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隔たれ、離れし、その病棟

 やっほー、こーちゃん、迎えにきたわよ。どう、術後の経過は順調?

 一時期はこーちゃん、誰とも話したくないとか言っていたしね。猛烈に痛かったんでしょ? 健康な状態ならこうしてべらべらと喋れるけれど、ちょっと体調を崩しただけで、すべてが辛く、面倒になってくる。

 私、健全な精神は健全な肉体に宿る派なのよね。どんな崇高な意志を持っていても、血が漏り、肉が断たれ、骨がきしみ、眠りを許さぬ痛みの前じゃ、折れちゃうこともあるでしょう。精神が肉体を凌駕する様が、しばしば創作で美しく書かれるのも、実際にはできない欲求の裏返しなのだと思うわ。

 まあ、意志とは関係なしに、外出を禁じられちゃうケースもあるわよね。インフルエンザとか。バリバリ元気だとしても、ウイルスを他人にうつすわけにはいかないから、半ば軟禁状態ね。

 けれど、そんな風に軟禁されてしまうのは、別に理由があるんじゃないかしら。昔の経験から、私はそう考えるようになっているの。

 興味湧かない? 家に着くまでの間で、話しましょうかね。


「インフォームドコンセント」のシステム。こーちゃんも知っているでしょう?

 お医者さんが患者さんに治療を施す前に、どうしてこの治療を行うのか、治療の費用や期間はどれほどかかるか、もたらされる効果はどのようなものかを説明し、患者さんから同意を得る手続き。日本で義務付けられるようになったのは、20世紀の終わりごろと聞いたことがあるわ。

 つまり、それ以前には患者さん側が、治療に関する知識や影響に関して、「お任せします」で丸投げしたり、お医者さん側でも強引に誘導をかけて、方針に同意させることがあり得たということね。ぱっと見、自分にとって面倒なことは、ないもののように扱い、いざ自分に害が及べば、人のせいにする――我が身可愛さを優先する本能、打ち勝つことは簡単ではないわね。

 だけど、あえて説明しないというのも、防御策としては有効かも。

 患者の精神の、ね。


 私は幼稚園のころ、熱と鼻水、くしゃみがたくさん出てね。最寄りの大きい病院に言ったのよ。お医者さんが下した診断結果は、ジフテリア。

 こーちゃんたちには、もうなじみが薄い病気かも知れないわね。でも、私が子供の時には、5歳以下の発症は、重篤な事態を引き起こしやすいと警戒されていた。そのため治療には急を要する。

 私は即時、入院することになったわ。とはいっても、5歳の私に、お医者さまと両親との会話を理解しろ、というのは難しい話。ひたすら、病気の治療のためだと、何度も言い聞かされたわね。

 かくして私は、両親から引き離されて、隔離病棟――というと、語弊があるかしらね。ごめんなさい。

 とにかく、病院の中でも一際奥まった病棟に、入ることになったわけ。


 病棟に通された私は、まず出入り口の扉に驚いたわ。厚さ数メートルの鉄の扉が、数人がかりで開けられた時、「踏み込んじゃいけないところに、踏み込んでしまう」感じが漂って、ぞくりとしたわ。

 窓も防弾用のガラスと鉄格子を加えてあって、もはやどこまで意味があるのか分からない、頑強さ。壁にはところどころひびが入っていたけれど、その中には、明らかに何かを強く叩きつけたような跡も混じっていたわ。正直、逃げ出したかった。

 でも、入ることになった一室で、私は意外な子と再会する。そうね……マユミちゃんにしておきましょうか。マユミちゃんは、私と同じ幼稚園に通っていたのだけど、ここ一ヶ月くらい姿を見せなかった子だったの。

