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真なる青

 ねえ、つぶらやくん。以前の海と空で、あなたの風景画センスが壊滅しているのは分かったわよ。それが、人物画で開いた口の中が、ピンク一色っていうのはどうなのよ。明るさの違いを表せ、とまでは言わないけれど、せめて歯の一本くらいは書かないと、たぶん評価はがた落ちよ?

 え? 諸行無常の響きを表してみた? また、無駄に壮大な言い訳ねえ……。素直に、他の色を使うのが面倒でした、って言ったら? 先生が相手じゃないんだから、遠慮せずに暴露しても構わないわよ。それとも芸術家気質の、プライドって奴?

 芸術もまた、合わない人には合わないけど、合っている人はとことんまでのめり込めるから不思議なものよね。あらゆるものに取材をして、作品を練ることに身を削っている。傍から見たら、変な人よね。絵を描く人なんか、色一つをとっても、大いに頭をひねるらしいし。

 ――そういえば、昔、色をめぐって、おばさんが不思議な体験をしたと話していたっけ。ちょうど今、先生いないし、少し話さない?


 つぶらやくんは、本来、自然界に存在しないと噂されている色って、知ってる?

 正解、青色ね。「青は藍より出でて、藍より青し」のたとえに使われているくらい、人工的に作られた印象が、植え付けられているわ。それが噂の発端かも。

 実際には、空と海を初め、多くの人が青色と思しきものを、自然界で目にしているというのに、青が存在しないとか、こっけいな話よね。それとも私たちが目にしているのは、噂の発端が欲しているような「真なる青」ではない、ということかしら。

 色一つをとってみても、様々な談義が生まれる。万人を納得させうる、「真なる色」とはどこにあるのかしら。それを探求するのも、また芸術家なのかしら。


 おばさんは絵を見ることが好きで、マイナーな個展があると聞くと、近い遠いを問わず、休みの日には飛び出していったみたい。自分には審美眼があると信じていたらしいけど、あることをきっかけに、行くことを止めてしまったみたい。

 それは、おばさんが中学生の頃のこと。学校の帰り道で、奇妙なものを見つけたわ。

 いつも下校の時に通っている道の途中にキャベツ畑がある。おばさんの地元はキャベツの産地として有名だった。ちょうど冬キャベツの収穫時期が近づいていて、畑はキャベツでひしめいていたそうよ。

 畑の横を歩きながら、いつも通り、ぼんやりと畑の中に、目を泳がせるおばさん。

 見慣れた景色が目に映るはずだったけれど、今日は少し違っていた。緑がかった並みいるキャベツの中で、一つだけ。文字通り、異彩を放っているものがあったのよ。


 青い一点。人によっては青と称してもおかしくない、明るい緑の海の中で、誤って垂らしてしまった一滴。目が覚める青が、おばさんの瞳に焼きついたそうよ。

 思わず、畑に足を入れて近寄ってみると、ますますキャベツの不自然さが、鼻についたわ。

 そのキャベツ、全身が真っ青というわけじゃないの。9割方が青く染まっているけれど、葉っぱのふちは、周囲と同じ、明るい緑色をしていたわ。

「誰かが絵の具でいたずらしたのかしら」と思ったお母さん。もし、これが自分の作ったものだとしたら、即処分するところだけど、人様の畑である以上、勝手にいじるのははばかられる。

 ひとしきり眺めたおばさんは、そのまま畑を後にしたそうよ。

 

 翌日。登校する時に、ふとあのキャベツが気になったおばさんは、例の畑のそばを通ったけれど、標的の姿はない。あんだけ異状なら、片づけちゃうよね、とおばさんは妙に納得して、学校に向かったとのこと。

 だけれど、奇妙な青は、それからもおばさんの視界に入り続けたわ。


 その日の学校。音楽のリコーダーの時間に、何人かの「うたくち」の部分が、真っ青に染まっていたの。丹念に洗い流したけれど、色が取れることはなかった。いたずらが疑われたけれども、名乗り出る者などおらず、事件は迷宮入り。リコーダーは生徒の意思で、ごみ箱入りにされた。

 更に、昼ご飯。とある人の持っていたお弁当の中身が、すべて真っ青に彩られていた。ご飯のみならず、ブロッコリー、たこウインナー、きんぴらごぼう、りんごに至るまでが、全部。食欲の代わりに、吐き気が湧き出す、おぞましさだったそうよ。

 お弁当を持ってきた子も、気持ち悪がりながら、首を傾げたわ。自分は朝、母親がお弁当を詰めているところを見ている。その時は、確かに正常な色だったはずだ、と。その子のお弁当は、一口も食べられることなく、リコーダーの後を追ったわ。

