57 VS 幻狐
――――頭痛いっ!
色々な感情や記憶、情景が一気に頭の中に流れ込んできて私の許容範囲はとうに超えてしまっている。宙吊りにされてぐるぐると回されているような感覚で吐き気もしてきた。
今までいた場所はやはり幻狐の幻の中だ。それも恐らく彼の意図したことではないだろう。最初に落ちたあの森の中、あそこか本当の檻だったはずだ。
けれどなぜかあの場所に『ユリウス』が現れた。導いたのは多分、彼女達のお守りだろう。なんとか檻を抜け出して……でも結局あの里はなんだったのか。
ってか考えてる場足じゃない!
ぐるんぐるんと何がどうなってるか分からない。空間が崩壊したというよりは無理やり投げ出された感じだ。
投げ出したのは、幻狐だろうけど。きっと彼は檻に私がいない事に気が付いたのだろう。放り出して安定しない場所でこのまま殺す気だろうか。少なくともあの時は私を殺す気はなかったはずだ。
どういう心境の変化なの。
「――誰かっ!」
助けをなんとか呼ぼうとも聞いているのは幻狐だけだろう。この空間は彼のものだ。魔法を使おうにもやはりこの場所に私に協力してくれる精霊の気配はない。
こんな所で、死んでたまるか!!
私が無我夢中で両手足をバタバタさせると腰に巻いたポシェットがガタガタ揺れ始めた。ポシェットの中にはお守りと薬しか入っていない。つまり動くものなどないはずだ。
なにそれこんな時にどんなホラー!?
色んな意味でパニックになっているとポシェットからシュポンと勢いよく何かが飛び出してきた。それは眩い光を放ちながら私の周りを高速で回り始める。
するとどうだろう、あれほど勢いよく回されていた私の体が安定し、空気イスに座るような体勢で止まったのだ。
「これ……は?」
よく見れば私は薄い光の幕の中にいた。ふわりと光の玉が私の前へ舞い降りて来たので自然と手を伸ばすと手のひらにお守りが落ちた。
まさか、これもお守りの力?
彼女達は一体どういうお守りを作ったのか。凄すぎるでしょう、色々。彼女達が作ったのは交通安全、無病息災、厄払い、守護結界そして……安産のお守りだったはずだ。
この光の幕のようなものは恐らく守護結界の機能が発動したものだろうと予想できるが、普通自動では発動しない。
どういう原理で動いているのか非常に気になった。帰ったらお礼と共に聞いてみよう。
そんなことを考えていると光は私と連れて行くように上へ上へと登って行く。ここへ来るとき『落とされた』感覚だったし、出口は文字通り上にあるのか。
暗闇の中を温かな光に包まれて登って行くことに安堵を覚えていたが、急に足元が冷たくなった。
冴え冴えとした冷気が足元より近づいてくる気配に慌てて視線を下に向ければ黒い手が光の幕を突き破り、私の右足首を捉える。
「――ひっ!」
氷に触れているかのように凍てつく痛みと黒い手に掴まれているという恐怖に引き攣った悲鳴を上げてしまった。黒い手の持ち主は闇の中に溶けており全貌は見えないが。
『……行かせない。行ってはダメだ』
低い男の声が底から響く。男の声は夢の中で聞いた、恐らく幻狐本人の声だ。
幻狐の黒い手はどんどん闇の中に私を引き摺りこんでいく。
「止めて! 放して幻狐! 私は出るのっ」
腰から鞭を外し、黒い手に向かって振り下ろした。鞭はしなやかに舞い、黒い手に打ち下ろされたが、黒い手は外れない。それどころか足首を掴む力が強くなった。
手ごたえはあったのに、どうして外れないの!?
