84 sports day 体育祭準備7
「…………ふぅ」
パタン、と金色に縁どられた美しい装丁の本を閉じた。木塚君から薦められたアヴェリーを読み終え、ベッドに転がり込む。
一ノ瀬君は無事に柳生先生を坂上先生の所に連れて行けただろうか。
右腕を持ち上げ、そっと手首をさする。まだそこには熱が残っているかのように熱い気がする。当てられるほど強い、先生の切なくも深く熱い愛にこちらがのぼせ上ってしまいそうだ。
あんなことがあったからか、アヴェリーを読んでいても恋に破れた人物の方に感情移入してしまっていつもなら恍惚と読み終わるところをズキリと刺さるような痛みが残ってしまい余韻に浸れないでいた。
彼女の事を本当に愛していたのに、アヴェリー……イリーナが選んだのは彼ではなかった。イリーナの最愛の人となったルノーと彼との違いはなんだったのか。読んでいても双方とても魅力的な人物だった。けれどたった一つだけ違った事がある。それは彼女へ熱い思いを伝えたか伝えなかったか、それだけだ。
一つの小さな綻びと、すれ違い。少しでも道が違ったら彼女は彼を選んだのかもしれない。柳生先生もなにか少し違っていたら彼女のウエディングドレスを選ぶことに泣いたりしなかったかもしれない。
私は今、どこを歩いているんだろう。この道は正しいのだろうか。もしかしたらもう何か間違えていてこの先にあるのは悲しい結末なのかもしれない。いつか誰かを好きになってもどこかを間違えて失恋の痛みに泣くのかもしれない。
ベッドに入ったはいいものの、巡るように色んなことを考えてしまい碌に眠れなかった。
「花森さん、一生のお願いです!」
次の日の放課後、少し隈のできてしまった顔でこの後はどうしようかと考えていると土倉さんが両手を合わせて拝むように私に頼み込んできた。
「な、なに?」
「この後、練習に付き合ってもらいたいんです」
土倉さんは確か、マジック・ロワイヤルに出場するはずだ。魔力を上手く操って様々な障害をクリアしていく競技。土倉さんはとても器用だし、適任だと選出されたのだが本人は自信がないのか決められた時もオロオロしていた。時間の合間を縫って懸命に練習している姿を何度か見た事があるけどその時は黒須磨君や能登君と一緒だったはずだ。
しかし男子は放課後、先輩達と合同練習が入っている。一ノ瀬君と黒霧もそっちに行っており私も一人だった。
「私でいいの?」
「はい! 花森さん魔法コントロール上手いじゃないですか。私は花森さんが出た方がいいような気がするんですが」
「謙遜しなくても土倉さんは上手いよ。皆に選ばれたんだから自信を持って」
「うっ、は……はい」
「練習は特訓室だよね? どこが空いてるかな」
「第三特訓室を予約してありますからそこに行きますよ」
割り込んできた低い声に驚いて振り返ればそこには麗しい美貌を持つ長身の黒髪男子が微笑みながら立っていた。黒須磨君だ。
彼の姿を見るなり土倉さんは喉の奥で引き攣るような悲鳴を上げ、私を盾にするように縮こまった。そんな彼女を見て一変して彼はけぶるような長い睫毛に縁どられた銀の瞳を眇め、土倉さんを睨んだ。
「練習ならいつも通り俺が相手をすると言ってあったと思いますが?」
「だ、ダメですよ! 男子は全員先輩達と合同練習の予定じゃないですか!」
そうだ、男子は全員先輩達との合同練習の為、地下一階のホールへ集まっているはず。ここに黒須磨君がいてはいけない。
「女子だけで練習は危険です。合同練習には鉄季を行かせましたから問題ありません」
「話を聞いただけでぶっつけ本番で合せられるんですか!?」
「合わせられますね」
清々しいほどきっぱりと言い切った。その自身、どこから来るのか。
「ということで花森さん、練習は俺が付き合いますので貴女はどうぞ自由な放課後を――」
「いやあぁぁっ! 花森さんと一緒に行きますーー!!」
ぐうぇ!
悲鳴じみた声を上げた土倉さんに力一杯ホールドされ、首が絞まる。酸素不足でボーっとする中、視線を黒須磨君に投げると彼は苦虫を噛み潰したような顔で私を見ていた。
一体なにがどうしてこうなってるの…………。
意味が分からず困惑していると、私の首をがっちり抱きしめている土倉さんが内緒話をするように耳元で小さく言った。
「お願いですっ、私とユキ君を二人っきりにしないでくださいっ」
「…………なんで?」
なんとなくイラッとする予感を覚えつつ聞いてみる。すると土倉さんの頬がみるみる朱に染まっていった。
「だ、だって――ははは恥ずかしいじゃないですかっ!」
思いっきり砂吐いたろか。
現実的に血を吐きそうな気分になりながらも土倉さんがあまりにも必死だったので、黒須磨君の無言の重い威圧感は感じなかったことにするしかなかった。
「私も行く……よ」
昨日は柳生先生の報われない切ない恋を目撃し。今日は今日で初々しいラブカップルを目の当たりにするとか忙し過ぎて精神が崩壊しそうです。
一ノ瀬君、黒霧――――助けて!
