91 番外 鈴木君が消えた日 中編(瀬戸、神城視点)
「瀬戸さん? ねえ、どうしたの?」
「……え?」
平間さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
あれ? 私、どうしてここにいるの?
朝目覚めたばかりのようなはっきりしない頭で緩慢に周囲を見回せば、ここが一年D組の教室前であることが分かった。
D組に来るような用事はなかったはずだ。そもそもD組に親しい友人もいない。
「……なんでもないの、それじゃ」
私は彼女に軽くそう言って鉛のように重い足を引きずるようにして歩き出した。この倦怠感はなんだろう。思考も、霧がかかったかのように晴れない。
胸の奥で何かがチリチリと痛んでいるような、わずかな違和感。
…………頭、痛い。
世界が歪む感覚に三半規管が悲鳴を上げる。激しい頭痛と喉の奥からせり上がる嘔吐感を必死に抑えながら、私はふらつきながら必死に思考を回し、神城先生のいる保健室を目指した。
「美人台無しの顔色だな、大丈夫か?」
今にも土に還りそうなほど死人に近い土気色となった私の顔を見て神城先生が驚いた顔で覗き込んでくる。
なんとか保健室まで辿りついた私は、倒れ込むように部屋に入ったのだが神城先生が私が来た事に気付くとすぐに手を回して私を抱え込み、ベッドに横たわらせてくれた。
おかげで少し体が楽になった。
「…………近年稀にみる酷い体調です」
「そうらしい。お前は体が強い方じゃないがこれほどまでに憔悴した姿は見た事がないな。なにをしたんだ?」
「特に……なにも」
意識が朦朧として白熱灯に照らされた黄金色に光り輝く神城先生の髪がやけに鮮やかに瞬いて見えて、うっかり天から女神のお迎えが来てしまったのかと錯覚しそうになった。
神城先生は美人だが、女神とかそんな柄じゃないのは昔から知っているのに。
私は生まれた時から体があまり丈夫な方ではない。幼少期はそれこそ寝具とお友達だったくらいだ。大きすぎる魔力のせいで体が軋み続ける私に先代の召喚士、つまり祖母は根気よく面倒を見てくれたものだった。
魔力が安定してからは修行のかいもあって、普通の暮らしはできるようにはなったがふとしたことで体調が坂道を転げ落ちるように急激に悪化することもしばしばあった。
そのせいで初等科に入学して早々、神城先生のお世話になり、その後も頻繁に高等科まで搬送されていた。神城先生とは長い付き合いなのである。
「酷く痛む所はあるか?」
「……頭が……あと、吐き気も酷いです」
症状を口にすると神城先生は顎に細く滑らかな白磁の指を滑らせ少々考える様なそぶりを見せてからその指先を今度は私の額に軽く当てた。
「やっぱり、魔力の消耗が尋常じゃない。どこかへ抜けていっているのか……いや、違うなこれはどちらかといえば」
どんどん険しい表情になっていく神城先生に私は沼地に足をとられどんどん深みにはまっていくような、抜け出せない恐怖のようなものを感じて体が震えた。
私が怯えていることに気が付いたのか、神城先生と目が合うと彼女は美しい顔で優しく微笑んだ。
「安心しろ、すぐに薬を処方してやる」
ペシペシと軽く私の額を叩くと、神城先生は薬棚から様々な薬品を取り出して慣れた手つきで調合していく。彼女は医者としても薬師としてもその筋ではかなりの有名人だ。名高い称号も持っていて彼女の手にかかれば多くの病は必ず完治すると言われている。本来なら学校の保険医なんてやっているような人ではないらしいのに、彼女は長い間ここに勤めているようだった。
実際の勤めている年数は知らないし、本来の年齢も聞いたことはない。それとなく調べようとすると怖い顔をされるので誰も彼女の年齢を知ることはできないようだ。
……少なくとも十年以上前からいるらしいから実年齢は見た目と比例していないことになる。まあ、女性に年齢を聞くなんて失礼よね。私も年を重ねたら、年齢聞かれただけでキレるだろうし。
ふんわりと漂い始めた安らぐ涼やかな香りに安堵を覚えて目を閉じた。神城先生は市販の薬をそのまま使用しない。生徒一人一人、体に合わせて調合してくれるから効きがいいのだ。そのあたりが腕利きと評される所以だろう。
