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風のメトロノーム

 つぶらやくんは、メトロノームを触ったことがあるかしら?

 ——え、デジタル化する前のメトロノームだったら?

 ああ、機械式のものね。重りとかがついていて、振り子になっている。

 あれ、音楽の時間で色々な楽器と一緒に出てきた記憶があるけどさ、実際に使ったことってあまりないのよね。

 よく楽譜の上の方に、テンポ100とかがM,Mで表されているけど、私はいろいろテンポを変えて弾いているわ。音の「幅」をよく見てみたいし。

 ——そうやって自己主張が激しいから、ヘボな演奏しかできない?

 ふふん、知ったかぶりで、偉そうに説教垂れてくれるわね。

 メトロノームは解答じゃなくて、あくまでガイドのようなもの。私の演奏を固定するものじゃない。導いてくれるものなのよ。

 

 あんたたち物書きも、文章っていう、自分だけの言葉の調べを探しているんじゃないの?

 誰かのものを真似て、なぞって、それだけやって「成長したんだ」と、いい気になる人をしばしば見かけるけどさあ。

 その成長って、芸術家としてじゃなくて、贋作者としてのものだと、私は思うわ。

 どこの芸術分野にもいるみたいよ。猿真似っていう殻から抜け出せない輩が。

 世に出る前。失うものが少ない間に、いろいろ試せばいいのにね。

 同じ曲、同じ演目、同じ題材さえも、「幅」の持たせ方次第で、別物になる。それを探求するのが、アーティストの使命じゃないかと、私は思うのよ。

 ――そういえば、メトロノームを手に、殻を破った女の子の話を聞いたことがあったわね。

 ちょっと極端な例だけど、興味はあるかしら。


 彼女はね、ものごころついた時から、家にあるピアノを弾いていたそうよ。母親が結婚した時に、自宅から持ち込んできたものみたい。

 誰に強要されたわけでもなく、自分からね。家族も好きでやり始めたことなのだから、好きにやらせてあげれば、という結論に至ったの。

 彼女の家のグランドピアノの上は、楽譜集やお人形さんたちの置き場になっていたけれど、その中でも彼女がとりわけ興味を示したのが、メトロノームだった。

 彼はピアノの演奏をしながら、疲れると手を止めて、機械の振り子を揺らしながら、それが鳴らす小さな鐘の音に、ぼんやりと聞き入っていたそうよ。

 母親が、メトロノームの本来の使い方を教えてくれたけど、彼女はそんなアドバイスなど、どこ吹く風といった具合に、彼女がピアノを弾きながら、メトロノームを動かすことはなかったそうよ。


 年を経るごとに、彼女のピアノの腕は上がっていったけれど、それに比例して、メトロノームを眺める時間も長くなっていったわ。

 彼女は学校に通う、どのような生徒も上回る演奏技術を持っていたけれど、彼女のテンポは、教科書の内容を教える音楽の先生として、とうてい認めうるものではなかったそうよ。

 何度言っても、独自の調子を直そうとしない彼女に、行事における奏者の役目が、めぐってくることはなかった。それでも、音楽の授業前後のわずかな時間で演奏する彼女の音色は、少なくない人の心を掴んだのだとか。

 彼女の演奏を聴いた人の脳裏には、絵画のごときイメージが浮かぶのだそうよ。

 陽の照りつける砂漠も、水と緑あふれる密林も、人いきれにむせる雑踏も、たとえ聞いたこともない秘境の姿だとしても。

 奏でる音の一つ一つが色となり、景色となって、心のまなこに映し出されるとたとえられるくらい。


 けれど、彼女の交友関係は広いとは言えなかった。休み時間のたびに、彼女は持参してきた、鐘つきの機械式メトロノームを鳴らしつつ、一人、校内を練り歩いていたのだから。


「今日は体育館の倉庫がいい感じ」とつぶやけば、彼女は休み時間の間、ずっと埃っぽい体育館の倉庫にたたずんでいる。

 休み時間に使用が許可されている、ボール類に手を触れることなく、じっと。

 その姿を幽霊のように思って、倉庫に入れなくなる子もいたくらいだったとか。

 