胃に穴が空いたら誰を訴えるべきか、真剣に悩む。
第三特訓室で練習を終えた私と土倉さんは長椅子に座ってジュースを飲んでいた。体を動かすので服装はジャージだ。
黒須磨君は一人、少し離れた所でスポーツドリンクを飲んでいるがその視線は土倉さんに気取られないように注意を払いながらもしっかりと私を睨みつけている。
ええはい、分かってるとも。邪魔なんだよね、私!
きっと黒須磨君は今日は能登君を合同練習に参加させていつもの三人組から土倉さんと二人っきりになれる状況を作ろうとしたんだろう。適当になにか理由がないと能登君と土倉さんを納得させられないから。そしてツンデレな自分を擁護できないから。
と、彼の内心を悟りつつも出て行けないのは土倉さんが私を逃すまいとぴったりとくっついているせいだ。
ああ、黒須磨君の視線が怖い。
土倉さんはふわふわの茶の髪を二つに結って前髪を花柄のヘアピンで留めている。彼女は物腰丁寧な子だが少し天然でD組にふさわしく若干おバカさんだ。でもそんなところも可愛らしいと思う。
「花森さん、今日は付き合ってくれてありがとうございました。助かりました……」
最後の助かりましたはかなり切実な響きがあった。最初はなぜこんな目にとか、勝手に爆発してればいいじゃないの、とか思っていたけど考えてみれば男子と二人きりは居心地が悪い。二人がすでにお付き合いしてるのであればもう知らんが、そこまでいっていない微妙な関係だとなおさら気恥ずかしいのかもしれない。
なんかもう昨日から未知の領域の話ばかり見聞きしているからそろそろ限界だ。愛だの恋だのはやはり私にはまだ早い。まだまだ物語の中で浸っているだけでいたい。当事者になるなんて御免だ。
「遅くなって悪い。サキちゃんの貞操は……バッチリ守られちゃってるみたいだな」
唐突に扉を開け放って無遠慮にやって来たのは能登君だった。私と目が合って色々悟ったようだ。いつもの無表情の中に少しの憐みを含んだ眼差しで黒須磨君を見ると、それに気づいた彼が手にしていたペットボトルをぐしゃりと握り潰した。
「沼に沈めますよ」
「えーヤダー」
凄まじい怒気を孕んだ真っ黒いオーラが黒須磨君から立ち上っているというのに能登君はどこぞ吹く風だ。慣れているらしい。
能登君が来た事で緊張がすべてほぐれたのか、土倉さんが私から離れたのを見計らって私は立ち上がった。
「それじゃあ、私はこれで」
「あ、花森さん本当にありがとうございました!」
ぺこりとお礼を言ってお辞儀する土倉さんに会釈すると私は扉に手をかけたがいつの間にか近くまで来ていた黒須磨君に阻まれた。
彼女との二人っきりの時間を邪魔してしまった形になったし文句でも言われるのかと身構えたが黒須磨君の顔からは不機嫌さはあっても怒りは感じられなかった。
小さく静かに耳に心地よい低い声が降ってくる。
「お前も気を付けた方がいい」
「え?」
「俺が四六時中、サキについているのは浮かれ勘違い野郎にちょっかいかけさせない為です。いるんですよね、こういう行事ごとになるとテンション上がって分を弁えず女子に手を出す馬鹿が」
吐き捨てるように言う黒須磨君に私はふと能登君と談笑する土倉さんを見る。彼のこの態度からして以前、彼女にちょっかいかけた馬鹿がいるのだろう。
その人大丈夫かな、死んでないよね。
土倉さんの方を見ているのに気が付いたのか黒須磨君は呆れたようにため息を付いた。
「なにやら他人事のように感じているようですが、貴女も女子なのだから対象内ですよ。体育祭準備で一ノ瀬君や黒霧さんとあまり一緒に行動出来ていないようですから。なるべく一人にならないように気を付けてください」
そう忠告すると黒須磨君は二人の元へと去っていった。
確かに行事ごとになるといつもと違う雰囲気に酔うのかおかしなことをしだす人もいる。けど私は今まで一度もそういうことに遭遇したことはないし大丈夫だろうと思った。
高等部に上がるまでは一人で過ごしていたのだし、一人で行動することに危機感を持っていなかった。
私には無関係。そう考えてしまったことを私はこの後、ものすごく後悔することになる。




