83 party 伝えられない思い
ウーロン茶を飲み過ぎたのかトイレが近くなってしまい、二人に断りを入れて席を立った。出入り口の所で一回振り返ってみると一ノ瀬君はまだ平間さんと話をしており、さきほどまで見せていたいつもの表情を一変させ苦渋に満ちた顔で姿勢も彼女から引け腰だった。
逆に平間さんは一ノ瀬君を追い詰めるようにいい笑顔で前屈み。
あの様子は何度か教室でも見た事がある。一ノ瀬君は平間さんが女子で唯一苦手だと言っていたけど平間さんは一ノ瀬君のことどう思っているんだろう。
……少なくとも嫌ってはいないだろうけど。
一ノ瀬君は女子と話すときも気さくだがどこかきちんと一線を引いており、少しでも自分のテリトリーに入ろうとしてくるとすぐに予防線を張って遠ざけるのだ。彼はとても勘が良い。女子の恋愛的な機微に関しても意外にすぐ勘付いているということに私も最近気が付いた。
一ノ瀬君は思ったよりモテる。女子って七瀬君みたいなタイプを好むんだと思っていたけど実際は彼女達は現実的で、広く浅く付き合う女好きの七瀬君より紳士的で堅実そうな一ノ瀬君を恋人にと望むのだ。七瀬君はいつも女子に囲まれているから勘違いしていたが、彼とは遊びときちんと分けている人達が多いそう。
この辺は須藤さん情報だ。
彼が平間さんを意図的に遠ざけないのは彼女にその気がないからなのか、それとも……。
なんだか胸がもやもやして頭を振った。平間さんへの対応だけが中途半端だからなんだか変に気になってしまうのだ。体育祭準備で一ノ瀬君と離れている時間も最近は多くて、その隙になんだか女子に声をかけられる機会が増えているらしい。この辺も須藤さん情報。
用を終えて冷たい水で手を洗った後、その冷や水で顔もついでに洗った。頭を冷やしたい気分だったのだ。適度に冷やされた頬と額にようやく頭がすっきりしてくる。
私は自分で思うよりずっと寂しがりやらしい。雹ノ目君との件もあって一ノ瀬君はウォークラリーの時からずっと私に付きっきりだった。常に傍にいて世話をかけさせてしまっているのが日常のようになってしまっていたのだ。
こういうのはきっといけない。今の状態こそが普通なのだ。
甘え過ぎてるな。
一ノ瀬君の傍は心地よくて、異性であるのにあまり緊張しない。
濡れた両手を見詰める。一ノ瀬君と手を繋いだ時、感じたのは心にふわりと広がる温かさと安心感。けれど木塚君と手を繋いだ時は何かを考えることができないくらいに緊張して頭も心臓も爆発するかと思うくらい恥ずかしかった。
この差は一体なんなのか。
女の子としては木塚君と手を繋いだ時の反応こそが恐らく普通。私は男子慣れなんてしているわけがないし、少し指先が触れただけでも憤死ものだろう。一ノ瀬君への反応こそがおかしい気がする。
黒霧の幻でも彼をお兄ちゃんとして慕っていたし、幻から覚めてもその気持ちは残ったまま。この親愛の心はどこから来るんだろうか。
……私、もしかしてブラコンってやつなのかな。
いやまさか。血が繋がってないじゃんか。
一人心の中でノリ突っ込みをした後、ハンカチで顔と手を拭いてホールへと戻る為、足を向けたがどうも重い。まだ二人が一緒に話をしているのかと思うと帰りづらくなる。
足を引きずるような気持ちで廊下を歩いていると突然どこからか呻き声が聞こえて思わず体が跳ねた。
オバケじゃありませんようにと祈りながら声の主を確かめようと声がした方を向けば廊下を這うような格好で誰かが倒れていた。心臓がひっくり返るかと思うほど驚いたがオバケではなさそうだったので急いで駆け寄って膝をつく。
「どうしたの? 具合でも悪く…………あれ? 先生?」
意識があるかどうか確かめようと肩を軽く揺すりながら声をかけたがその途中でその人物が自分のクラスの担任であることに気が付いた。
柳生先生は確か、千葉君達に囲まれて慰められていたはずだが。どうしてこんなところで倒れているのか。
「――あぁ……?」
先生の口から漏れた掠れた声が甘く響き、不覚にも心臓が跳ねてしまった。普段のふざけた様子とは違う雰囲気に戸惑いつつも今度は強めに肩を揺する。
