音痴姫
くう〜、このマイクとかのスイッチ入れた時の「キーン」っていう音、好きになれないねえ。こーちゃんは大丈夫かい?
こういう音、注目を集めるのにはいいんだけど、歓迎はされない類のものだよね。好きな人なんかいるのかなあ。
音と言えば、こーちゃんは耳がいい方かい? おじさんは最近の聴力検査で遠くなり始めたのを感じ出したよ。
漫才コンビとかのマシンガントークも、上手く聞き取れなくてさ。周りの若い連中が爆笑しているのに、おじさんにはさっぱり理解できなくて、あいづちを打つ係に徹したことがあるね。
他にも、小さい音ばかり拾いづらくなった。だが大きい音は、不思議と鮮明に聞こえるんだよ。もしかしたら、若い時以上に。
良く聞きとれなくて「なんか言ったか?」と聞くと、大抵の人がボリュームを上げて、繰り返してくれるだろう? あれ、文字通り、耳が痛くなるほど辛いんだ。
こーちゃんも、親切で音量上げてやったのに、「そんな大声出さなくても分かるよ!」と返されて、「なんだ、聞こえねえっていうから、でかい声で言ってやったのに、勝手なヤローだ。このボケ!」と思うことがあったかも知れない。だが、歳を取れば君も分かると思う。気分はすっかりジジイだ。
だが、若い時でも、音に関するトラブルに出くわすことはある。こーちゃんも用心のために、聞いておくことをおすすめするぞ。
今から数十年前。当時、学生だったおじさんたちの間にも、カラオケブームがやってきた。
それまでのカラオケは、酒宴の余興みたいなものでね。酔っぱらいの歌声に悩まされて、娯楽というより、騒音という名の公害ってイメージを持っている人が、けっこういたよ。
そこに登場した、カラオケボックス。あれは衝撃的だったねえ。
これまでのカラオケは、たまたまそこにいるだけの人も歌を聞くものだから、知らない人からのバッシングを怖がったり、不快に思ったりする人もいた。
だが、ボックスの中は、いたとしても、みんなが友人知人。下手な歌声を聞かれても、顔が知れている分、気が楽というものだった。
おじさんもボックスができてから、カラオケにはまってね。歌うのが苦手だって自己申告している人を無理やり巻き込んででも、みんなの前で歌いたがったよ。
おざなりだったとしても、誰かに反応してもらいたくて、仕方なかったんだ。
よくカラオケにいくクラスメートの中に、「ちめ」様のあだ名を持つ、女子がいた。
容姿はもう、絵から出てきた大和撫子然としている。黙っていればお姫様なんだ。
だが、彼女。すさまじく音痴。前衛的かつ破壊的音痴。他の追随を許さない。
口を開けば、がっかり音痴。よって音痴の「ち」をとり、「ちめ」様だ。
だが、美人はお得だ。音痴さえも愛嬌の一つになり、おじさんも彼女に近づきたくて、カラオケに誘いまくったクチなんだよ。これがブスだったら、「またブタがブーブー鳴いてるぜ」とばかりに、あわれんだ目で男子は見ていたと思う。
周りの目を考えれば、二人きりはリスキー。友達も誘っておいて、カモフラージュしたつもりだったが、頻度からして警戒レベルは高かったろうな。
俺たちはレディーファーストの精神と銘打って、毎回、一番手を彼女に回す。
自分たちが歌いまくって疲れ果ててから聞く彼女の歌声は、神話のセイレーンのようなものだ。自力で帰れませんよ、的な意味で。
歌っている間、彼女の気分を害したくない俺らは、耳をふさぎたい衝動を必死にこらえた。
彼女は演歌から流行歌まで、なんでも歌う。ただ、ことごとく音を外すから、レパートリーと呼ぶことは憚られた。
彼女も自分が音痴ながら、姫っぽい扱いを受けていることを自覚しているようで、歌い終わるといつも、「みんな〜、聞いてくれてありがと〜」と手を振りながら、投げキッスしたりと、ノリノリ。
