整える容姿
あ、つぶらやくん、頭切った?
なに? 髪切った、の間違いだろうって?
わかってるって。別にひっかけようと思ったわけじゃないよ。自然に口をついて出ちゃったの。
髪を切ることって、ごく当たり前のことなのに、そのことを指摘しないと不機嫌になる人、時々、見かけないかい? 女の人だと、特に顕著かなあ。
少し前まで、髪を切るのは、あくまで身だしなみだと考えていた僕は、いちいち反応するのは相手にとってわずらわしいんじゃないか、と思っていた。
ふと、気づいた時に声をかける。気づかない時は気づかないで、別に構わないじゃないか、なんて考えていたんだよ。
だけど、ちょっとしたきっかけがあって、僕は少し髪形を気にするようになった。その時の話に、興味がないかい?
僕の家の周りには、床屋や美容院がひしめいている。数十歩歩けば、何かしらの理髪店にたどりつくような立地なんだ。
でも、たとえいろいろな床屋さんが近所にあってもさ。ラーメン屋みたいに「今日はこの店、明日はあの店」とか、とっかえひっかえで使うことって、ないんじゃない?
せいぜい一ヶ月に一回利用するかどうか。初めてのところにいったら、髪型の説明とか、写真や映像の用意とかを、考えなくちゃいけないでしょ。
「いつも通りで、お願いします」
この一言だけで済ませられる環境、捨てがたいと考える人は、それなりにいるんじゃないの? そうなると自然に「ごひいきにしている」お店に通い続けるのも、別におかしくないだろう?
僕も家の近くに、毎回利用している、男性用の美容院がある。
そこに通う前は、自分で適当に髪を切ってどうにかしていたんだけど、バイト先の店長に髪型を注意されちゃったんだ。「ちゃんとしたところで、整えてきなさい。できれば美容院で」って。
一体、どういう髪型が良いのか、今一つ自信が持てない僕に、店長がメールで、頭部分の映像データを送ってくれた。「この映像を見せれば、やってもらえるはずだよ」と。
そして、お世話になることになったのが、例の男性用美容院だったというわけ。
美容院イコール女の人が利用するものと思い込んでいた、当時の僕にとってはありがたい存在だった。女の人の横で髪をいじってもらうのも、なんだか恥ずかしい気がしたし。
最初にいろいろとリクエストしてからは、ずっと「いつも通りで、お願いします」で通したよ。
おしゃれに関心はないし、面倒くさいし。バイトで上司に突っ込まれなければ、それでいいやと思っていたんだ。
月の終わりも近い、土曜日のこと。
久しぶりに今日、明日とバイトのシフトに入っていない僕は、例の美容院で髪を切ってくることにしたんだ。
家の近くということもあって、僕は店に予約を入れない。直接訪ねて、空いていればそのままカットしてもらい、埋まっているなら日時を改めるだけだった。
その日、店に訪れた僕は、予約でいっぱいだという旨を知らされる。個人経営の美容室で、一つしかないチェアには、仰向けに倒されて、顔に手ぬぐいをかぶせられているお客さんがいた。
「あ、じゃあまた来ます」と僕は軽く言い置いて、背中に美容師さんの謝罪の言葉を聞きながら、美容院を後にした。
次のバイトは水曜日の夜。そこまでのどこかで、髪を切ればいいだろう。
そうやって僕はゆったり構えていた。
ところが、翌日の日曜日。
僕はバイト先の上司からの電話で飛び起きた。
今日、シフトに入っている人が一名、急に来られなくなったらしく、代わりに入ってくれないか、との連絡だった。
正直、適当な理由をつけてサボりたい気分だったが、過去に別の人が同じように理由をでっち上げたところ、裏を取られて、なじられた記憶がある。かなり几帳面な上司に対し、半端なごまかしは、信頼を損なうことになりかねない。
僕は代理を了承した。時間は今からおよそ3時間後だ。
けれど、のんびりはしていられなかった。
先ほど上司は電話で「きちっとした身なりで来ないと、どうなるか、わかるよね」と、釘をさしてきたんだ。
僕の頭は、昨日、自発的に美容院に向かおうと思ったくらいの、ボサボサ頭。放っておいたら、また上司からお小言を食らうかもしれない。
僕は美容院に直行した。かかる時間は、およそ60分。準備を考えても、十分に間に合う。
出迎えてくれた、美容師さんは、普段とどこか雰囲気が違っていた。
肌がすべすべしている。ニキビの後とかが悩みだと前に聞いていたのに、それらがすっかりなくなっていたんだ。
「いつもの奴でお願いします」と告げる僕に対し、「本当にそれでいいんですか?」と珍しく美容師さんが確認してきた。
ちょっと面食らったけど、別に彼女とのデート前に、気合を入れた髪型にしたいとかじゃないんだ。「大丈夫です」とうなずき返すと、美容師さんはおもむろにはさみを取った。
