50 phantom 幻狐の里3
「ま、待って!!」
人混みを掻き分けて、私は兄妹を追った。
しかしどれだけ走っても彼らに追いつけない。人に邪魔されているのもあるが篝火が焚かれていても視界はあまりよくない。
このままでは見失ってしまうと、私は咄嗟に声を上げていた。
私の必死の声に気が付いたのかお兄さんの方が足を止めてこちらへ振り返ってくれた。たたらを踏みながらも私は二人の前へ出る。
お兄さんと目が合った。近くで見るとまた格段に美しい人だと分かる。女性と見紛うほど線の細い少年だったが衣装が男性ものだったので『お兄さん』で間違いはないだろう。
「……僕達に何か用ですか?」
――――リーン。
どこかで鈴の音が聞こえた。
なぜだか動悸が速くなる。この声をずっと聞きたかった、すぐ傍で目の前で、触れられる距離で。
どうしてだろう、初めて会う人のはずなのに。
「……あの……大丈夫?」
少年は少々驚いた顔をしながら、すっと一枚の折りたたまれた綺麗な白い布を差し出して来た。なんだろうと思ったが、ボタボタと雫が頬を伝って顎から零れた事に気が付いて慌てて手で擦る。
「え? あれ?」
涙が溢れて止まらない。
この胸のちくりと刺さるような痛みはなんだろう。悲しいのか、嬉しいのか、怖いのか、切ないのか、まるで自分の感情が分からない。
どうしようもないまま目を擦っていると、少年が私の手を優しく掴んで目から離した。そしてそっと布で涙をぬぐってくれる。
「…………悲しいことでもあった?」
「!!」
――――――――『…………悲しいことでもあった?』
音色が聞こえる。優しい音色が。
私の好きだった『彼』の音色。もう一度聞きたい、その為に私は…………。
「私は……貴方を……」
自然と動いた。私の指先は彼の頬へ伸ばされる。
けれど――――彼は一歩身を引いた。私の指はからまわって何も触れることができなかった。
その行動に酷く胸が痛んだ。
「雹ノ目君、知り合い?」
少女の声が聞こえてハッと私は慌てて手を引っ込めた。何してんだ私。
彼と手を繋いでいる少女が怪訝な表情で私と彼を交互に見ていた。
「知らない……人だよ……李ちゃん」
「そう……」
『知らない人』。確かにそうだ、私にとっても彼は知らない人。
なのにどうして知らないと言われたことがこんなにも衝撃的なのだろう。それに『李ちゃん』ってどうしてこの子に言うの。
じわりと何かが私の内からにじみ出るようにして広がってくる。
睨みつけるようにして見てしまった李ちゃんと呼ばれた少女も私をじっと見ていた。私と目が合うとぷいっと顔を反らす。至って普通のどこにでもいるようなあどけない顔の少女だが、その瞳は背筋がぞっとするほど冷たい。
どうやら彼女もまた私が気にくわないようだった。
顔が似ていないと思ったが名前で呼び合っている所をみると兄妹というわけではなさそうだ。
……どういう仲なんだろう。
「行こう、雹ノ目君」
「え……でも」
「この人、変なお姉さんよ。きっと雹ノ目君が綺麗だから声をかけたんだわ。もう危ない目に合いたくないでしょう?」
ふ、不審者に間違えられている!?
確かに見ず知らずの人間に声をかけられて不審に思わない人もいないだろうが、誤解である。彼に何かしようとか考えていたわけじゃない。
思わず手は出ちゃったけど。
李ちゃんはぐいぐいと雹ノ目君と呼んだ少年の手を強く引いて人混みの中に紛れていく。彼は何か言いたそうに私を見ていたが彼女には逆らえないのか憂えた瞳を一度、私に投げかけ、そして消えていった。
ああ、見失ってはいけなかったのに。
とどめておかなくてはいけなかったのに、どうしても動けなかった。
『君は、彼を捕まえられない』
――――リーン。
鈴の音が響く、頭の中で、胸の奥で、静かに鳴り響く。
いつの間にか祭りの喧騒も人混みも篝火の明かりもなくなって、一面の闇が私の立つ空間を覆い尽くしていた。
パキリ、パキリと鈴の音の他に何かが壊れていく音も聞こえた。
『意味なんてないのに』
誰かの声がすぐ傍で聞こえた。けれど闇が濃くて人の姿は目視できない。
『会えたとしても無意味。話なんて無意味』
闇をすり抜けるように一つの固まりが現れた。それはどんどん形を成していき、少女の姿が現れる。
『李ちゃん』だった。
漆黒の長い髪に冷淡な瞳。アルカディア初等科の女子制服を纏って、静かに佇んでいる。そうだ、本来はこの姿、この服装のはずだった。
私もこんなボロい和装ではなく、アルカディア高等科の女子制服、ブレザーを着ているはずである。
「…………ここは、どこなの『李ちゃん』」
腹に力を込めて言った。私は、いや私達は騙されている。いつからか頭がまだぼうっとしていてはっきりとは分からないが、あれは私達の世界ではなかった。
パキリ、パキリと壊れゆく音が大きくなっていく。それに伴って私の意識もはっきりとしてくる。
『意外だね、君みたいな弱虫はずっと僕の幻の中で眠ってくれると思っていたのに』
初等科五年の時の『私の姿』をした彼は至極面倒臭そうに言った。
その瞬間、硝子が割れた時のような激しい破裂音が響き、闇の空間は一瞬にして真っ白な世界となった。
これは、霧だ。
「貴方、幻狐ね?」
「…………そうだよ」
「どうして昔の私の姿をしてるの、どうしてここに引き込んだりしたのよ。一ノ瀬君達は無事なんでしょうね」
「質問が多いなぁ……君と一緒にいた奴らは君が気づいたことで元の場所に戻ってるはずだよ。ここに引き込んだのは、君をずっとここに閉じ込めるつもりだったから」
その言葉に私はぎっと彼を睨みつけた。
「……私は雹ノ目君に会いに行くの」
『無意味だと言ってるでしょう。……君が会ったのは『本物』だよ」
「えっ!?」
「僕の優しい幻の中で眠ってる本物の雹ノ目朔良さ」
「じゃあ、じゃあ雹ノ目君はここにいるのね!?」
「いるよ……けど、もう会わせない。気が付いてしまった君を会わせるわけにはいかない」
そう言うと思った。
私は腰に吊ってあった鞭を掴んだ。良かった、武装は解かれていない。
幻狐は私が鞭を構えても気にもせず静かに続ける。
「……僕は一つ賭けをした。けど彼は賭けに負けてしまったんだ。だからもう僕は迷わない」
「……なにを言ってるの?」
「無意味だと証明した。彼は君を思い出さず、そして僕を『李ちゃん』と呼んだ。それが答えだった」
彼の言っている意味が分からない。問いただそうとしたが霧が途端に濃くなり昔の私の姿をしたままの彼が霞んで見えなくなっていく。
その前に捉えようと鞭を振るったが手ごたえはなかった。
幻だったのかもしれない。
『君はここから絶対に出さない。落ちろ、ずっとずっと下まで落ちて二度と……上がって来るな』
腹の底に響くような低い声で幻狐が言い捨てると、霞むように地がなくなり支えを失った私の体は簡単に下へと落ちていく。このまま落ちたらもう上がって来れない。二度と誰にも、一ノ瀬君にもD組の皆にも、そして雹ノ目君にも会えなくなってしまう。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!!!!」
喉が擦り切れるくらい叫んでも、ただ虚しく白い幻影に消えていくだけだった。




