70 閉じた世界で(雹ノ目視点)
閉じた世界。それでもそこは僕にとって何よりも優しく、穏やかな場所だった。
優しい父と母。心を満たす煌びやかな音楽。割れんばかりの喝采。それが僕の世界。満ち足りて、傷つくことのない安寧の地。
それでもふと視界に入るのは友達と和気あいあいに遊ぶ同年代の子供達の姿。仲良く遊んでいることもあれば、急に喧嘩をして泣き出したりすることもあった。その挙動の一つ一つが僕には物珍しくて気が付けばじっとそれを見ている事すらあった。
だからか、両親はその様子を見るたびに申し訳なさそうにしていたけれど、僕はヴァイオリンが大好きだったし、両親のヴァイオリンの音も大好きだった。一緒に演奏できることが誇りで、様々なステージで奏でられる音楽と喝采は至高のひと時だったのだ。
けれど寂しさというものは知らず知らずのうちに忍び寄っているものらしく、久しぶりに行ったアルカディアの初等科クラスでは誰とも話すことができずに一人ぼっちになってしまった。
何人かに話しかけられたりはするのだが、どう答えたらいいのか分からずしどろもどろになっているうちに彼らは僕から興味がそがれてどこかへ行ってしまうのだ。
学校は苦痛だ。好きな時に好きなだけヴァイオリンを奏でることができない。授業を受けている時もヴァイオリンが弾きたくて仕方がなくて、授業を抜け出すことも多々あった。クラスの中にいるのが息苦しい。彼らは僕をどう思っているのか、そればかりが気になる。
気が付けば僕は一人で人気のない音楽室に籠ってヴァイオリンを奏でる日々が続いた。そしてまた両親に呼ばれて演奏会へと出る。アルカディアを出ると同時にほっとして、両親の手を握れば僕の居場所はここしかないのだと実感した。
一年ほどの興行を終えて再びアルカディアに戻ってきた時は監獄に入る気分だった。また憂鬱な日々が始まる。しかも今度は半年以上だ。耐えらえるかどうか僕は心底不安だった。
今日もヴァイオリンを奏でる。新しいクラスメイトと話をしようとするのは一日で諦めた。僕を観察するように遠目でひそひそされるのは気分が悪い。言いたいことがあるのなら面と向かって言ってもらった方がまだましだ。
憂鬱。とても憂鬱。ヴァイオリンを弾いている時だけがこの憂鬱な気分から僕を少しだけ救い出してくれる。
さて、今日は何の曲を弾こうか。
沢山レパートリーはあるが弾きすぎて少々飽きた。日本の民謡でも弾こうかな。最近はやりのポップスも新鮮でいいかも。
と、なんどもかんでも弾いてみた。曲は一度聞けばほぼ完ぺきな音を拾えるし、編曲して自由に弾くのも好きだ。面倒になるとメドレーにもしてしまう。
今日はなんだかやけに弾きたくて昼休みの時間が過ぎようとしていることにも気づかずに弾き続けた。
そしてようやく僕は時間が迫っていることに気が付いた。まあ、あまり授業に出たい気分でもないし、サボってしまおうかとも考えたが最近は授業に出る回数も減っているし、両親が呼び出されてしまうのも申し訳ないので僕はヴァイオリンをケースにしまい、気が重いクラスへ戻ろうと音楽室の扉を開けた。
――開けて、驚いた。扉の前で蹲っている女の子がいたのだ。
ここ第五音楽室は滅多に人が来ないほど上の階の奥まった場所にある。用事がなければ絶対に通ることのない場所だ。
僕は慌てふためいた。泣いている女の子への対応などまるで知らない。どうしたらいいのか逡巡したが、このまま黙って立ち去るのは一番いけないような気がして、勇気をふりしぼって声をかけることにした。
「……ねえ、君……えっと具合悪いの?」
ぴくりと彼女の肩が少し跳ねたがそれだけだった。顔を上げてくれないし、声も発してくれない。顔は……多分、泣き顔を見られたくないのだろう。声ももしかしたら震えているのかもしれない。
いよいよどうしたらいいのか分からなくなった。手持無沙汰になってヴァイオリンを置いてみたり扉を閉めて寄りかかってみたりしたが一向に事態は好転しない。
