命の住みか
あら、ごぶさたですね、つぶらやさん。またどこかに出かけてらしたんですか。
気ままな取材もいいですけど、事前に現地のある程度の情報は得といた方がいいですよ。
事故や工事に渋滞、果てにはおかしな現象が起きているかもしれませんし。何かに巻きこまれて、執筆に支障をきたしたら面倒でしょう?
特に海や山に向かう時には気をつけてくださいよ。そういう場所って集まりやすいですからね。色々と。
――え? どうして、そういった場所に集まりやすいのか? だだっぴろい野原とかではいけないのか?
もしかして、本当にご存知ない? わざと知らないふりをしているとかじゃないですよね?
う〜ん、あなたのことだから後者の可能性を否定できないんですが、本当に知らなかったらまずいですね。
立ち話も何ですし、どこかお店にでも入って話をしましょうか?
先ほど、集まりやすい場所の候補に海や山を挙げましたよね。ここはですね、昔から「寄って来る」んですよ。
海の例だと、港などが良い例です。ほら、船が着く時に「着港」と「寄港」という言葉がありますよね。
「着港」は目的地に船が到着すること。「寄港」は目的地に向かう途中で、船が別の港に立ち寄ること。
ふらりふらりと、水面を漂う木の葉のように、寄り道しながら泳いでく。ふふ、あなたの取材のようですね。
船は人や荷物と一緒に色々なものを乗せます。目に見えないものでもね。それらが立ち寄る港で人に混じり、水に混じり、地面に混じり、流れに逆らって陸の奥へ奥へと進んでいく。そんな水にじかに触れるから、水辺には集まりやすいんですよ。
――え? じゃあ、山の場合はどうかって?
じゃあ、こちらはストーリーを交えて話しましょうか。
今から数百年前の山間の村。雨上がりに森の中に入った、一人の木こりが医者に担ぎ込まれました。
身体には無数のひっかき傷と、噛みつかれた痕が目立ち、骨がのぞくほどの傷もあったとか。
治療を受けながら、木こりは語ります。木を切っていたら、虎に襲われたって。
衝撃的でした。
日本に虎は存在しないとされています。いたとしても、すべては外国からの輸入品。せいぜい見世物として、人々を沸かす役割。
仮に逃げ出したとしても、まずは見世物小屋のある、町の近辺で騒ぎがあるはず。それなくして、突然山中に姿を現したとなると、何者かがひそかに山中へ持ち込み、育て、放ったとしか思えない。
これまでは平穏無事だった山。放っておいては、悪しき噂になってしまう。
さっそく、腕に覚えのある者たちが、トラ狩りへと駆り出されたわ。しかし、一両日中に全体の3割の人数が、ケガをして逃げ帰ってきました。
けれども、彼らはトラにやられたとは限らなかったんです。
ある者は、巨大なワシに腕をついばまれたといい、ある者は、人間を一飲みにできそうなウワバミに胴体をかまれたといい、ある者は、見上げんばかりの大きさを持つ、ダイダラボッチに蹴り飛ばされ、身体中が傷むといいます。
3つ目を与太話として片づけるとしても、彼らは証言通りの目に遭ったとか思えないような傷を負っていました。いつの間に、この森はこれほどの危険地帯になってしまったのか。
自然、住む人々は町へと流れていきました。しかし、町は折しも、大火の記憶新しい、修繕工事の真っ最中。建て直しのための材木は、高値で取引がされていました。
木を収入源とする者たちにとっては、皮肉な絶好機。しかしそれは、危険を冒して山に入ることを意味します。
これまで体験した危険に惑い、木材の調達は遅々として進みませんでした。
しかし、彼らの中で、一向に危険に遭わず、木を伐り続けられる者がいました。
両親を亡くし、ただ生活の糧を得る手段として、森に分け入る彼。
ちらりと耳に挟んだ、トラもワシもウワバミもダイダラボッチさえも、彼には恐怖足り得ません。なぜなら、その存在がどのようなものか、彼は知る機会を得ることなく過ごしてきたからです。
元々、山にほど近い村はずれに家を構える彼にとって、関わろうとするのは、木材を扱う商人のみ。ウワサ話より、今日の山の表情をにらむことの方が、ずっと大事だったのです。
その日も彼は、手ごろな木を探して、緑深い山の中へと入っていきました。
少し前までは、人に荒らされた形跡に満ちていた山の中も、今は本来の姿を取り戻してきたような気がします。
木の葉を揺らす木々のざわめき。どこからか聞こえる川のせせらぎ。頭上を舞う小鳥たちのさえずり。耳に残る、自然ならではの静かな喧騒でした。
「もし、そこな坊主。雨宿りしていかんか。もうじきこの森は土砂降りに閉ざされるぞ」