痛みを感じないのか。それとも痛んでいてなお、放さないというのか。どうしてここまで幻狐は私が雹ノ目君と接触するのを阻もうとするのだろう。
『人はいつも警告を無視する。君がやろうとしていることは無意味だと何度言ったら分かってくれる』
強い声に全身が震えた。
幻狐は近い未来に起こる危険を夢で警告する妖。ということは彼も九十九君のように未来を垣間見ていることになる。私が、過去の悲劇に囚われている雹ノ目君と会うことで危険な目に合うかもしれないことは柳生先生達からも示唆されていたことだ。
でも、それでも私はここへ来ることを選んだのだ。
私は鞭を強く握りしめた。
「幻狐、私は決めているの。どんな目に合うとしても絶対に雹ノ目君ともう一度友達になるって!」
鞭が空を切り、黒い手に巻きついてその身を捕えた。ぐっともう一度、すっぽ抜けないよう握りしめ、思いっきり引っ張り上げる。
「文句があるならネチネチコソコソせずに視線を合わせなさいよ、この根暗!!」
思えばずっと、彼が現れる時はいつも人の姿を借りていて自分の姿をさらしたことはなかった。一方的な自分の感情をぶつけて否定して、相手から拒絶されると更に自分も拒絶し返してくる。
…………あれだ、引きこもりの癇癪だ。
ごく最近までの私も似たようなものだったからか、そう考え至ったらなんだかすごく腹が立った。
私のなんとか踏ん張って決意した気持ちをそんなんで潰されるのは御免こうむる。
それなりの重さだったと思うが、火事場の馬鹿力なのかそれともお守りの守護が加勢してくれたのか、黒い手を本体ごと引っ張り上げることに成功した。
光の幕の中に引きこまれた幻狐はべしゃりと私の足元で転がった。
黒い両手に漆黒の長い髪、装いは黒の着物と全身黒尽くめと言っていい。幻『狐』であるにふさわしく彼の頭には二つの獣耳がついており、ふさふさしてそうな黒い尾もあった。
シルエットはまんま鈴白である。
うつ伏せの状態なので顔までは分からない。私は自分で言ったように彼と視線を合わせて会話をする為、しゃがんで彼の顔を覗き見ようとしたが、
「――見るなっ!」
闇を纏ったような黒い両手で顔を覆い隠されてしまい見ることができない。恐ろしい魔物に遭遇してしまった幼子のように震えながら顔を伏せる幻狐に私は溜息を吐いた。
「とんだ人見知りさんね……。人の姿を借りてるときはあんなに堂々としてるのに、自分の姿だとダメなの?」
「……僕は……幻狐だ」
「…………だからなに」
今更別の何かだとは思わない。丁寧に自己紹介でもしようというのか。
「恐ろしくはないの?」
「……どちらかというと怖がってるの貴方の方じゃない」
黒い手に掴まれた時はさすがに怖かったが、こんな情けない体勢で体を震わせている男を見てもあまり怖くはない。
「幻狐は怖がられる。だから僕は人の前に現れる時は自分の姿を晒さない。なのに……」
「貴方の姿そんなに怖いとは思わないけど。ほぼ鈴白と同じだし、尻尾はふさふさしてさわり心地良さそうだし」
まだ見えない顔が凄まじい形相なのだろうか。しかしそんなことよりも私は視界の隅でちらちらと見える尻尾に自然に手がワキワキしてしまう。いけない、触りたい衝動が……。
「鈴白……彼はいいよね、綺麗で」
やはり顔がアレなのか。
「あの顔はずるいから羨ましがったら負けだと思う」
「ずるい?」
「色々非人道的なことしてそうだけどいい人に見えてしまう錯覚。えーっとなんだけ、そうそう『ただし、イケメンに限る』っていう理不尽な感じ? 私は顔より性格を尊重したいわ」
これは私の足ばかり見て鼻血を吹き出す七瀬君を見た時に強く思ったことだ。顔はいいのに残念なイケメン。
「……君の言っていることがよく分からない」
「つまり、貴方の顔がどういう容姿でも恐ろしくはないってこと」
「…………僕は君の首を絞めた」
「ああ、そうねあれは苦しかったわ」