僕が泣いた時、両親はどうしていただろう。
あまり泣くようなことにもなったことがないので思い出すのに苦労したが、前に一度、ヴァイオリンが上手く弾けなくて練習をし過ぎて指を怪我してしまった事があった。じんわりと赤い血がにじみ出て怖くなって大泣きしたのだ。
その時は母さんが手当てをしてくれて、父さんが泣き止まない僕の頭を優しく撫でてくれたんだ。もう大丈夫だよって、痛くないからねって。
それで安心して、僕の涙はどこかへいってしまった。
それを思い出したら、自然と僕の手は彼女の頭を撫でていた。ふんわりとした温かさが手に伝わってきてなんだか落ち着かない気分になったがなぜか手を離したくなかった。ずっとこの温もりに触れていたいとすら感じてしまっている。
初めて感じる感覚にそれがなんなのか考えていると、彼女が急に顔を上げた。
涙に濡れた瞳は腫れぼったくなっていたが素朴な印象の焦げ茶の瞳はどこか僕を安心させた。目立つようなタイプの子じゃないみたいだが、僕はこういう落ち着いた印象の子の方が好きだ。
だから素直に、『可愛い子』だなと思った。
腫れた目に心配になって顔を覗き込めば、彼女は慌ててまた顔を伏せてしまった。
伏せたまま彼女は大きく首を振る。
「大――丈夫、だからっ」
うわずった声が聞こえた。再び蹲って動かなくなってしまった彼女をどうしても放っておけなくなって僕は彼女の隣に腰を降ろしていた。両親以外で離れがたい人が現れたのは久しぶりだ。
今まで感じていた憂鬱な気分も全部吹き飛んだ。
どうしてだろう、体の中が芯から熱くなっている。胸がざわついて落ち着かない。でも不快ではないなにか。
結局僕は鐘がなるまで彼女の隣で過ごした。
次の日、淡い期待を胸に音楽室へ行けば彼女がいた。穏やかな昼の日差しの中、幸せそうにお弁当を頬張っている彼女を見て、ほんわかとした優しい心地がした。
その日から僕らは一緒にお弁当を食べるようになって、お昼休みだけの特別な『友達』となった。
幸せな日々だった。満ち足りた日々だった。相変わらずクラスメイトとは上手くいかなかったけれど、僕は彼女『李ちゃん』がいてくれればそれで良かった。
灰色の世界を鮮やかに彩るように、次の昼休みを待ちわびる。それは何よりもの幸福。
壊さないように、消えないように、大事に、大事に。彼女と接した。気持ちを窺って、傷つけることのないように。
それは間違っていたのだろうか。
上手くはまっていると思っていた歯車が歪みだしたのは父さんが事故にあった時だった。意識不明の重体に陥った父さんを母さんは献身的に看病した。
子供の僕が照れるくらいの仲良し夫婦だったから、母さんの献身ぶりはこちらが心配になるくらいだった。僕も母さんの手伝いをしたかったが学校にはちゃんと行かないとダメよという母さんの言葉にしぶしぶ従った。
きっと、それが最初の間違いだったに違いない。
学校に来ていた僕だったが父さんや母さんのことが気になって気もそぞろになっていることに李ちゃんも気が付いたようだった。
心配する李ちゃんに僕は『大丈夫だよ』と笑った。こんな話をして気を使わせたらいけないと思ったのだ。彼女とはもっと楽しい時間を過ごしたい。やっと笑ってくれるようになったのだ、悲し気な表情は見たくなかった。
そしてこれが二番目の間違いになった。
僕は結局多くを間違えた。友達、友達と言ってその意味もよく分からずに寄り添って互いに崩れないように互いの領域を守り続けた。
拒絶されるのも当たり前で。一人になってしまうのも当たり前で。でも僕はその当然のことに耐えられなかった。酷く弱い自分に、自己防衛だけがご立派に働いた。
閉じ込める。暗い世界に。夢の世界に。優しい幻を瞼に映して眠りにつく。現実なんてもう見たくない。誰もいないのなら、現実なんて意味はない。父さんがいて、母さんがいて、李ちゃんがいる。この閉じた世界に僕はいたい。
「…………泣いているのか?」
