体感アトモスフィア
う〜ん、つぶらやくん。ハッキリ言うけど、あなた掃除が下手ね。いや、整理が下手と言った方がいいかしら。せめて読み終わった本くらい、元の場所に戻しておいた方がいいわよ。
発作的に読みたくなるから、そこらへんに散らかしている? その発作っていうのは、五秒後? 一日後? 一週間後? それとも数ヶ月、数年単位でくるものなの? すっかりほこりまみれで、もはや化石状態よ。
ふふ、この足場のなさと、化石の配置。つぶらや家のストーンヘンジね。その中央でつぶらやくんは執筆にいそしんでいると。霊感が降りて来るには、ある意味で最適かも知れないわ。すごく、不健康そうだけど。せめて網戸にして、空気を入れ替えなさいな。
あ、そういえば換気で思い出したけど、空気に関することで、ちょっと変わった体験をした友達がいたわね。つぶらやくんも、聞いてみたいんじゃない? 掃除がひと段落したら、話しましょうか。
掃除に限った話じゃないけど、自分を取り巻いている空気って、とても大事よね。知っての通り、人間の内臓ってデリケートだから、菌とかに侵入を許すと、致命的なダメージを受けやすいわ。それを防ぐために、のどなら淡、鼻なら鼻水とかで、迫りくる侵略者たちを撃退しようと、躍起になってくれている。
ただ、人体が誇る防衛システム。威力が高すぎて、守るべき私たち自身にもダメージが……。鼻炎とか花粉症とか、即座に死ぬわけじゃないのに、耐えがたいのよねえ。あっちもこっちも、どこでも鼻をぐしょぐしょ鳴らしたりすると、それだけで不健康の音色。
でも、その不健康は、本当に自分の体調不良のサインだけかしら?
大学一年生の時に知り合ったその子は、季節の変わり目になると、決まって体調を崩す子だった。けれども、多少、熱があるくらいなら、自力でやってくる。
その子は、体感温度が、一般的な人と違うように見えたわ。夏の暑い盛りでも、彼女は「寒い寒い」と厚着を重ねていて、見ているこちらが汗をかいてしまいそうだった。そんなに風邪っぽいなら休めばいいのに、と私以外のみんなも勧めたけれど、彼女は受け入れなかった。
逆も然りよ。冬になると、「暑い暑い」と言いながら、どんどん薄着になる。わき出しワンピースにショートパンツの時がままあったわね。身体が熱を持っているとか、みんなで心配していたわね。男子の一部は、時期外れの薄着を歓迎したりしてたけど。
ちぐはぐな彼女に疑問を持ったのは、私も同じ。体調を心配しながら、どうしてこんなことをしてしまう心当たりがないか、尋ねてみたのよ。
そしたら、彼女。ずっと小さい頃に、病気にかかったことがあるらしいの。病院にいったけれど、原因がつかめずに、何日も生死の境をさまよったんですって。
それをどうにか乗り切ってから、時折、このへんてこな体感温度になることがあるとのこと。彼女自身は、「シックスセンスだ〜」って言い張っていたわ。自分が体調を崩す時は、誰かがそばに来ている証拠。それに素直に従っているだけなんだって。
私は面白半分に聞いていたわ。今まで「見える」とかいう人の話は、何度か耳にしたことがあったけど、ほとんど信じていなかった。私、そういうのを見たり、感じたりできないから、実際に起こったことで判断するしかなかったんですもの。
それから二年ほどが経ち。
彼女の感覚は更に鋭敏になったようで、服装の切り替えだけじゃ済まなくなっていた。エアコンをいじれる時には、無理にでも使おうとしていたのよ。周囲の反対を押し切ってでもね。ゼミで教室に集まった時なんか、みんなはもろに煽りを食らったわ。
夏の真っ盛りで暖房を、手足がかじかむ冬場でも冷房を、ガンガンつける。当然、みんなが口々に文句を言ったけれど、彼女は「これが今、必要なことだから」と譲らなかったわね。「空気がこうしてくれって言っているの」と、完全に不思議ちゃんな発言まで。
自分勝手な彼女の周りから、徐々に人が離れていったけれど、彼女は一向に気に留める様子はなかったわね。まるで温度以外に、関心がなくなってしまったみたいだった。ひたすら、都合の良いように空気をコントロールする。いわば、人力の調整弁のような気がしたのよ。
そして、ついにことが起こったわ。
その日は私の地域では珍しい降雪。交通網に乱れが生じるほどのものだったと、記憶しているわ。私もマフラー、手袋、耳当てに、必要に応じてカイロを使っていたわね。最後のコマにゼミが入っていて、私は割り当ての教室がある研究棟に向かっていた。
途中で同じゼミの男の子と、たまたまばったり会う。特に恋愛感情とかはない、同期の仲間の一人。彼は例の彼女を目の敵にしている一人だった。
彼女はいつも、ゼミの時間は教室に一番乗りしてくる。私たちが着いた時、教室では暖房がついているか、冷房がついているか、何もついていないか。もし、冷房だったら、今日こそきつく言ってやる、と彼は両手に白い息を吐きかけながら、しきりにこすり合わせていたわね。
私たちの懸念は、現実のものになった。
教室のドアを開けた時、私たちは身震いしたわ。まさか外気よりも、中の気温の方が低いなんて、考えられなかった。間違いなく氷点下には達している。そして教室の片隅には、椅子に座ったまま、微動だにしない彼女の姿が。
これも、彼女のいたずらのせいなのか。彼は宣言通り、彼女に詰め寄ったけれど、彼女は首を横に振ったわ。今回、自分は何もしていない。空気が勝手に、こんな状態になっているだけだと。
実際、部屋の隅にあったエアコンのリモコンをいじったけれど、まったく動作しない。それでもこの寒さは尋常じゃない。せめてここよりは暖かい外気を取り入れようと、彼が窓に手をかけたところ、彼女は止めたわ。
「開けちゃダメ。それじゃ、向こうの思うつぼ。持っていかれちゃうよ」
冷え冷えとした空気に負けないほど、鳥肌が立ちそうな声音。でも、彼は彼女をうっとおしそうに一瞥しただけで、お構いなしに窓を開けてしまったわ。
すると、どうでしょう。わずか数秒の間に、急に風が吹いて、外の雪が一斉に彼に向かって張り付いてきた。彼の脇にはすき間があるにも関わらず、私たちの方に雪は、一切入り込んでこない。磁石に引きつけられる砂鉄のように、雪は彼を目がけて、次々に突撃を敢行してきたわ。
私たちが慌てて窓を閉めた時、彼は上半身雪まみれになっていて、しかも意識を失っていた。雪を取り払って、肩をたたくと、彼は目を覚ましたけれど、意識が混濁していたみたいで、今日がゼミであること、私たちが同じゼミの仲間だということを認識できなかった。
その日はどうにか帰れたみたいだけれど、翌日から彼の姿を見ることはなくなってしまったわ。彼の友達によると、親に実家に連れ戻されて、病院に行く羽目になったんだとか。
例の彼女は相変わらず、場の空気を引っ掻き回し続けて、離れ離れになってしまったけれど、今はどこにいるのかしら。
つぶらやくんの周りに、体感温度がおかしいんじゃないか、と思う人がいたら、よく話を聞いてみてね。与太話じゃすまない可能性があるかもよ。