「先生、どうしたんですか? こんなところで寝てると風邪ひきますよ!?」
私の揺する振動に先生は何度か呻いた後、ゴロリと仰向けに転がって不意に私と目を合わせた。先生の目はどこか虚ろで頬には少し赤みがさしている。
嫌な予感がして先生の顔に鼻先を近づけると……予想した通りの臭いが漂った。
「先生っ、お酒飲みましたね!?」
いくらパーティといえど学校で飲酒はまずいんじゃなかろうか。きっと千葉君達が気を利かせて出したんだろうけど……。
大人はお酒の力で世の理不尽さや諸々の嫌な事を忘れるらしいから、その考えの元、なかなか立ち直らない先生へ彼らが『今は忘れちまえよ!』的なノリで出したに違いない。
先生も普段なら絶対断っただろうに、よほど追い詰められていたのだろう。
平間さんから聞いた話も相まって、先生の痛ましい姿に心臓がチクリと痛んだ。同情していいか分からなかったけど何かをせずにはいられなくて気がついたら先生の額へと手が伸びていた。
そして軽く先生の黒い柔らかな前髪を撫でる。慰め方が子供をあやすようになってしまったが先生は酔っぱらっているようだし記憶にも残らないだろう。
ぼんやりと見上げてくる先生に私は精一杯微笑んでみせた。ちょっとぎこちなかったかもしれない。だけど私も少しでも先生を慰めたかった。雹ノ目君とのことでも沢山迷惑をかけたし、先生にもお世話になりっぱなしなのだ。
しばらくそうして静かな時間が流れたが、冷たい風が廊下を抜けた瞬間に我に返った。このまま廊下に先生を転がしておくと本気で風邪をひきかねない。誰か、一ノ瀬君や千葉君に先生を頼もうと前髪を撫でていた手を引っ込めようとした時、初めて先生が動いた。
引こうとした私の手首が先生の手によって強く握られる。
「せんせ――」
「……スズ」
どうしたのかと先生を呼ぼうとしたがその言葉は遮られた。優しくも切なさを含んだその声音に胸が震える。握られた手首が熱を帯びたように熱かった。
焦点が定まっていない微睡んだ瞳には私が映っていたが、先生の目にはきっと別の人が映っている。
「……ドレス、全部似合ってるぞ……全部着ちまえよ、お色直しくらい沢山させてもらえ。そんで最高に幸せな……幸福な花嫁……に――――」
先生は笑っているようだった。でも分かる、それはとても無理をして作ったものだ。だって私と同じでとても下手くそな笑顔だったから。
泣きそうだった。溢れるような優しさと愛情と、そして痛みが掴まれた手から流れてくるようで。
そのまま力なく先生の手が崩れ落ちるまで私はただじっと動けなかった。
「それで、先生に酒飲ませたおバカはどこのどいつなのかな?」
ホール内にビリリとした緊張感が走る。仁王立ちした羽田さんの前には先生を囲んで慰めていた千葉君達が床の上で正座させられている。
先生はイスを合体させて作った急ごしらえのベッドの上で爆睡中だ。
「ごめん姐さん……よかれと思って」
「後でお咎めをくらうのは先生だということお前達は分かっているんだろうね」
「反省してます! 後で謝りにも行きますっ」
土下座で謝る千葉君達に羽田さんは深く溜息を吐いたがこれ以上、咎めてもしょうがないと思ったのか溜飲を下げた。
「ああそれと、お前達のことだから心配は無用だと思うが、よもや酒は飲んではいまいな?」
「もっちろんす!」
「てかあんな苦くてマズイもののどこがいいのか分かりません!」
「え? お前飲んだことあんの?」
「指先についたのちょこっと舐めた事あるんだよ、苦くて泣いた」
「うむ、お前達の舌はまだまだお子様というわけだな。安心した」
酷い言いようだが気にするような人はD組にはいない。
先生をこのままにして騒ぐ気もないのか羽田さんに叱られた後はそのまま解散の流れになり一ノ瀬君が先生を背負って行くことになった。
一度校内に残っているであろう坂上先生の所へ行って柳生先生をお願いする気のようだったので私もついて行こうとしたがもう時間も遅いからと黒霧に寮まで一緒に帰るように言われてしまい、私は一ノ瀬君に背負われて遠くなっていく先生の姿が見えなくなるまでただその場でずっと見送った。