 同じように、「今日は教室の中、教卓の上がいい感じ」とつぶやけば、たとえ晴れの日で、誰も教室に残らなくても、彼女は教卓の上にメトロノームを置いて、数十分間、微動だにせず、振り子を眺め続けていたんだとか。

 彼女にとってこの観察は、最大の関心事のようで、他のみんなのお誘いに乗るかどうかも、メトロノーム次第だったとか。


 付き合いの悪さに業を煮やして、メトロノームを取り上げようとする人もいたけれど、彼女から、手痛い反撃をもらったわ。

 護身用の道具をふるうことに、彼女は何のためらいもなく、詰め寄られたら、すぐに泣き、一部始終を知らない周囲を味方につけ、相手を非難の的に仕立てあげた。

 

 彼女の周りは、やがて誰も立ち入らないどころか、触れることを許されない聖域と化していったみたい。自分の領域の確立というのも、もしかしたら、彼女の計算によるものかもしれない。

 その中心で彼女は、さびとほこりにまみれて、本来の役目を、どれだけ果たしているかわからないメトロノームを携えながら、学校の内外を闊歩かっぽしていたそうよ。


 そんな彼女の奇妙な日々にも、終わりを告げる時が来た。

 台風が近づいてきたある晩のこと。彼女は一軒家である自宅で、近所の迷惑も考えず、ピアノの演奏をしていた。

 それだけなら今に始まったことではないけれど、その日は、有名なクラシック曲を、片っ端から2倍速、3倍速、元々が遅い曲なら、それ以上のスピードで演奏していく。再生機能が壊れて、早回しになってしまうカセットテープを思わせるものだったとか。

 そして、吹きすさぶ風に、家の屋根がガタガタと揺れだした頃。

 ふいに演奏を止めたかと思うと、彼女はピアノのある部屋から、メトロノームを持って飛び出してきたの。毎分、208回のテンポに、振り子を揺らしながら。


 わき目もふらず、二階へと駆け上がる娘の背中に、お母さんが疑問をぶつけると彼女はこう答えた。


「いけそうなの。もっと先に。これ以上のリズムに!」


 その言葉を裏付けるように、彼女の足音もまた、普段以上にあわただしい。

 お母さんは慌てて後を追った。彼女のスリッパが脱げていたのは、ベランダの手前。そこには開け放たれた、窓があったわ。けれどベランダに、彼女の姿はない。

 まさか飛び降りたのか。お母さんが手すりに駆け寄って、下を覗いてみたけれど、娘の姿はない。

 風はますます強くなり、お母さんの髪をもてあそびながら、その視界を覆ってくる。


「いける、いけるよ! お願い、私を連れて行って!」


 屋根の上からだった。

 お母さんが見上げると、家の屋根のてっぺん目ざして、這いつくばりながらよじ登っていく、娘がいた。その手に変わらず、メトロノームの姿も。


「危ないから戻りなさい!」


 お母さんの警告も、風と共に口に飛び込んできた、己の髪の毛に遮られた。

 顔を打ち始める、水滴たち。雨が降ってきたのよ。

 娘は止まらない。迷わない。振り返ることもしない。

 やがて、彼女は屋根のてっぺんをまたぎながら、高々にメトロノームを掲げて叫ぶ。


「私を、テンポの先に連れて行って!」


 たたきつける雨と、身体を吹き飛ばしそうな風の中で、彼女が叫んだ瞬間。

 雷の光、音。それが同時にやって来た。

 ほどなく彼女の家の一帯は、暗闇に包まれてしまったそうよ。

 電気が復旧するまで、そして、復旧した後も、彼女の声を聴き、姿を見る者は、とうとう現れなかった。

 台風が過ぎ去った後の屋根には、焼け焦げたメトロノームの部品がかすかに残っているだけだったとか。


 彼女は今でも、行方不明ということになっている。

 やがて機械式のメトロノームは、デジタルに押されて、その数を少なくし始めた。

 だけど新しいデジタルメトロノームの中には、ごくまれに、本来設定できないはずの、人間業とは思えない高速テンポを測れるものが、紛れ込み続けているのだとか。

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