60 brother 一撃
千葉刑事が作ってくれた道を突っ切り、まるで台風の目の中のように無風状態の黒霧のすぐ傍まで辿り着いた。
激昂しているからか、それとも一心不乱でまともに思考ができないからなのか黒霧から発せられる魔力……彼の場合は妖力とでも言った方がいいか、その力は瘴気にも似た禍々しさが感じられる。
迂闊に近づけばこちらの魔力が浸食されてしまいそうだ。
変質した魔力は、毒と同等の劇物となる。
その証拠に黒霧の足元からは黒い霧のようなものが立ち込め、深い緑色をしていた草木が彼の傍から真っ黒く変色し枯れ落ちていた。
「……ずいぶんと禍々しい力だな。まるで魔物じゃねぇーか」
「黒霧を魔物のように変質させてしまったのはこの里の人達ですよ。見てください、彼の顔を、私と違って肌色ではなく真っ黒でしょう?」
「あれって元からじゃないの?」
「ええ、あれは呪いなんですよ」
「呪い?」
鈴白は憎々しげに黒霧を見詰めた。彼をというよりは彼が発する禍々しい力に対しての感情だろう。
「里の人々の恐れが黒霧にとっての呪い。彼が犯した罪と彼が愛した人々のからの裏切りの象徴とでもいいましょうか。けれど、あそこまで進行していて未だに闇堕ちしていないのが不思議でたまりませんよ」
「え? 堕ちてないの? 花月さんの話だと幻狐は悪狐へと堕ちたって」
「里の伝承ですか、くだらない。そんなの里の人々の被害妄想です。彼からの報復を恐れ、黒霧が堕ちたということにして彼を封印するよう薫にすがったのです。薫も里の人々の心が恐怖に染まりすぎていた為にああいった手段をとるよりほかになかった」
黒霧を封印した振りをしたってことか。
私は黒霧の幻の中で見た大昔の里の人達の姿を思い出した。髪を振り乱しながら意味のない罪の赦しを乞うていた女性。あの光景は実際にあったことだったのかもしれない。
自分は何もしていないのに、悪いことはすべて黒霧のせいにされ、赦しを乞われる。乞われた所で何もしていないから何もできない。そして何も起こらず救われない里の人々はまだ自分達が赦されていないのだと絶望する。
なんという逃れようのない雁字搦めの構図だ。まるでメビウスの輪じゃないか。
「あんな連中放って置いて、あれは私と一緒に外へ行くべきだったんです。……黒霧は逃げて良かった。逃げても良かったんです……」
鈴白の強く握られた拳から血が滴った。
一ノ瀬君は鈴白のことを臆病者と言っていた。それはきっと彼の中でここから逃げ出したいという気持ちが強かったのだということだろう。鈴白はずっとそれをここが煩わしいからという理由で逃れていた。だけど一ノ瀬君にはっきりと指摘されたことで自分が逃げたことを認めたんだろう。
逃げた鈴白と留まった黒霧。一体どちらが正しかったのか。
「とりあえず一撃叩き込んできます」
「大丈夫なの?」
「大丈夫じゃありませんよ」
さらりと無事じゃすまないことを言ってのける鈴白に私は唖然としてしまった。てっきり大丈夫だと言われるのだと思ったから。
「痛みから逃げ続けた代償とでも思って、思い切り痛い目に合ってきます。そうすれば意固地なあれも少しは大人しくしてくれるでしょう」
「鈴白……」
「それにこれ以上もたもたしていたら一茂さんに怒られてしまいますし」
面倒臭そうに肩を竦めた鈴白に気が落ち着いた。先ほどまでのピリピリした感覚が抜けて一枚皮が剥けたように真っ直ぐに彼が視れる。
「あんまり無茶はしないように! 応急手当くらいしかできないからね」
「花森さんに手厚い看護を受けられるなら本望ですね」
心にもないことを綺麗な笑顔で言われてこっちが一発殴ってやりたかった。自分の拳をグーに固めていた所で、鈴白がふいに一ノ瀬君に向き直った。
「なんだ?」
「これを……持っていてください」
――――リィーン。
涼やかな鈴の音が鳴る。
鈴白は一ノ瀬君にあの鈴を手渡した。時折、彼から聞こえる不思議な鈴の音。そういえば黒霧の幻の中でも時折聞こえていたような……。
「鈴……?」
