85 sports day 体育祭準備8
特訓室から廊下に出るとすでに外は日が沈み暗くなっていることに気が付いた。何気なく視線を窓の下に降ろすと、そこには美しい花々が咲き乱れる庭園があった。確かあそこは園芸部が手入れをしていたはず。土倉さんも園芸部で綺麗な花を咲かせると教室の花瓶に飾っているようだ。そんな庭園のベンチで外灯の明かりを頼りに本を読んでいる柳生先生が目に留まった。朝のホームルームで見た時は青い顔をしており、二日酔いだと頭を抱えていたが昨日のことを引き摺っているような様子は見られずいつも通り砕けた様子でいたが内心はどうだったのか人の心に聡くない私には分からない。
本が読めるということは二日酔いはもう大丈夫なのかな。
そう思いながらも無意識に右腕を摩っているのに気が付いて慌てて離した。あの時のことはきっと本人も覚えていないだろうし、私も多分忘れるべき事だろう。
なんだか居た堪れない気分になって先生から視線を外すと再び廊下を歩きだす。
能登君が来た事だし一ノ瀬君達の方も合同練習はもう終わっているだろう。一瞬、黒須磨君の言葉を思い出し一ノ瀬君達と帰ろうかと考えが過ったが別に一緒に帰ることを約束してはいなかったのでもういないかもしれない。
制服に着替えて教室に戻って鞄をとったら直で寮に帰れば何も問題ないだろう。この辺りは使用している生徒もそれなりにいるのか消灯もされていないし一人でも平気だ。
そう思い直し、地下のホールに向かおうとした足を元に戻して更衣室への道に足先を向けた。しばらく歩いてもう少しで更衣室というところで唐突に聞こえた誰かの足音にビクリと体が震えてしまった。
他に生徒はいるだろうし、色々と考えすぎだ。黒須磨君があんなこと言うから……。
と首を振りつつ止めた脚を動かそうとした時、足音が響いた背後から声がかかった。
「D組の花森さん……だよな?」
聞いた事のない男子の声に驚き怯えつつも後ろに振り返ればやはり見知らぬ男子生徒が立っていた。彼は私の顔を確かめるようにじっと見つめてくる。
「そう……ですけど」
居心地の悪い視線に身構えながら私は声が裏返らないように必死に言った。クラスメイトの男子と話すのも苦手なのに知りもしない男子と一対一で会話なんて拷問に等しい。喉の奥では必死に一ノ瀬君を呼んでいたがテレパシーを使えるわけでもなし、彼が来てくれる可能性などゼロも同然だ。
「よかった、人違いじゃなくて。制服じゃなくてジャージだし、髪型もいつもと違うからさー」
そう言うと彼は人好きするような柔和な笑顔を浮かべた。そういえば私は長い髪が邪魔になるからといつもの何もしてないストレートの髪型から白のシュシュで縛ったポニーテールにしていた。いつもなら運動もやる気なしで髪が邪魔ということもなかったが今は違う。髪が邪魔だと思うくらいには本気で取り組んでいた。
髪型がいつもと違う、と言う事は普段の私を彼は知っているのか。
「あの……どこかで会いました?」
「ああ、ゴメン俺二年だから花森さんの方は知らないと思うよ。俺もウォークラリーの最後で見たのが最初だし」
先輩だったのか。
彼の襟元を見れば確かに二年を示す銀のバッチが輝いている。ちなみに一年が銅で三年が金だ。
しかしそれだとなぜわざわざ私に声をかけたのか理由が分からない。
「……先輩が私に何か用ですか?」
「用ってほどでもないんだけど花森さんっていっつもパートナーの彼とかと一緒じゃん? ちょっと話してみたいなーって思ってたけどなかなかできなくて…………あいつの威嚇のせいで」
最後の方がぼそりと呟くような喋り方だったのでよく聞こえなかったが先輩は私と交流を図ろうとしているらしい。なんで。
「今帰り? だったら一緒に帰ろうよ。ここで会ったのも何かの縁だし」
「い、いえっ結構です」
冗談ではない。会って間もない男子、しかも先輩と一緒に二人で帰るなんて。そんなことをしたら頭が破裂してしまう。私だってもっと人に慣れるべきだし、いろんな人と交流をしていきたいとは思っているがそれでもこれはハードルが高すぎる。
それになんだかこの先輩、ちょっと怖いのだ。笑っている顔は優しそうなのにどこか含むものがある気がする。
そう思うのはきっと私が本当の真っ直ぐな笑顔をいうものを毎日のように近くで見ているせいだ。
……一ノ瀬君はあんな風には笑わない。
「外もう暗いし、女の子を一人で帰らせるわけにもいかないでしょ」
「結構ですってば!」
バシンッ!