その日は今までカットしてもらったものと、手順が違っていた。
特に、一時間の間で、5回も顔の上に手ぬぐいを置かれるのは初めての経験。顔が暑さでマヒしそうだったよ。
更に、肩もみや毛根のマッサージ。いつもはそれぞれ1回ずつなのに、今度は手ぬぐいをかけるたびに、やってくれる。過剰すぎて、悪影響が出るんじゃないかと思うくらいだったけど、思わずうとうとしてしまうほど、気持ちいい。
トニックやワックスもつけてもらって、いつもよりもピシッと、引き締まった感じがした。
「屋内だと、髪も体も、さらに映えますよ」
美容師さんはそう言って、送り出してくれた。
どういう意味か分からなかったけれど、僕はそのままバイト先のお店に向かった。
僕が働いているのは、大型のデパートメントストア。そこの食料品売り場で品出しをするのが、メイン業務だ。
従業員専用の入り口から中に入って、服装と身だしなみを整えてから、お店に姿を現すことになっている。
ところがその日。僕はバックヤードに入ったとたんに、動けなくなってしまった。
手足の指一本も動かせず、口も結んだ状態のまま開かない。
呼吸はできているのか怪しかったけれど、どうにか息は苦しくならずに済んでいる。しかし、文字通り、にっちもさっちもいかない状態だ。
必死に微動だにできない抵抗を続けていると、足音がして、顔なじみの男スタッフが数名、バックヤードに入ってきた。
声にならない声をあげて、すがろうとしたけれど、スタッフの一人いった。
「お、これがさっき、リーダーが言っていたマネキンか。よくできているな」
耳を疑った。
マネキン? 僕が? どういうこと?
新手のいじめかと思ったが、動けず、口もきけない状態では、抗議のしようもない。
男数名に、遠慮も容赦もなく、身体のいろいろな部分を触られ、担がれながら、僕はエレベーターに乗る羽目になる。
「まったく、どんないたずら坊主がいたんだか。お店のマネキンを壊しやがってよ」
スタッフがため息交じりに漏らす。僕は紛れもなく、マネキンのスペアだということか。
運ばれたのは、デパート3階の紳士服売り場。店員さんが掃除をしている最中だったが、のどのあたりから無残にちぎられた、白いマネキンの生首が転がっているのが見える。
僕は台座の上に立たされると、ジャケットと帽子をかぶせられて、無理やりポーズまで決めさせられた。痛みは感じなかったけれど、ねじ曲げられている違和感がびんびんとする、不快な気持ちだった。
極めつけは、「マネキンに手を触れないでください」と赤字ででかでかと書かれた紙を、おでこに貼られる。もはや罰ゲームの領域だった。
「悪ふざけはやめろ。僕はマネキンじゃない!」
力の限り叫んだけれども、それは音として形を成さなかったよ。僕にできることは、この微動だにできない姿で、去っていくスタッフたちと、時折、売り場にやってきたり、脇を通り過ぎていく買い物客たちを、見守ることだけだった。
やがて夜になり、店を彩るまばゆい明りたちも、順々にその勢いを失っていく。
閉店の時間だ。結局僕は、何一つ有効な手立てが打てないまま、時を過ごしてしまった。
そして、店員の姿がなくなり始めたフロアに、甲高いブーツの音が響く。足音の主は、僕の前で立ち止まると、そうっと顔を上げて笑った。
電話口で、僕に出勤を要請した上司だ。
「やあ、今日はありがとう。おかげで助かったよ」
いつになく、にこやかな口調。
感謝の言葉で鳥肌が立つなんて、初めての体験だった。
「君さえよければ、ここでずっと働いてほしいな。家族には話をつけておくよ。どうだい?」
これ以上、得体のしれないことをされては、たまったものじゃない。僕が動けない身体で、必死に首を横に振ったつもりだ。
やがて上司は肩をすくめると、僕を抱え上げた。行きはスタッフ数名が、よたよたしながら運んでいた僕の身体を、彼はひょいと、空のバッグを掲げるようにして持ち上げた。
「ふうむ、それは残念だ。それでは君は店の外に置いておこう。あと十分前後で動けるようになるだろう。お給料は出しておくから、良かったら、また声をかけてくれ。なにせ、動かなくても稼げるバイトだ。悪い話じゃないだろ」
上司はこともなげに言っていたけれど、冗談じゃなかった。動かなくて済むとしたら、あの売り場に永久就職しかねない。
僕はガラガラになった駐車場に放置され、上司の姿が見えなくなってほどなく、自由が利くようになった。
問いただしたいことはいろいろあったけれど、今はとにかく早く家に帰りたかった。もちろん、そこのバイトはすぐにやめたよ。
後で聞いたけれど、例の美容院。あの日は本来休みだったらしい。美容師さんのご家族の容態が急変したとかで、臨時休業だったとか。
じゃあ、僕をマネキンに仕立て上げた、美容師さんは一体何者だったのだろうね。




