死よ どうか遠くあれ
こーくんは、好きなドレッシングはなに?
玉ねぎドレッシングか、オリーブオイル? ふ〜ん。なるほどね。特に後者が渋い感じだね。僕なんか、オリーブオイル単体なんて、とうてい我慢できないな。
素材の味を楽しむ、なんて殊勝なことは、僕には無理。だって、たいていの緑黄色野菜、嫌いだもん。一通り、食べてみての結論さ。
人工的な強い甘味、辛味じゃないと、口に運ぶ気が全然しない。のどから鼻にかけて、染み渡る青臭さとか、もう勘弁してほしい極みだよ。
だからドレッシングを大量にかけて、徹底的に潰す。味も臭いも。作ってくれた人には悪いけど、僕の命にかかわる。僕のサラダの器、ドレッシングで洪水になっていたの、こーくんも見ただろ?
――え? その割には、青じそドレッシングを使っているじゃないか?
ああ、あれだけは例外なんだ。ちょっとした事件が、昔あってね。それ以来、僕は青じそドレッシングを使っているんだよ。
どんな事件か知りたい? いいよ。もしかしたら、今後も起こり得るかもしれないからね。
こーくんは、しその匂いは得意? 苦手?
あの和風ハーブともいえる、強烈さ。なかなかインパクトがあるよね。その強さゆえに、香りをつけるばかりでなく、刺身とか、生ものの臭い消しにも使われるみたい。
よく付け合わせで付いてくるでしょ。ツマとか海藻とかと一緒にさ。ま、昔の僕に関しては、メインのお刺身の邪魔をする、やっかい者という認識だった。こいつらをどかして、そのスペースに、一切れでも赤みを突っ込んでくれよ、と思ったこともある。
しかもツマもろとも、「好き嫌いをする子は、家にいられないよ」と強要されて、食べないとおしおきまでされるものだから、あっという間に苦手なものランキングの上位に躍り出た。しょうゆとわさびを、これでもかというくらいつけて、息を止めながら、のどの奥に突っ込む。
僕にとっては、食事という、9割の至福の中に潜り込む1割の地獄が、こいつらに凝縮されていたよ。
でも、そんな個人の苦手など、起こり得る事件に対しては取るに足らず、気にしていられる余裕がないことを、僕は知った。
その日は、不思議な日だった。
冬場とはいえ、午後4時前にはすっかり陽が沈んでしまい、東の空には月が昇っていたんだ。しかも、雲は全くなく、僕の家の近辺は、明かりがほとんどない町の外れだというのに、空には星影がない。ただ、満月がぽっかりと浮かんでいるばかりだった。
夕食も妙だった、その日は天ぷらが揚げられたんだけど、中身が全部、青じそだったんだ。
1枚、2枚なら我慢できなくもないけど、どんぶりのご飯の上に、山盛りなんだよ。めくってもめくっても、ご飯が出てこないくらいに。
父も母も同じものが用意されて、みんなでもくもくと食べたけど、しそが苦手な僕には辛い。あまりにも辛い。
味と香りを殺すべく、ウスターソースをぶっかけて、つゆだくどんぶりにしたものの、今度はソースの味そのものに、舌とお腹が参り始めた。自業自得とはいえ、お茶漬けならぬ、ソース漬けご飯を眺めていると、吐き気すらしてくる。
その惨状を見て、母が言うんだ。「ご飯は残してもいいから、しそは全部食べなさい。そうしないと、家にいられないよ」ってね。食べるまで、部屋に帰らせてもらえそうになかった。
僕は亀のような歩みで、のろのろと天ぷらを放りこんでいく。父は席を立ったけれど、母は、父が下げた食器も洗わず、じっと僕の食べっぷりを眺めている。
僕にも限界が近づいてきた。どうしても最後の一枚を食せない。お腹もいっぱいな上に、毎週見ているテレビ番組が、3分後に迫っていた。一度、テレビを見てもいいか聞いたけれど「食べ終わるまでダメだ」とはねつけられている。