先輩が腕を掴もうと手を伸ばしてきたので咄嗟に叩き払ってしまった。罪悪感はあったがそれ以上に恐怖心が勝った。
先輩は叩かれた自分の手をしばらく呆然と見ていたがみるみるうちに怒りで顔を真っ赤に染め、柔和だった笑顔は掻き消えて鋭利な瞳で私を睨んだ。
「人が親切にしてやってんのに、いいから来い!」
「―――! いやっ!」
猛然と腕を掴まれ力一杯引っ張られる。負けまいと両足に力を入れて踏ん張るが男の腕力に敵うわけはなく抵抗虚しく引き摺られる形でどんどん歩かされる。
恐怖でどうにかなってしまいそうだ。同じように痛むほど強く摑まれ引き摺られるようにして手を繋いで歩いた木塚君とはまったく違う。羞恥心なんて欠片も湧かない。
怖くて、怖くて手も足も、体全体がガタガタと震える。掴まれている場所から肌が粟立ち、心底冷えていく感覚だった。
木塚君の時は、体が溶けるかというほど全身が熱かったのに。
この差は一体なんだろうか。
それなりに騒いでいるはずなのに一向に誰とも合わない。この辺りにはもう誰もいないのか。パニック状態だった為に途中まで気が付かなかったがこの方向、玄関ホールではない。まったくの逆方向だ。その事に気づいた瞬間、冷や水を浴びたように思考がクリアになった。嫌な予感がする、それも最低最悪な。
勇気を振り絞って進行方向を確かめればその先は消灯された廊下。私は暗い場所へと引き摺りこまれようとしていたのだ。
あんなところに連れて行かれてどうする気なのかなんて想像したくもない。
暗闇に待ち受ける恐怖に耐えられず固く目を閉じた。
黒須磨君の忠告を素直に聞くべきだったのだ。人通りの多いところを通って、一ノ瀬君達がもういなくても誰かD組のメンバーが残っていたかもしれない。そして一人にならずに一緒に来てもらえば良かったのだ。
孤独に慣れ過ぎて過信していた。私の落ち度だ。でも、それでもこんなのは嫌だ。
喉の奥に押し込めていた名が暴れ出す。
私の体が闇へと呑まれるその瞬間、恐怖に堪えきれなくなった喉から裂けるほどの声でその名が弾ける。
「助けて、一ノ瀬君!」
私の叫び声に驚いたのか先輩の腕を引く力が弱まったと思った瞬間、私の耳のすぐ横を空を斬るようにして何かが過ぎ去り、一拍も置かない間に鈍い音が響き私の腕から先輩の手が離れた。
突然のことに呆然と突っ立って暗い廊下に転がって呻く先輩を見下ろしていると、その横をすり抜け、私と転がった先輩の間、光と闇の真ん中に私を庇うようにして立った人物がいた。
「一ノ瀬く――」
眼前に現れたのがローブを纏った髪の短いそれなりに背丈のあるシルエットだった為、一ノ瀬君と勘違いしたが言いかけた間に半分だけ私に振り返った顔にそれは誤りだったことに気付いた。
「…………悪かったな、一ノ瀬ではなくて」
不機嫌そうに眉根を寄せて神経質そうな深緑色の瞳がわずかな電灯の明かりと月明かりに輝く。思いがけない人物の登場に口をぽかんと開けて間抜け面を晒してしまったが、かろうじて彼の名は音となった。
「木塚……君?」
「それ以外の誰に見える」
思考が追いつかずぼけっとしている私を呆れたように一瞥してから彼はすっと暗い方の廊下で転がったままの先輩を見下ろした。
「――っくそ、お前なにを」
「少し遠かったのでな本を投げさせてもらった。うまくぶち当たってくれて感謝する」
背筋がぞっとした。木塚君はいつも低い抑揚のない声音で話すからそれなりに言葉に威圧感がある。けれども今のはそれ以上に淡々とした口調で私に言ったわけではないのに体に震えが走った。