声のした方を振り返ると、いつの間に現れたのか、浅葱色の浴衣をまとった老人がたっておりました。およそ山野を歩くのに適した格好とは言えません。
ほどなく、彼の頬に、ポツリと水滴が落ちました。先ほどまで晴れていたはずの空には、一面の雨雲が広がっています。
彼は老人の言葉に甘え、後をついていきます。
いくらもしないうちに、丸太を組んで作った小屋にたどり着きました。それなりに山に入ったことがある彼でしたが、このような小屋を見るのは初めてです。
彼が荷物を下ろし、勧められるまま、中の囲炉裏に手をかざした時には、すでに叩きつけるような雨音が、家の周りを包んでいます。
「この森にはな、雨と一緒に色々な物がやってくる」
老人は古びた本を一冊取り出し、彼の前で広げて、紙をめくっていきます。
そこには筆で書かれた生物の絵と名前が、所狭しとならんでいました。彼はその中に、話で聞いたトラの姿を認めます。他のウワサで聞いた動物たちも。
「このトラというのも、本来、日の本にいないもの。だがな、この森の中に生きているのだ……そうら、おいでなすった」
突如、小屋全体に響く、雷のようなうなり声が、壁のすぐ向こう側、外から入ってきました。聞き慣れない音に、彼は思わず身を震わせます。
「鳴き声の主、見たければその窓から覗いてみよ。ゆっくり、な」
恐る恐る、小屋の小さな窓から外をのぞいてみる彼。
信じられない光景でした。
そこには本に書かれてあった、黄色と黒い縦じまを持つ、トラが何頭もたむろしていたのです。その足元には、丸太ほどの太さを持ったうわばみがゆっくりと這っています。
それだけでなく、人を掴んで飛ぶことができそうなくらい巨大なワシが、雨の中にも関わらず、木のてっぺんにとまって、じっとたたずんでいます。
その木全体よりも、大きい巨人が姿を現したかと、大股で森の向こうに消えていきました。
「雨は雲によって運ばれる。今、ここに集う雲たちは、いずれも海のかなた。清国をはじめとする、多くの国より訪れしもの。姿を持てない彼らは、木に沁み、育てられることで、初めて現れることができるらしい。この森の中だけで」
本を手繰る老人に、彼は、今までトラたちによる被害が出ていることを告げる。
老人は目を見開いた後、悲しそうに顔を曇らせた。
「そうか、すでに被害が出おったか。できるならば、彼らの居場所を残したいところだったが……容易に納得のいくものでもあるまい。坊主。雨があがったら、村の者にこの一切を伝えて欲しい。それによって下される断に、身を委ねるとしよう。わしのことは心配するな。その間、彼らを何とか抑えて見せよう」
彼は言われた通り、雨が上がると、一目散に村を目指します。
事の次第を聞いた村の者たちは武装を整え、かの老人を保護しようとしたが、小屋を実際に訪れた彼の案内を持ってしても、老人のもとにたどり着くことはできませんでした。
数日続いた捜索は打ち切られましたが、この間、今までのようにトラなどに襲われて、けがをする者は出ませんでした。
村の会議では森の扱いについて、議論が紛糾しました。生活の糧のために、用心を重ねて木を樵り続けるべき、という木こりたちの意見。
老人が構わないと言った以上、遠慮はいらない。森を焼いて、今後の憂いを断つべき、という被害者の意見。
これらが真っ向からぶつかったのです。長い議論の末、人命には代えられないという押しにより、後者が採り入れられることになりました。
こうして、かの森はすっかり焼かれてしまい、山間の村に住んでいた者たちも、ほうぼうに移り住むことになったようです。
ふもとの町でも、当初は木材の不足に困窮しましたが、新しい取引先との提携が決まり、急速に建設が進むことになります。
そして、従来以上に家屋が建ち、多くの人が集まった時。
久方ぶりの雨が、かの地に降り注ぎました。それも何日もの間です。
町長は住民たちに避難をするよう呼びかけます。洪水と土砂崩れに対する、懸念からでした。
予想通り、土砂崩れが起こります。
しかし、今回は過去最大と言っていい被害を出し、町はほとんど泥に埋まってしまいました。これまで地盤を支え、泥が滑るのを防いでくれた樹木たちがすっかり失われたために、勢いを増した濁流を、もろに浴びることになったためです。
命こそ守れたものの、住み家を失ってしまった人たちは、再びどこかへ移り住むことを余儀なくされます。
そして年月が流れ。
埋もれてしまった町の上を含めたその山の一帯では、トラを始めとする日本にいないはずの動物、更には、話の中にしか存在しないはずの、奇妙な生き物を目撃したという証言が、今でもたびたび報告されているのだとか。