「僕は君を闇の底に閉じ込めた」
「…………泣いたわね、さすがにあれは」
「なのに……怖くはない?」
「正直、物理的には怖い。一対一で戦っても勝てる気がしないもの。だけどそうやって縮こまって目も合わせられないような奴なんか怖がりたくもないわよ」
こちらがどんどん情けなくなるだけだ。
「恐怖に囚われ続けるのは止めたの。その先に本当に欲しい物があるって知ってしまったから」
一ノ瀬君が教えてくれた。背中を押してくれた。私の中には彼がくれた温かな炎の明かりがある。だから迷わずにこうして誰かと面と向かって言葉が言えるのだ。
幻狐は私と似ている。いや、私以上に他人との接触を恐れている怖がりだ。
彼には私が貰ったように、誰かの温かな明かりが必要なのだと思った。
「幻狐、一度ちゃんと私と話そう。貴方がどうしてそこまで私と雹ノ目君の接触を止めようとするのか」
「…………言ったところで君、絶対に聞かないくせに」
「え……まぁ、そうね」
なにを言われても雹ノ目君に会うことは諦めないと思う。決めたことを貫き通したいし、なによりここまで来るのに色んな人に迷惑をかけている。
「……でも、君が僕を恐れないというのなら」
幻狐はそっとその黒い両手を顔から外して光の幕に触れ、上体を起こした。その動きはとても遅く、何度も躊躇していたが私は何も言わずにじっと待った。
そして長い時間をかけて顔を上げた彼としゃがみ込んだ私の視線がようやく交差する。
綺麗な緋色の瞳。
目が合った瞬間、私はそう思った。だが綺麗ではあるのだけど、どこかとても暗い色に彩られている。
顔の半分以上は黒に染められておりわずかに左頬の辺りだけは白に近い肌色をしていた。
けど、見るなとか怖くないのかとか散々言っていた癖にこの顔は。
「鈴白と同じじゃない!」
そう、彼の顔は鈴白と瓜二つの顔をしていたのだ。
なにが鈴白は綺麗でいいよね。だ、まったくもってよくそんなことが言えたものだ。
「けど、僕は白くない」
「美白じゃなくても造形さえ整ってれば色黒でもいいのよ!」
なんだか勢いで彼の頭を叩いてしまった。
叩かれた幻狐は緋色の瞳を大きく見開いて唖然と、
「……叩かれた」
と呟いたので、なんだ『親父にも叩かれたことないのに』とかいうネタでも続くのかと思ったがそうでもなかった。
ボロボロと大粒の涙を零して頬を濡らし始めてしまったので私はギョッとした。
「な、なんで泣くのよ!? 痛くなかったでしょ別に!」
そんな剛腕でもない私に少し叩かれたくらいで泣くとは、どんだけメンタル弱いんだ。もうちょっと強く生きて欲しい。
「ち、違う……痛くない。ただ……こんなに気楽に誰かに触れられたのは久しぶりで」
嗚咽交じりになるほど泣きじゃくる幻狐に、なんだか子供を泣かせてしまったかのような罪悪感を覚えて私はそっとハンカチで彼の涙を拭ってやった。
彼は驚いてビクリと体を震わせていたが構わず次から次へと溢れる雫を拭ってやる。
しばらくは身を固くしていた幻狐だったが、いつの間にか彼は私に構わず泣くだけ泣いた。
ハンカチはぐしゃぐしゃになってしまったが、そんなことは構わない。
私は彼の涙を拭いながら、ふと里で見た夢を思い出していた。
黒い少年と、白い少年。
あれはきっと幻狐と鈴白だったに違いない。
なにが『性悪』だ。そうさせたのは多分、鈴白と……幻狐の里の人々だ。
――――リィン。
鈴の音が聞こえる。澄んだあの音が。
幻狐の涙が止まった。立ち上がった彼は鈴白と同じくとても背が高い。私も一緒に立ち上がった。見上げれば彼はさっきまで子供のように震えたり泣いたりしていたとは思えないほど険しい瞳で闇の先を見詰めていた。
――――リィン。
闇の中で、ただ一つ真っ白なその妖の手には鈴が握られていた。
真っ白な手の鈴白は、にっこりとユリウスさんと同じように柔らかく微笑んで見せた。
「花森さんを返してもらいますよ――――黒霧」