 誰かが知らぬ間に入り込んで、つば代わりに、色をつけていく。この不気味な現象はそれから何カ月も続いたそうよ。


 断続的に訪れる、青色の襲撃。それは夏に、おばさんの元にもやってきた。

 プールの時間。着替える時に脱いだ、ワイシャツの裏地。袖の内側部分に、例の青が、カビのようにびっしりと張り付いていた。

 思わず寒気が走った。ワイシャツの裏側を塗りつぶしながら、まったく裏うつりしない青。どのような塗料でできているのだろうか。


「とうとう、やられちゃったの? うへ〜、ご愁傷様」


 たまたま隣のロッカーを使っていた、クラスメート。それなりに話はするけど、格別に仲が良いというわけでもない。明らかに、部外者な響きがする言葉に、おばさんはむっとして、彼女をにらんだけれど、当の本人は、おばさんに背中を向けて、水泳帽の中に閉じ込めるべく、ロングヘア―をお団子にしているところだったみたい。

 でも、おばさんは気づいた。その子の左のわきの下にも、袖の中と同じ、あの青色の斑点が、ぽつぽつと浮かんでいることを。

「これであなたも当事者よ。ふふん」と頭の中だけでつぶやいて、その実、知らん顔をするおばさん。無事に水泳の授業を終えて、さっさと帰路についたそうよ。


 例のワイシャツを着ることに抵抗はあったけれど、下着一枚で帰るなど、できるわけがない。おばさんは怖気が走るのをこらえながら、何とか袖を通していたわ。

 そして、件のキャベツ畑の横を通る。今は時期でないためか、キャベツたちも、作業している人たちも姿を見せていなかった。それどころか、車も自転車も行き交う人々もいない。

 ちょっと気味が悪いな、おばさんが足を早めた時。


 転んだ。何もないところで、盛大に。思わず地面に手をつく、おばさん。

 瞬間、おばさんは左の半袖を掴まれた。腕じゃない。白い生地が無理やり限界まで引き伸ばされている。力は強く、おばさんは倒れた状態のまま、どんどん引きずられていく。

 相手の顔は見えない。身体もない。あるのは、強い力だけ。

 青々とした空を目指すように、引っ張りはますます強くなり、繊維が悲鳴をあげ出した。

 すでにおばさんの身体は起き上がるどころか、地面から足が離れそうなくらいだ。いくら叫んでも、周りには誰もおらず、声が空気に溶けていくばかり。

 おばさんの足が、地面から離れ始める。もたもたしていたら、このままどこまでも空に釣り上げられ、拘束から逃れても、無事ではいられない高さになってしまう。

 おばさんは、引っ張られ、山のように突き立つ、半袖の生地の一部に向かって、必死に右手の爪を突き立てる。生地たちはますます悲鳴をあげるけど、構わず突き刺し、ほじっていく。その響き渡る叫びを、これっきりの断末魔へと変えるために。

 

 袖がちぎれた時、おばさんは自分の身長の2倍ほどの高さにいた。背中から地面に叩きつけられて、息が漏れたけど、もたもたはしていられなかった。

 もしも、あの得体の知れない力が、ワイシャツを求めているのなら、逃げても追いつかれる。ならば、躊躇っていられない。

 おばさんは、力から少しでも逃れようと、走りながら、シャツのボタンに指をかけたけど、すぐに思い直した。もたもたしたら、また釣り上げられる。ひょっとすると、先ほど以上の勢いで。

 恥じらいを捨てる。おばさんはシャツの前合わせに、両手をかけると、強引に引きちぎった。繊維が絶たれて、ボタンが散らばる。文字通り、おばさんはワイシャツを脱ぎ捨てた。

 間一髪だった。おばさんが放ったシャツは、地面に落ちるよりも早く、空中で留まると、つばめのようなスピードで、空の彼方に飛んで行ってしまったわ。

 助かった、と腰が砕けかけたけど、おばさんは最後の力を振り絞る。さらけ出した上半身を隠しながら、おばさんは自分の家に向かって、がむしゃらに走ったそうよ。

 翌日。おばさんはクラスで、あのわきの下に斑点のあった子が、行方不明になったことを聞いたわ。


 あの「青」が、おばさんの周りを騒がせなくなって何年もたち。おばさんは彼女と再会したわ。

 名前も聞いたことがない、マイナーな画家の個展で。

「キャベツ」、「リコーダー」、「お弁当」、「破れかけのシャツ」など、名だたる静物画の中で、ただ一つの人物画。「水着の少女」として。

 長い黒髪をお団子に結っている、あの日の姿そのままで、彼女はキャンバスの中に浮かび上がっていたそうよ。

 



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