「もちろんただの鈴じゃありませんよ。魔よけの効果があります。私と黒霧限定の」
「なんだそりゃ」
「詳しくは知りませんがこの鈴は私と黒霧を封じ込める力があるそうです。もし私に何かあったら迷わず使ってください」
「……嫌なフラグ立てるなよ……。つーかどうやって使うんだこれ、それにこういう魔法具は俺より魔力のある花森の方が」
「君にしか使えません」
「は?」
口が半開きになった一ノ瀬君と同じ顔を私もしてしまった。どうして今まで会ったこともなかった一ノ瀬君にしか使えない鈴を鈴白が持ってるんだ。しかも限定的な効果しか持たない魔法具を。
「いざとなれば使い方はきっと分かりますよ、君なら。なにせこの鈴は―――『ユリウスの鈴』なんですから」
「…………またユリウスかよ」
ユリウスの顔も知らない一ノ瀬君は不機嫌そうに眉根を顰めた。血の繋がりがないはずの人とどこかで繋がっている一ノ瀬君。得体のしれない糸を彼は不気味なものとしか感じていないようだ。
確かにユリウスという人物が何者だったのかはっきりしないと気持ちが悪い。
なのに鈴白はやはりそれ以上何も言わなかった。
タンッと地を鳴らすと一足で黒霧の間合いに入りあっという間に私達から遠く距離をとってしまう。
一ノ瀬君は不満げだったが次に起こりうる事態を予測して身構えた。
私ももやもやした部分が消せなかったが、いつでも詠唱できるよう準備する。
迷いのない動きで軽やかに黒霧の目前にまで迫った鈴白は思い切り右腕を引き、黒霧の頬を狙って拳を繰り出した。
鈴白が殴りに来たことに驚いたような顔をした黒霧の姿が見えたと思った瞬間、破裂音にも似た音が耳朶を叩き思わず耳を塞いでしまった。
黒い霧が暴れまわるように八方に飛び回り、咄嗟に風の防御癖を築き上げる。一瞬だけなら無詠唱でも発動できる。
無事にやり過ごすことができた私と一ノ瀬君は土煙が晴れるのをじっと待つ。
黒霧の力が止まったことで無風状態だった空間に新鮮な風が吹き抜け、土煙をどんどん流していく。
晴れ始めた視界に立った状態の鈴白を見つけた時、安堵にほっと胸を撫で下ろしたが彼の右腕が見えると私の思考は凍りついた。
彼の右腕からはダラダラととめどなく血が滴り落ち、そしてなによりその腕は肘から指先まで漆黒に染まっていたのだ。
「花森!」
一ノ瀬君の叫びに我を取り戻した私は慌てて鈴白の元へと駆けた。黒霧がどうなったかまだ分からなかったがこのまま立ち尽くしているわけにもいかない。
「鈴白、腕を――」
診せて、そう言おうとして言葉が止まってしまった。
鈴白は瞳から大粒の涙が溢れて頬を濡らし、苦しそうに唇を噛みしめていたのだ。腕の痛みだけで彼が泣くだろうか。
私はそっとしゃがみ込むとポーチから薬瓶を取り出し、黒く染まった鈴白の腕に液体を流した。浄化効果のある薬だ。瘴気ではないだろうが少しは効き目があると思いたい。
それを自分の手と腕に万遍なく塗ると今度は傷薬と包帯を取り出して鈴白の腕を出来る限り処置した。
声はかけられなかった。
今はかけるときではない気がしたのだ。鈴白は痛んでいる。彼は痛みから逃げ続けていたことを後悔しているように見えた。自分も痛むべきだと黒霧を殴りに行ったのだ。
その思いを無下にすることは私にはできない。
しばらく黙っているとぽつりとつぶやくように鈴白が口を開いた。
「これほどまでの痛みをずっと抱え続けてりゃ、そりゃー根暗の引き籠りにもなるよな」
「……鈴白、口調戻ってるよ」
「うるせぇ、黙ってろガキ。いいんだよ、一茂と一ノ瀬は近くにいねぇーし、どうせ黒霧の幻でお前には知られてんだ」
いまだに涙は瞳に溜まったままだが、鈴白は黒霧の幻の中で見た大昔のように鋭い目つきで私を見下ろして来た。
でも幻の中にいた時より彼が怖くない。
「…………痛い?」
「そりゃあな。でもまぁ、お前の手当てのおかげでだいぶいい。……ありがとな」
鈴白の礼の言葉に私は目を大きく見開いてしまった。その顔に鈴白が憮然とした顔をする。
「なんだよ」