僕はもう最後の手段を取ることにした。母をごまかすしかない。
今日の服は長袖。僕は最後の一枚を箸でつまむと、どうにか押し込みましたよとアピールするために、顔を上に向けて天ぷらをかじる。何度も噛みながら、ぼろぼろこぼれないように、手で押さえるふりをしつつ、つばを飲み込む動作と同時に、天ぷらを袖の中に滑り落した。
僕が食べ終わったことを告げると、母親は安堵したかのように、父と僕のどんぶりを洗い始めたよ。僕は「ごちそうさま」を告げて席を立つと、慌ただしくテレビのある部屋に走って行ったよ。袖の中のしその天ぷらを、落とさないようにしながら。
お目当ての番組は見られたけれど、終わったとたん、急激な眠気に襲われる。僕はどうにか、二階にある自分の部屋にたどり着くと、着のみ着のまま、ふとんに倒れ込んだよ。袖の中の天ぷらもそのままにね。
そして、夜中。僕はゴン、と盛大に頭をぶつけて、目を覚ました。
見ると、誰かが僕の両足を抱えて、家の階段を下りていくんだ。その後ろ姿は白い襦袢を身に着けていて、頭部が禿げ上がっていた。足先はまるで氷に包まれているかのようで、冷たさのあまり、感覚が失せている。
「やめてくれ」と僕は声を上げたけど、彼は止まることも振り向くこともせず、階段を一段一段下りていく。それに合わせて、僕も一段一段、したたかに階段の角に打ちつけていった。何度も叫んで暴れても、歩みは止まらず、父も母も起きてこない。
やがて階段を降りきった彼の足は、まっすぐ僕の家の玄関に向かっていく。夕飯前に、確かに鍵をかけておいたはずの引き戸は、全開になっていた。
僕の家の「あがりかまち」は30センチ強の高さがある。彼は靴もはかずにそのまま降り立ったが、引きずられている僕はただでは済まない。無防備のまま落っことされて、頭蓋が揺れる。あまりの痛さで、目に涙がにじんだ。
けれども、この振動で、僕の右手の中に何かが転がり込んでくる。握りしめて顔のそばまで持ってくると、夕飯のしその天ぷらだった。
白襦袢の彼は、真っすぐに家の敷地から出ようとしている。背中越しに見る景色には、家の向かいにあるはずのマンションの影はなく、明かりをすっかり奪い去った、見通しのきかない闇が広がっているばかり。あそこまで連れていかれたら、どうなるか、どこに行くのか分からない。
こうなったらダメで元々だ。僕はしその天ぷらをほおばった。
ウスターソースと時間経過で、ぶにょぶにょになってしまった、特濃のソース衣が口のあちらこちらに張り付いて、気持ち悪かったけれど、無理やり飲み下した。
その瞬間。僕の足は支えを失い、ぱたりと地面に放り出される。同時に、身体が引きずられるのも止まった。彼がまばたきをする間に、姿を消してしまったからだ。
それでもすぐに身体を動かすことは、難しかった。足の感覚は、すっかりなくなってしまい、頭を何度も打ちつけられたせいで、視界がぐらぐらする。
たまたまトイレに起き出してきた母親が見つけるまで、僕は軒先に大の字になって伸びていたよ。
翌朝。母親が話してくれた。
いつもより長い夜が訪れる、満月の夜。この辺りには、百鬼夜行が訪れる。主に死んだ者たちによる行進だが、新しく加える誰かを探し、さまよっているという話なんだ。
その日は、各家庭でしその葉をたっぷり食べる。昔から伝わる枚数分、しその葉を食べない者は、夜中に百鬼夜行の参加者に連れていかれて、二度と戻ってこられない、という話だよ。
死を遠ざけ、朝に蘇るためのカギ。だから僕たちの地元では、しそを漢字で「死蘇」と書くようにしているんだってさ。




