る、4本足の影が、いくつか。やはり狐狸のたぐいと思われた。
皆がつないでいた犬たちを放すと、彼らは一斉に影に向かって飛びかかったけど、威勢のいい吠え声は、影につっかかって、わずか数秒の間だけ。
勇壮な気迫は、悲痛な小声に早変わり。犬たちは畑に一匹、また一匹と倒れていき、結局影たちは畑を越えて、山の方へと逃げて行ってしまう。
犬たちは、一命こそ取り留めたものの、身体の骨を砕かれていて、二度と番犬仕事はできない状態だったとか。
これは大事、と人々は鉄砲の用意を始めた。
刀狩りを授業で習う身としては、なぜ農民が持ってる? と思うかも知れない。
実は18世紀の初めに、武器ではなく、害獣駆除の「農具」として、農村ごとに所持が許可されたことが、研究で分かっている。
あくまで領主が預けたもので、一揆で使ってはならない、という原則は固く守られたそうだけど。
奴らが姿を現わすのは夜。視界がきかない上に、チャンスは一回の斉射のみ。
外せば逃げられて、その日に仕留めるのは絶望的。そして、毎日、現れるものでもないと来ている。
人々は畑仕事のかたわら、辛抱強く、辛抱強く行い、数カ月後にようやく成果を得ることになる。
横たわった身体を見て、人々は驚いた。
色こそ土に近いものの、その姿は彼らが飼っていた犬にそっくりだったんだ。
村の犬の数は把握している。こいつは外の犬だ。
どこかの村から逃げたものなにか。近隣の村に呼びかけがあったが、犬の脱走を告げる者はいなかった。
そして、その年の収穫は、また目を疑うものになる。
いざ、みんなが畑で野菜を採ろうとした時、畑の中から、赤ん坊の泣き声がするんだ。それも、たくさん。
生い茂る野菜の葉っぱたちをかき分けても、姿はない。しかも声は、土の中から響いてくる。
もしや、と人々は畑を掘って掘って……合計、三人の人間の「形」をした赤子を取り上げることになった。
やはり土気色が目立つものの、それ以外は他の赤子と変わらない。ただ、その年の収穫は豊作だった例年に比べ、大いに落ち込み、並み程度だったようだ。
人々は、あの下肥からあふれた養分が、大地を孕ませ、あの犬や、この赤子を生み出したのだろう、と噂したのだとか。
今までの豊作で余裕ができていた村は、しばらく赤子たちの世話を続けていたが、それはあっけない終わりを遂げた。
天明の大飢饉。いかに優れた肥料と言えど、火山灰の強襲にあっては、対抗ができなかった。
たちまちのうちに、余裕を失っていった村で、人々はついに、例の赤子たちに手を下してしまったらしい。
赤子たちはその奇跡の命を、「人間」としてではなく「野菜の一つ」として消してしまうことになったんだ。