女子には敬遠する人も多かったが、おじさん含めて、おバカな男子どもは、そのあざとさにメロメロだったよ。
「ちめ」様の歌なら、何時間でも聴ける! なんて豪語する輩もいたっけ。
そんな「ちめ」様とのカラオケ生活を始めて半年。
お互いのけん制のためか、いまだ「ちめ」様は誰のものにもなっていなかった。
実際に告白した奴もいたと聞くが、「ごめんね」と、一言で斬られるらしい。中にはおじさんよりも、「ちめ」様を遊びに誘っている奴も返り討ちにされたとのこと。聞いて、おじさんはますます、縮こまった。
もし断られたら、カラオケにすら誘えなくなるだろう。気まず過ぎる。なら、今の誘える状態を保っていたい。けれど、このボーダーを越えたくて仕方ない。
悶々としながら、昼休みになんとなく校舎内をぶらぶらしていたおじさんは、ふいに背中から「ちめ」様に声を掛けられたんだ。
振り返るが、「ちめ」様の姿はない。
空耳かな、とその時は思った。
だが、その日から、何かがおかしいんだ。
誰も呼んでいないのに、みんなが突然、「はい」とか「おお」とか「なに?」と声を出して振り返ることが増えたんだ。
おじさんも同じだ。時々、「ちめ」様の声でおじさんの名前が聞こえる。だが、彼女の姿が見えないことは多かったし、いたとしても、明後日の方を向いていて、声をかけたとも思えない。同じように、彼女の声を聞いたと思しき人たちが詰め寄っても、「呼んでいないよ」の一点張りだった。
そんな日が、何日も何日も続き、おじさんは家に帰ると、耳掃除をはじめた。さすがにこれはひどすぎると思ったからだ。
ひっかき過ぎないように、そっとそっと穴の中を耳かき棒で探っていくんだが、今回はやけに感覚が過敏だ。ちょっと先が触っただけで、脳にまで響きそうな痛みが走る。
誤って奥に突っ込んだのならともかく、いつもより浅めの場所を掻いているはずなのに。
耳かきを抜くと、また「ちめ」様がおじさんを呼ぶ声がした。
自分しかいない、部屋の中にも関わらず。
おじさんは耳鼻科に駆け込んだ。ずっと前に鼻炎が酷かった時に、何度も通っていて、お医者さんとは顔見知りだった。
症状を訴え、耳を診てもらうと、先生は「ああ、これは音にアテられたねえ」と迷わずに小さなほら貝のような器具を手に取ったのを覚えているよ。耳あかを吸引する機械だって、話してた。
「ちょっと痛いし、うるさいかもしれない。我慢だよ」
おじさんは痛みに強いという自負はあったけど、その吸引器の体験は今までしたことがなかった。
スイッチをオンにされると、耳の中で魚介類を咀嚼しているような、ぐっちょ、ぐっちょという水音が盛んにするんだ。同時に耳の穴から、脳みそを引き出されるんじゃないかと思うくらいの吸い込みよう。
ブチブチっと何かが切れる音と鈍い痛みが、耳の中を這い回る。心なしか、温かいものが流れ出たような気がした。
思わず目をつぶって、早く終わるように祈ったよ。生きた心地がしなかったさ。
「――よし、これでいいだろう」
吸引器が抜かれる感覚がして、すぐにおじさんは柔らかい綿棒で、耳の中をまさぐられた。先ほどまでの痛みが、嘘のように引いていったよ。
本当にこれでいいのだろうか。おじさんは首を傾げそうになったけど、先生に大丈夫と太鼓判を押された以上、長くとどまるのも変だ。頭を下げて、部屋を出ていこうとする。
ふと、おじさんを呼ぶ声がした。先生のいるところから。
おじさんが振り返ると、先生は例の吸入器をいじっていた。その先からは、黒々としたナマコみたいなものが、うねり出ている。
おじさんはもう一度、自分の名前を呼ぶ声を聞く。それは紛れもなく、その黒ナマコから発せられたものだったんだ。
それ以来、おじさんはどんな場であろうと、耳が危険を感じたら、すぐに両手でふさぐようにしている。