彼はどんな顔をして先輩を見下ろしているんだろう。
「ふ、ふざけやがって!」
怒りに震えた声が響き渡り、跳ねるように起き上がった先輩はそのままの勢いで木塚君の頬を殴り飛ばした。木塚君は大した抵抗もできずそのまま殴り飛ばされてすぐ後ろにいた私とぶつかり私は慌てて彼の背を支えた。だが拍子に彼の眼鏡が外れて廊下を転がり壁に当たって止まる。レンズは割れてしまったかもしれない。
力なく私にしなだれかかる木塚君を見て先輩は嘲笑を漏らした。
「なんだ弱えぇなお前! 女の前だからって調子に乗りすぎなんだよこのモヤシ」
「――っ!」
先輩の暴言に私は目の前が真っ赤になった。頭のてっぺんまで血が上って沸騰しているような感覚に少し戸惑う。いまだかつてこんなに怒りを覚えたことはない。木塚君は確かに見た目的にも喧嘩が強そうには絶対に見えないし実際、強くなんてないだろう。それでも私を助けてくれた。
庇って、守ってくれたのだ。それを――!
彼に対する恐怖など吹き飛んでいた。それよりもなによりもこの男を黙らせたい。普段なら思わないような暴力的なことが頭をよぎった時、固く握りしめていた拳を温かな手のひらが包んだ。
驚いて木塚君を見れば彼は私から体を離して足元が覚束ないながらももう一度、私と先輩の間に立ち塞がる。
「……確かに俺は腕力もなければ喧嘩もしたことはない。物理的な攻撃力で言えばその辺の女子と対して差はないだろうな」
「はっ! だったらすっこんで――」
「だがそれはそのことに今まで対して必要性を感じなかったからだ。そしてそれは貴様に対しても同じ……だ」
木塚君を嘲笑していた先輩の表情が一瞬にして強張った。なにか恐ろしいものでもみているかのようにその顔は恐怖に歪みガタガタと体を震わせて涙すら浮かべている。
一体何が……。
「本ばかり読んでいるから目が悪いのだと勘違いされがちだが、俺は別に眼鏡をかけなければならないほど視力が低いわけではない」
え? そうなの!?
思いがけないことを聞いて私は心の中で驚いた。この圧迫感の中で声を出せるほど肝は据わってない。
「眼鏡を跳ばしてしまったのが運の尽きだったな」
「――ひっ!」
一歩木塚君が前に足を踏み込むと、先輩は恐怖に引き攣った声を上げ、ぶざまに尻もちをついて後ずさった。
「貴様のような小者が俺の瞳から目を反らせるわけもない。――――眠るがいい貴様に『宵夢』を与えよう」
木塚君がそう言った瞬間、先輩の体は傾ぎ、冷たい廊下の上に転がった。それから彼はぴくりとも動かない。
「あ、あの先輩……どうしたの?」
「眠ってもらった。殴り合いではどうあがいても負けるからな」
木塚君はこちらを見ずに背を向けたまま答えた。不思議に思ったがまずは彼にお礼を言うのが先だと思い木塚君の前に行こうとしたのだが手で遮らてしまった。
「目を見るな。君までかかる」
「え?」
「聞いていただろう、俺の目には異能がある。この目を見た者は『宵夢』に誘われ延々と悪夢を見続けることになるぞ」
そう言われてようやく得心がいった。魔法使いには個々に魔法とはまた違った特殊な能力が備わることがある。雹ノ目君にも音で人を操ってしまうという力があった。私にはそんな特殊な力はないけど。
木塚君に「眼鏡を」と言われ私は慌てて眼鏡を拾った。結構な勢いで跳んだから割れてしまっているかと心配したがどうやらレンズは無事そうだ。目は悪くないと言っていたからこのレンズには度が入っていないのかもしれない。
