そのみかん、神秘につき
う〜ん、こたつに入りながら、みかんをもしゃもしゃ食べるのは、何とも心地いいねえ、こーくん。この安心感、酷寒の山の中で、温泉を見つけてゆったりしているような感じがするね。
そして、みかんを食べた後のお約束と言えば……くらえ! みかんの皮製、溶解液!
なっ、かわされた? 必殺の間合いだったのに。動きを読まれていたとでも言うのか。
――毎日のように襲撃してたら、誰だってかわせる? う〜ん、まあそうだろうけどね。中にはいるんだよね。学習しないで何回も食らう輩が。必ず通用する解答があるって、仕掛ける側にとって、ありがたいと思わない?
ゲームとかが好かれる理由の一つってさ、決まりきった答えが出ることなんじゃないかと思うんだ。一本道のゲームとかだとさ、ストーリーからボスの弱点までわかっているじゃない。当てはめれば必ず解が出る。それも自分にとって心地よい、お望み通りの解ばかりね。
こりゃあ、どれが正解かわからない、現実の人間関係を戦う人に、ファミコンが受けるわけだよねえ。
まさに打てば響く。跳べといったら、跳んでくれるし、戦えといったら、戦ってくれる。お見通しの弱点をついて、完膚なきまでに相手を叩く。快感、快感だね。
けれど、汎用性の高い答えによっかかって、思考を止めちゃいけない、とも聞いたことがある。すんなり行くことに慣れ過ぎると、思い通りにいかない現実にいらついて、多くのものを傷つける羽目になるってさ。
そんな思考停止が引き起こした事件、こーちゃん、興味がないかい?
僕がついさっき放った、みかんの皮の汁。目に入ると失明してしまうという、都市伝説がある。酸性の汁なのは、間違いないからね。粘膜が傷つく恐れがまったくないともいえないだろう。
他にもみかんとかのかんきつ類に含まれているリモネンという物質が、ゴムやプラスチックを溶かす力を持っていることも、うわさを広げる一因になったのかもね。
そのみかんなんだけど、江戸時代から大人気の果物だった。特に紀州のみかんに関しては、日本でも屈指の霊地、熊野を含んだ地域ゆえに、神秘性が付け足され、価値の向上に一役買った。
そのみかんを巡って、不思議なエピソードがあるんだよ。
その年、江戸でみかんが不足し、値段が大幅に上がった。天候不良のために輸送ができず、需要が供給を上回ったからだ。一方で、紀州では、これでもかというくらいのミカンの豊作。価格は暴落の一途をたどった。
ここに目をつけたのが、かの伝説の商人、紀伊國屋だ。彼は嵐の海に船を出し、命がけで紀州のみかんを江戸に持ち込んで、巨額の富を得たと伝わっている。
これほどに江戸の人々に求められ、祭りにも使われたみかん。人々の身近にあるだけに、かえって実態に迫られることが少なかったこの果物が、とある事件を起こすことになる。
空気が乾く、年の暮れ。大火の記憶新しい江戸の町では、夜半に見回りの者たちよる、火の用心の呼びかけが行われていた。
拍子木をかち合わせ、辻に差し掛かるたび、「火の用心」と声を張り上げる。その様子は、外から来た者に、江戸の特性を知らしめる風物詩ともいえた。
やがて、見回りの一人が異変に気づき、他の者を呼び止める。飯炊きなどとは違う、煙の臭いが、かすかに漂ってきたんだ。
足の早い者が数名、出どころを探るべく駆け出した。もし、家屋の密集した区域からなら、大火につながりかねない。路地を抜けてたどり着いたのは、周りの人家からやや距離を取ったあばらや。つい、10日ほど前に、地方から出てきた某という者が、役人に申し出て、住まいにしているはずだ。
その壁の隅に、チロチロと小さい炎が、またたきながらひっついて、細く頼りない煙を吐いている。そして、炎の足元には腰の曲がった老人。火の元に向かって腕を伸ばしていた。
やけどをする、と駆け付けた者たちは思ったが、老人の腕は炎にほど近いところで、動きを止めた。更には、みるみるうちに炎は小さくなっていき、まもなく完全に消えてしまう。
一体、何をしたのか。見回りの者が、老人に近寄り、疑問を口にする。それに対し、老人は自分が握っていたものを、一同に見せた。それはみかんの皮だったんだ。
老人は紀州の知り合いから、このミカンを提供されたという。霊気によって清められたこの皮の汁は、すずめの涙ほどの量で、かまどの火を消すことができる。ようやく量産の体制に入り、明日にも商売をしようと考えているとのこと。その最終実験を行ったというのだ。
実際に火の手が収まるところを見てしまったし、ちょっと壁が焦げたくらいで、目立った実害はなく、見回りの者たちもけちをつけづらかった。
そして翌日。大路の片隅に、老人によるみかんの出店ができていた。炎天下の中でも、赤々としたかがり火をたく、老人の出店は、それなりに目立つ。集まってきた者たちの前で、かがり火の中から火のついた薪を取り上げ、件のみかんの皮で火を消していった。
食べても使っても、二度おいしい、という売り文句で、老人のみかんはなかなかの売り上げだったらしいよ。買った人々は、かまどやたき火、風呂の火など、ちょっとした消火でも、水の代わりに、皮の汁を使ったみたい。
やがてみかんをすっかり売り払った老人は、家も引き払って、どこへともなく去って行ってしまった。
ところが、老人が去ってから数日後。江戸にある報がもたらされる。
紀州で原因不明の火事が相次ぎ、一部の寺社に被害が出たとのことだ。これらの寺社は日夜、厳重な警備が成され、放火の可能性は考えられない。かといって、境内は火気厳禁であり、失火とも考えづらい。
だが、使者と同心たちから細かく話を聞いたところ、直近の失火があった日時、ちょうど同心の一人が、勢いが強くなったたき火を消すために、例のみかんの汁を利用したということだ。更に記録をさかのぼると、この奇妙な一致がところどころで、姿を現わす。
焼かれた寺社は、いずれも、古くから動物たちの霊を、祀る形で封じていると伝わるところであり、火事の日以降、きつねに化かされたと話す、人の数が増えているとのこと。
あのみかんの汁は、火を消すのではなく、火を移動させるもの。がんじがらめの社から、自由になりたかった動物たちの怨念が込められていたのだろう、と一部の者の間で、うわさとして広まっていったらしいんだ。