その香りだけで落ち着いた気分になった私は少し微睡んだが、神城先生が普段から身に纏っている薬品の臭いが強く鼻について重くなっていた瞼を押し上げた。
「できたよ、さ……飲めるか?」
「……はい」
後頭部を支えてもらいながら上体を起こし、私は試験管に入ったままの青々とした薬液を見詰めた。神城先生は結構不精な所があるから薬を飲ませる時も調合してそのままの状態で渡すことがほとんどだ。カップに入れ替えてくれるとかそんなことはしない。
青い薬液が光に反射してまるで湖の水面のように輝き、香ってくる心地よい匂いと相まって幻想的な雰囲気を醸し出している。
――ズキン。と、ふいに胸が痛む。
チリチリとした小さな疼くような痛みは感じていたが、その痛みが今度は強く……何かを訴えかけるかのように脈を打ち始める。
瞼の裏側で瞬くように映る映像。静かに揺蕩う水面、湖の底が透けてしまうくらい透明な、透明な――――。
「――っ!」
突如襲いかかってきた激しい頭痛に身をよじって蹲った。思い出しかけた何かが呑まれるように真っ黒な影に覆われていく。
痛い、痛い、頭も――――胸も。
「大丈夫か瀬戸!? 苦しいだろうが早く飲むんだ」
無理やり口をこじ開けられ青い薬液が私の唇を濡らして舌を通り喉へと落ちていく。痛みで飲む準備ができていなかった私は喉に流れ込んだ液体を受け入れきれず咽て少し吐き出してしまったが半分は胃の中まで入っただろう。
口から零れた薬液が顎から喉を伝って制服の襟を濡らしてしまったがそんなことを気にする余裕はなく、私は咳込みながら神城先生の腕にしがみ付いた。
どうしてか涙が止まらない。
痛いから、私は泣いているんだろうか。
こんなにも胸が痛むのはなぜ。
神城先生の薬の力で頭痛は取り払われても、胸の奥に残る刺さるような痛みは一向に引かなかった。
* * *
もう今日は早退しろと言ったが瀬戸は頑として首を縦に振らなかった。私の調合した薬の力もあって一時間も横になると体調は回復したようだったがどうにも私には懸念があった。
溜息を吐きながら瀬戸を送り出した後、私は内線用の電話の受話器をとり呼び出しボタンを押した。彼は非常勤だからいつもいるわけではないが運が良い事に今日は校内にいるはずだった。
何度目かのコールの後、ガチャリと受話器が外れる音が聞こえ、数泊の後、怠く眠そうな聞き慣れた彼の声が響く。
『……はい、不死神ですが』
「久しぶりだな淵呪、まだ死んでないだろうな」
『………………神城先生ですか……こうして話しているんですから生きてますよ……』
ボソボソと聞き取りにくい声音で彼、不死神淵呪は少し不機嫌そうに言った。彼はアルカディアの非常勤教師で、私の元教え子だ。男はあまり好まないが淵呪は初等科の頃から色々手がかかる生徒だった為、付き合いも深い。
あれだ、手のかかる子ほどカワイイのだ。
淵呪は闇属性。生まれつき魔力が異常に高く、全身を自身の闇に呪われながら生まれてきた忌み子でアルカディアには親に捨てられるようにやってきた事もあってか周囲とまったく溶け込むことができない上に近づくと呪いのせいで相手を不幸に陥れる。ゆえに友人はほとんどいなかったのだが、属性にあまり影響されない無属性であった子や全属性の義経なんかはよくかまっていた。
現在も時々、坂上も含めて飲みに行く仲らしい。
『……それで、何の用でしょうか? こちらも暇ではないのですが』
「ああ、すまない。……淵呪、お前呪術系専門だったな?」
『はい。呪殺が得意ですが』
さらっととんでもないことを言う。実際は呪殺の方法を良く知っているだけで実践した事はない。する気もないだろう。彼が呪殺の方法に詳しくなったのは呪殺を防ぐ為だ。きっかけは義経が何者かに呪殺されそうになったからなのだが、それはまた別の話。
「魔力を大量に奪い取るような呪術……ってのは存在するのか?」
『ありますよ、それなりに……。魔法使いには有効な手段ですからね。……誰か枯渇症にでもなったんですか?』
「それに近い症状がある。かすかに闇の気配を感じたから呪術なんじゃないかと思ってな」