私から眼鏡を受け取った木塚君はようやくこちらを振り向いてくれた。今度こそお礼を言おうと思ったのにその頬が赤く腫れあがっているのを見てしまい罪悪感に押しつぶされそうになった。
「ご、ごめんなさい……」
「なぜ謝る」
「だって私のせいで」
「殴ったのはアレで勝手に割って入ったのは俺だ。花森に謝罪をされるいわれはない」
不機嫌そうな声音でそっぽを向かれてしまったがそれが木塚君なりに気遣いであることぐらいすぐに分かった。
「ありがとう木塚君……ありがとう」
ぼろぼろと涙が零れてきて止まらなくなってしまった。助かったんだとようやく体が実感したのか腰が抜けてしまいヘナヘナとその場に崩れ落ちてしまった。
「お、おい」
聞き慣れない木塚君の焦った声が聞こえる。大丈夫だよ、なんて相手を心配させないようにする虚勢もはれない。私の頭はもう限界にきていた。ぐるりぐるりと視界が回っている。激しい頭痛と眩暈が襲ってきて頭が割れてしまいそうだ。
ただでさえ寝不足なうえ、土倉さんとの特訓で体力と魔力もほとんどない。どうしようここからまず制服に着替えて教室から鞄をとってきて寮に帰らないと行けないのに。
これ以上、木塚君に迷惑はかけられないと意識をしっかり保とうとして頑張って太ももをつねってみたのが功をそうしたのか少しだけ意識が晴れたのだが、晴れた意識の中で私は自分がとんでもない状況になっているのに気が付いた。
木塚君が両手で私の頭を鷲掴みにしている。この体勢から次になにがくるのか想像してみて『頭突き』しか出てこない私の思考回路はもう終わってるかもしれない。
いや、本当に頭突きしないでよ木塚君。泣きっ面に蜂みたいなことになってしまう。
と戦々恐々としていたのだがもちろん彼は頭突きなどしてこなかった。ただゆっくりと指に力をかけて押さえた頭を押していっている。
あれ……なんか気持ちいい。
「花森、顔色が悪い上にクマまでできてるぞ。寝不足になるようなことをするな。術をかけてやってもいいが治療を魔法に頼りすぎるのは体に悪いからな……今はツボ押しで我慢しろ」
ああ、心地いいと思ったらツボ押しマッサージだったようだ。木塚君ってこんなこともできるのか。
思考が鈍くなる。まどろむような心地よさにうっとりとする中、すぐ近くにある木塚君の瞳に目が留まった。普段ならこんな至近距離で男子の目を見詰めるなんてことできるわけないが今は夢の中に半分片足を突っ込んでいる状態である。なんの躊躇いもなしに見ることができた。
眼鏡越しの深緑色の瞳。この目には相手を悪夢へと誘う恐ろしい異能が備わっている。それでも私はこの一点の曇りもなく私を見詰め返す真っ直ぐな彼の瞳がとても綺麗に見えた。
…………あれ?
とろんとした微睡の中、私は背中に温かい温もりを感じて瞳を開いた。いや、そもそもいつ私は目を閉じたのか。
ぼーっとしていると目の前によく知った人の顔が現れた。
「あ、起きたな花森」
「……一……ノ瀬……君?」
私の顔を心配そうに覗き込んでいる燃えるような真紅の髪に黄金の瞳を持つ少年と言ったら一ノ瀬君しかいない。
「そう、まだ寝てていいぜ。このまま寮の入口まで連れてくから」
揺り籠のような包まれた温かい感覚に私の意識は再び安らかな微睡に落ちていく。どうして一ノ瀬君がここにいるのか、木塚君はどこに行ったのか。そんな質問もできないくらい私はどうしようもなく眠たかった。
あれだけ怖い目に合ったのに、どうしてだろう。
私が一ノ瀬君にお姫様抱っこで女子寮の入口まで連れて行かれたという事実を知ったのは、次の日の朝、D組連中に冷やかされた時だった。