どのくらいの時が過ぎ去ったのか曖昧だった。僕の時間はあの瞬間から止まっている。
はっきりしない頭で声のした方を見れば、ひとりの男が月明かりの中、窓際で座っていた。漆黒の長い髪に和装姿の幻想的な美貌を持った男だった。だが彼はその肌を半分以上黒に浸食されているうえ、頭部には獣の耳が生えていた。
人間でないのは一目で分かったがそんなことはどうでもよかった。
「寂しいのか。……君は多くを失ったんだな。僕と一緒だ」
切なげな声が響く。その声と言葉で僕にも分かった。彼もまた僕と同じ気持ちを抱えているのだと。だからか、壊れてしまった心がわずかに揺らいだ。
彼は幻の世界へ僕を連れて行ってくれると言う。優しい世界へ。
頭の中で誰かの声が木霊する。
『お前の母さん、死んだんだってな。もったいない、美人だったのに』
誰の声だったか思い出せない。よく知っているようで、まったく知らないような気もした。母さんの死は、一線を保ていた僕の精神を完全に閉ざしてしまうほどに悲しかった。もう取り戻せない。わずかな希望もついえた。無償の愛を降り注がせてくれる人はもう僕にはいないのだ。
もう、僕は誰にも愛されない。人との関わり合い方が下手くそで、誰からも見向きもされなくなるのだ。
……彼女のように離れていってしまうのだろう。
黒く優しい幻の世界へ身を投じることに僕は迷うことはなかった。
彼も優しいヒトなのだろう。僕の願いを素直に叶えてくれる。あの李ちゃんが偽物だとどこかで分かっていてそれでもこの子は僕の友達の李ちゃんだと思わないと生きていけなかった。
まどろむように穏やかな時間だった。
それをこじ開けようと必死になって僕の名を呼ぶ声が聞こえたのは、青天の霹靂だった。彼女は一体誰なのだろう。
李ちゃんと同じ黒の髪に素朴は茶の瞳。でも彼女は僕の知っている李ちゃんとは明らかに違っている部分があった。僕の友達の李ちゃんは彼女ほど行動的ではない。どこか少し身を引いて、ひっそりと静かに誰の視界にも入らないようにしていた。けれど彼女はその身を削ってでも僕の元へ来ようとする。
怖かった。触れられるのも言葉を聞くのも。
触れられたら、聞いてしまったら僕を包む優しい幻はすべて砕け散ってしまうように感じた。
闇の中で誰かが囁く。
『壊してしまえ。お前の夢を奪うものを』
体の中に何かが入り込んだのを感じた。冷たくて重くて苦しくて……それでも抗いきれない何か。僕の歪んだ夢を鮮やかにしてくれる力を僕は拒めなかった。
この力があれば彼女を退けられる。
そう、思った。なのにそれでも彼女はそれ以上の力を持って僕にぶつかってきた。
彼女が僕の元へ届けた光はとても温かく、なによりも僕は欲していたものだった。
父さんと母さんの愛情にも似た、欲しくて欲しくてたまらなかったもの。友情という名の光。彼女はその光を持って、僕を強く抱きしめた。
「ごめんね、雹ノ目君――――大好きだよ」
怖くてたまらなかったはずの抱擁と言葉は、一瞬にして僕を四年前の音楽室へと引き戻した。
ヴァイオリンを奏でる僕と、それを穏やかな表情で聞きいる李ちゃん。僕が取り戻したかった。会いたかったその人が『彼女』なんだと気が付いた。
衝動的に彼女を抱きしめ返すと彼女と目が合った。涙で濡れた茶の瞳がたまらなく愛おしく感じる。
大好きだよ。この言葉を僕は受け入れてもいいのだろうか。言ってもいいのだろうか、僕が抱えてきた彼女に伝えたかった言葉を。
僕の瞳を覗き込むように見つめる彼女を見ていたら、言ってもいいかどうかじゃなくて、心の底から伝えたくなって、気がついたら口から伝って出ていた。
「ありがとう、李ちゃん。僕も――――大好きだよ」
意識が闇の中に沈んでいく。それでもこの胸に灯った火は、もう決して消えはしないだろう。次に目を覚ました時、きっと僕は夢でも幻でもない李ちゃんに会える。
そしたらまた言うんだ。
――――僕と友達になって、と。