「いやぁー、本当に丸くはなってるんだなぁーと」
「絞めんぞ」
あの幻の中の鈴白だったらそう言う前に絞められてただろう。それに絞めると言った顔もまったくもって怖くなかった。実行する気がないようだ。
一ノ瀬君にした時のような狂気は感じられなかった。だからますます気になったのだ。
「一ノ瀬君みたいに?」
一ノ瀬君が丸くなったという言葉に「嘘つけ」と反論されるぐらいの行動を犯した鈴白、気分が高揚したからってああなるんだろうか。
私の質問に鈴白は深く溜息を吐いた。
「ただでさえここには来たくなかったってのに上の連中がうるせぇーし、来てみりゃ黒霧がなんかしでかしてるわ、ユリウスの臭いを持ってる奴には会うわでもう色々限界だったんだよ……」
「……それって八つ当たりって言わない?」
「八つ当たりだろ、どう見ても」
認めた。本来の鈴白って実は素直なんじゃなかろうか。それとも過去を知っている私が相手だから遠慮がないだけか。
「……さて、黒霧の奴を起こしに行くかな」
流れっぱなしだった涙を乱暴に袖で拭うと鈴白は歩き出した。私も彼の背について行く。土煙はすべて晴れ、枯れた茶色の草木の上に仰向けに倒れる黒霧の姿が見えていた。一ノ瀬君は警戒して私が鈴白の手当てを終えるまで黒霧に動きがないか見ていてくれていたようだ。
鈴白は一ノ瀬君に先ほどまでの鋭い眼差しを一転させて穏やかな笑みを見せた。
「黒霧はまだ起きませんか?」
「意識はあるんだろうが、立ち上がる気配がまったくねぇーな。というより闘争心そのものが消えた」
「殴られて一時的に心神喪失状態になっているのかもしれませんね。グーで頬を殴られたことなんてないでしょうし」
毬みたいに蹴倒したことはあったけどね。
それとはまったく違った意味合いの気持ちがこもったグーパンチはさすがに効いたのだろう。
鈴白は倒れた黒霧の元まで行くと、彼の顔を覗き込むように膝をついた。
「黒霧、起きなさい。いつまで寝ているつもりですか」
「…………」
「狸寝入りだということくらい分かってますよ。後五分とかいうのは聞きませんからね」
「…………」
「……いいですよ、喋りたくないなら黙っていなさい。勝手に喋りますから。黒霧、私は今、決めたことがあるんです」
「…………」
「私は……ここに留まろうと思います」
「――っ!?」
よほど鈴白の言葉に驚いたのだろう黒霧は突然勢いよく半身を起き上がらせた結果。
ゴチンッ!!
と互いの頭と額を打ち付けるという悲惨なことになった。
「~~~~くぅーろぉーきぃーりぃ~」
「し、白兄ぃごめんなさいっ!!」
地獄の底から湧きあがるような怒声に半身を起こした状態だった黒霧は今度はあっという間に土下座姿勢を作り上げて額を地面に擦り付けた。
咄嗟だったからか素が出てしまった黒霧は鈴白のことを白兄ぃと呼んだことに私はなんともない微笑ましさを感じてしまう。
やっぱり兄弟っていいな。
「お前は本当にどうしようもないおバカさんですね! この石頭が……」
かなりの激痛だったのか鈴白は額を抑えながら黒霧を睨みつけた。対する黒霧は震えながら土下座しているがまったく痛みを感じていないようだ。
「なぁーにコントしてんだお前ら」
「千葉刑事」
事態が収束したとみたのか、千葉刑事がいつの間にかすぐ傍まで来ていた。武装も解除しており、彼もまた微笑ましそうな笑顔で鈴白を見詰めた。
「……なんですか気持ち悪いですよ一茂さん」
「なんでもねぇーよ。それで、お前さんここに残るって?」
「聞こえてたんですか」
「俺は耳がいいんだよ。で、どういうこった」
黒霧も鈴白がここに留まると言った理由を知りたいのだろう若干鈴白から距離をとりつつ顔を上げていた。
鈴白は一度黒霧を見てから千葉刑事に向き直る。
「交代しようかと。里の人々の呪縛からどうしても黒霧が逃れられないというのなら代わりに私がここに残って呪いを受けましょう。そして……」
視線を黒霧に戻した鈴白はしっかりとその黄金の瞳に黒霧の緋色の瞳を映した。
「お前は外に行きなさい」