* * *
「坂上先生、いますか?」
花森達と別れた後、俺は先生を背負って職員室に向かった。もう遅い時間でほとんどの場所は消灯されていたが職員室の辺りはまだ明るい。
職員室の扉を開ければ予想通り、坂上先生が残って仕事をしていた。
「……一ノ瀬君? どうしたの――」
俺が訪ねてきたことに疑問を抱いて声を上げたようだったが俺に背負われている先生を視界に入れてなんとなく理由を察したらしい。あまり変化のない坂上先生の表情が若干呆れたように歪んだが、それは『仕方がないな』という気安い気持ちだということが伝わってくる。
よっしー先生と坂上先生は長い付き合いの親友同士だと聞いていた。そんな相手に深く思っていた女性をとられたというのにそれでも二人の間の友情は揺らがないのが不思議でならなかった。
それとも坂上先生はよっしー先生の思い人を知らないんだろうか。
「ちょっとうちのバカどもが飲ませたらしくて。引き取ってもらってもいいっすか?」
「……うん、いいよ。君にも迷惑をかけたね。それにしてもなんでまたお酒なんか飲んだんだか」
俺はちょっと迷ったがどうにも坂上先生があのメールの一件を知らない気がして少し腹が立った。よっしー先生がどんなに思い苦しんでいるか、この人が知らないというのなら教えてやりたかった。
雹ノ目との件で思い知ったっていうのに俺はやっぱり後先考えるのは苦手だ。感情のままに動いてしまう自分が憎い。
「メール、来たらしいっすよ。坂上先生の彼女から」
「……スズから?」
「ウエディングドレス、どれがいいか決めかねてるからよっしー先生に決めて欲しいって」
その言葉に坂上先生は誰から見ても分かるほど驚愕に目を見開いた。そしてよっしー先生を一瞥するとこめかみを抑えて項垂れる。
「……非はこちらにあるみたいだ。本当にごめん」
「その様子だともしかして知ってるんすか?」
「……うん、もちろんだよ。というよりバレバレだったと思うんだけど……スズ以外には」
肝心の彼女には気づかれないなんてなんて不憫な。
しかしそうなると坂上先生は知っていてそれでもよっしー先生から彼女を奪ったことになる。
「坂上先生は……それで良かったんすか?」
「……どういう意味だろう」
「親友なんっすよね。なのに」
「なのに彼から彼女をとった?」
先に言われて思わず口ごもる。俺は当事者じゃないし、口を挟むべきじゃないだろうけどやっぱりどうしても気になった。いいんだ、俺お節介なの知ってるし。
坂上先生は普段と変わらぬ無表情で視線を背負われたままの親友に向けた。
「……僕は正面から勝負したつもりだったけど。気が付かなかったっていうならそれはこいつが逃げただけだよ。僕は後ろめたいことなんて何一つない。戦って、そして気持ちを伝えて受け入れてもらえた……そういうこと」
迷いなくそう言い切った坂上先生に俺は深く反省した。彼は正々堂々と挑んだのだ。親友ときちんと向き合って彼女の愛を勝ち取った。向き合えなかったのはむしろ背中で寝たふりしてるバカの方だ。
俺はよっしー先生のふくらはぎをつねってやった。体が震えたが悲鳴はあげない。
――チッ。
よっしー先生が実は起きているということを職員室に入った直後に気が付いた。だからあえてあの話にもっていこうとも思ったんだが本当に情けない人だ。
「それ、その辺に捨てておいていいよ。後で足でも引き摺って持って帰るから」
「よろしくお願いします」
ああ、なんだどうやら坂上先生も気が付いていたらしい。そしてあえてあんな言い方をしたんだろう。これは坂上先生も苦労するな。
俺は坂上先生の言う通りよっしー先生をその辺に放って職員室を退室し、暗がりの中、寮へと足を向けた。
* * *
「…………幸せにするよ」
二人っきりの静かな職員室でポツリと零れた坂上の言葉に、柳生は最後まで答えることができず彼に背負われて部屋に戻るまで寝たふりをするしかなかった。