巧妙に隠されてはいたが光属性であり、感知能力の高い私の眼は誤魔化せない。瀬戸に飲ませた薬の中には闇属性の術を抑え込む効能を忍ばせた。それが効いたということは彼女になんらかの闇属性の術がかけられていたことになる。
「私の薬でも打ち消すことはできなかった。なにか手立てはないだろうか」
『……なんとも言えませんね。情報がそれだけでは詳しくは』
「じゃあ、放課後にでもお前のとこに寄越す」
『――っ!? え、えっといやあの』
「困惑するんじゃないよ、引き籠り。アルカディアの生徒が呪術に侵されてるんだぞ、助けてやってくれ……頼むから」
病は治せても呪術は専門ではない。彼女を苦しみから解放できるのは、今のところ淵呪しか思い当たらなかった。
瀬戸も初等科から面倒を見ている。手のかかる『カワイイ子』なのだ。あんなに苦しそうに泣く姿を見て放っておけるわけがない。
いつにもなく固い声になってしまったがこれで私の真剣さは受け取って貰えただろう。淵呪は受話器の向こうでしばらく沈黙したが、しばらくして小さく息を吐いた。
『……分かりました。でも……条件が』
「ん? なんだ」
今度はたっぷり一分ほど息を吸ったり吐いたりする音が聞こえ、仕方なく待っていると意を決して淵呪は言葉を口にした。
『義経も一緒に……お願いします』
「………………お前は相変わらず義経っ子だな」
昔から人見知りで内向的だった淵呪は義経が傍にいないとまともに喋ることすらできない。社会人になったらどうするつもりだと聞けば、人と会わず話さずいられる職場を全力で探します(キリッ)と言われた時には思わず脳天に踵落としくらわせてしまったが彼は本当にやってのけた。
呪術研究員兼非常勤教師として各地部屋に引き籠り。場所は点々と移動するがどうあがいても引き籠りである。
非常勤教師である為、教師としての仕事は他の先生方の手伝いである。一人で教壇に上がることはほぼないのでやり過ごせているのだろう。
条件を了承した私は電話を切るとすぐさま義経へ連絡を入れる為に呼び出しボタンを押した。しかし何度コールしても出ない。どこかへ出てしまっているのか。仕方がないので伝言を残して切ると、一時間後に義経の方からコールがきた。
「なにしてたんだお前、あの時間は空いてただろ?」
『……お、俺にも用事ってものがあるんすよ…………うおぉえ』
「…………二日酔いの馬鹿に何の用があるってんだ。寝てたな?」
少々脅しも込めてドスの効いた低い声で言えば、受話器の向こうで義経が震える気配がした。彼も私の教え子だ、昔の恐怖は体で知っているから私には逆らえまい。
『すいませんごめんなさい……反省してるんで二日酔いの薬――』
「馬鹿に飲ます薬なんかないよ。それよりもお前、放課後淵呪の所へ行け」
『ご無体な……って、え? 淵呪っすか?』
意外な名前だったのか、義経は素っ頓狂な声を上げた。個人的な付き合いはあるだろうが私を介してその名前が出るとは思わなかったのだろう。淵呪は義経に話がある時は、自分で話をしに行く。彼にだけは懐いているから。
「呪術に蝕まれている生徒がいるんだ。詳しく見てもらいたくてな。で、人見知りなあいつは生徒に合うのにお前も同行して欲しいんだとさ」
『ああーそういうことですか。はい、分かりました……まったく淵呪も相変わらずっすね』
「まったくだな」
呆れつつもどこか嬉しそうな声に私もうっかり笑ってしまった。社会人の男としては笑い事じゃないんだがな。
「あいつ、あれじゃあ結婚なんて先の先になりそうだな」
ふと淵呪と仲の良いもう一人を思いだして言った台詞だったが受話器の向こう側が急激に静かになって自分のやらかしたことに気が付いた。
『…………けっ……こん…………』
この世の終わりでも来そうな悲壮な声音に私の背中から冷や汗が流れる。あの格好つけたがりの義経がぼーっとして階段から転げ落ちるほどの事だ。禁止ワードにもほどがある。
「す、すまない義経、気にするな! なんでもないすぐに忘れろ! それより淵呪だ!」
『アハハ……ヤダナキニシナイデクダサイヨ。オレ、ダイジョウブデスカラ』
「台詞が全部片言だ! 気をしっかり保て! 強く生きろおぉぉっ!」
――――私の教え子、どいつもこいつも面倒臭いのばっかりだ。