 久しぶりの再会に喜ぶ私だったけど、マユミちゃんの第一声は


「はじめまして、私、マユミ……のはずだよ。あなたはだあれ?」


 マユミちゃんには、記憶がなかった。自分の名前すら思い出せていないみたい。ここに入れられる理由を察して、私は顔を曇らせたわ。

 だけど5歳の私は人生に対して、無知ゆえのポジティブ思考。改めて知ってもらえばいいか、とすぐに気を取り直して、自己紹介から入ったわ。


 2度目の、マユミちゃんとの初対面。聞いた限り、マユミちゃんが記憶喪失ということをのぞけば、どうやら私たちはジフテリア同士で、同じ部屋に入れられたみたいだった。部屋の小窓やドアは、病棟全体で共通の頑丈さを持っていたけれど、それ以外は普通の病院の個室と変わりない。

 夜中に病棟中から、患者さんたちのものと思しき、「あー、あー」と理解できないうめきが聞こえてきたり、壁を叩いている音が絶えなくて、怖くてしかたなかったけどね。

 けれど、何日か過ぎていくうちに、私は別の不安を感じ始めたの。


 第一に、私はジフテリアということでこの病棟に入れられたけれど、一向に治療を施される様子がない。食事が運ばれてくるだけで、体温の一つも測られることはなかったわ。それはマユミちゃんも、他の大勢の人たちも同じ。

 第二に、マユミちゃん自身。彼女は記憶だけでなく、自分の身体も十分にコントロールできないみたいだった。なんでもないところで転んだり、食事の時に箸がちゃんと持てないのは、まだいい。

 例えば、彼女がわしづかみにしていた、ステンレスのスプーン。食べ終わる頃には、折れんばかりに曲がっていたわ。他に、じゃれ合いにも似た、けんかごっこをしたこともあったけど、彼女にぱっとつかまれた右腕、万力のように締め上げられて、思わず悲鳴をあげちゃったこともあるわ。

 この時ばかりは、お医者様を呼んだけど、特に異状はないとおっしゃっていた。けれど、彼女は終始、謝らずに、きょとんとしていたわね。まるで自分が悪いことをしたという、自覚がないみたい。

 さすがにむっとした。記憶喪失の弊害だろうけど、ここまでとぼけた態度を取られたらね。だけど、手を出しても確実に負ける。それどころか文字通り、無事じゃ済まないかも。

 加減のきかないマユミちゃんとの同室に、私はいっそう精神を削られていったわ。


 入院から一週間ほどが経った。

 お医者様の話では、あと三日ほどで退院できるという話。結局、治療らしい治療は施されず、私の体調は勝手に良くなっていったわ。一方のマユミちゃんは、回復の兆しが見えない。そして私自身、さらにぞっとするできごとに出会うことになる。


 退院が翌日に迫った晩。私は聞き慣れた、壁に何かをぶつけるような音を聞いた。今まで、何度も聞いたことがあって、最近ではさほど気にしないで眠れるようになったけれど、今日はやけに音が近い。私がそっと薄目を開けてみると――。

 隣のベッドの上に仁王立ちしていたマユミちゃんが、枕側の壁を殴りつけているところだった。それも、信じられないことに、一発一発が床を揺らして、殴りつけている壁面からは、かすかに塗装が剥がれ落ちている。

 でも、それ以前に、殴りつけている彼女の右手からは、何かが滴っていたわ。鼻腔をくすぐる赤さびた鉄の臭いに、私の本能が警告を発している。


「もう、限界か。この身体じゃ、全然足りないや」


 つまらなそうにつぶやくと、マユミちゃんは犬みたいに右手をペロペロなめまわしながら、ベッドに横になったわ。その間、私の心臓はバクバクしっぱなしだった。


 翌日、私が目を覚ますと、部屋にお医者様が来ていたわ。マユミちゃんは右手に包帯を巻かれていた。そして、例の壁にはこぶし大の陥没。十センチ以上は壁にめり込んでいたかしら。

 ご両親がお迎えに来たよ、とのことで、私は退院の手続きをする。部屋を振り返った時、マユミちゃんは笑顔で手を振っていたけれど、私には応える勇気がなかったわ。

 あの手、もし私の方に向いていたら、今、こうして生きていなかっただろうと、私は思うの。

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