25 Hope 一ノ瀬 勝11
『終わった!!』
成績、ビリからワンツーフィニッシュ順位の二人が同時に問題をクリアできたのは、木塚君の説教と並行して一時間後のことだった。
観客の生徒も先生方も若干飽きている。
観客の生徒は時間が経つごとに増えていっていた。三位以降の一年生の生徒達だろう。数が若干増したのでそれなりに賑わっている。
「長い……長い戦いだった。まったく手間取らせてくれる」
「…………一気に体力持ってかれた」
私と木塚君はぐったりとしていたが、問題が解けてすっきりした一ノ瀬君と七瀬君は元気だ。問題を解いている間は死んだ魚みたいな目をしていたのに。
「じゃ、再スタートだな!」
「まあ、一ノ瀬君の足じゃ俺には追いつけないだろうけどぉー」
男子には甘くない七瀬君に一ノ瀬君はギリッと睨んだが、何も言わなかった。その通りだから反論の余地はない。
木塚君はコースを外れるように足を外側に向けた。
「後は高台の障害物と直線上に走るコースのみだ。お前達が七瀬に追いつけるとは思えないが、七瀬……ここまで来て負けるんじゃないぞ」
「はいはい」
きっちり七瀬君に釘を刺し、歩き出した。どうやらゴール付近へ向かうようだ。釘は刺しつつも最後の最後で何か仕掛けるつもりなのかもしれない。
さすがに用意周到だ。
「スタートは同時でいいな」
「いいよ」
火花を散らす男子二人は楽しそうだ。一ノ瀬君なんか、ほとんど勝てる見込みはないのにワクワクと勝負を楽しみにしている子供のような顔をしている。
男の子ってよく分からない。
よーい、ドン!
と、二人で言うと同時に走り出す。相変わらず綺麗なフォームで走る七瀬君に一ノ瀬君は負けじと追いすがる。ライバルが近くにいると俄然燃えるようだ。
七瀬君が惹き寄せる風と、一ノ瀬君が惹き寄せる炎が合わさって熱風が逆巻く。
私の周囲は、相変わらず静かだ。
不安になって詠唱すれば、風の力『ヴェントゥス』は応えてくれる。応えてくれるけれど、それだけだ。
命令には従うけれど、命令しないのであれば従わない。
魔力を与えて従える。それだけの持ちつ持たれつの関係性。まるで、私と人との距離と同じよう。
キリキリと体の内側が痛む。どこが痛いのか気づきたくない。気づいてしまったら、その痛みに耐えきれなくなりそうだった。
二人の競争は、いくら火の魔法元素に愛されようと実力差を埋めるにはいたらず、どんどん一ノ瀬君は引き離されていく。
ほどなくして最後の障害物、高台が目の前に現れた。絶壁の崖のようにそびえ立つ壁には凹凸が一つもなく、高さはおよそ五メートルほど。文字通り飛ばなければ上に上がれない。
地属性である七瀬君は、足場の土を利用し土台を作るが彼の高い背でも後一歩届かない。七瀬君もここに来るまでに防御魔法を多用したようだし、魔力はさほど残っていなかったのだろう。土台をこれ以上高くすることができずに悪戦苦闘していた。
「花森、行けるか!?」
「残り魔力少ないけど、なんとか……」
風の魔法を使えば飛び上がることができるが、二人分の重さを飛ばせるほどの魔力が残っているかというとギリギリだ。それに一ノ瀬君はガタイがいいから見た目より筋肉分重そうだ。
「そんなに高く飛ばせないかもしれないから、私が合図したら全力でジャンプして。できるだけ高く」
「了解!」
壁の前に立つと、私は精神を集中させた。残り少ない私の魔力に従う風の魔法元素は少ない。それにすぐ隣にいる七瀬君に風が気を向けている感じがした。私の方になかなか流れてこないのだ。
風の精霊は元々浮気性であるが、風属性の私より反属性である七瀬君の方へ行っていることに腹が立った。
従え、従え。私の中の風の魔力に、従って。
力強く引っ張れば、薄いながらも風の力が集い始めた。そうよ、もっと集まって、二人分の体重を支えられるくらいの風を!
私の残り少ない魔力を風の魔法元素は容赦なく奪い去っていく。だが、それと同時に強い風が私の周りに巻き起こった。
「一ノ瀬君!」
「いつでもいいぜ!」
掛け声と共に私達はまず自力でジャンプし、それに合わせて私は風を足元に滑り込ませ上昇気流を作り出した。
気流に乗った体はふわりと宙を浮く。成功だ、これならなんとか上まで……。そうほっと胸を撫で下ろした時だった。急に猛烈な違和感を感じ、下に視線を向けた。
七瀬君が屈んでいる。登れないと諦めたのか。
いいや、そうじゃない。彼の少なかったはずの魔力がどんどん上がっていく。張りつめた空気を肌が感じで鳥肌が立った。
「――飛べぇっ!」
その叫びがすべてを奪い去った。
私に従っていた風が、七瀬君の元に集ったのだ。一瞬にして無風となり、支えを失った私達は地面へ向けて落ち始める。
落ちる中、私は風と共に上に上る七瀬君を見た。まっすぐに上だけを見る彼は、必死な表情で、対して私は今、どんな顔をしているのだろう。
嗚呼、と今になって私はようやく認めた。
『私は風に愛されていないのだ』……と。こうして簡単に見放されてしまうのだと。
魔法は私の人間としての普通の幸せを奪い去った。もう、私は魔法使いとして生きていくしかなくなったのに、共に生きていくはずの風にすらそっぽを向かれる。
どんどん、落ちていく。このままの態勢で落ちれば背中を強かに打って怪我をするかもしれない。一ノ瀬君も巻き込んでしまった。風にすら見放されるようなパートナーだったから、怪我をさせてしまう。
ごめんなさい。ごめんなさい……。
痛みを受け入れる為、目を固く閉じた。何も答えない風が私の髪を揺らす。
冷たい。凍えるくらいに冷たい。
無意識に手を伸ばした。冷たい風に乗って、温かい熱がそこにはあった。気が付けば、私の左手は一ノ瀬君に握られていた。
「――行け、花森!」
腕を引き寄せられ、私の体は一ノ瀬君の腕の中に納まったかと思うと、思いっきり背中を押され、再び上空に舞い上がった。
武装魔法で腕の筋力を補強し、私を上空に押し上げたのだ。
慌てて上体を立て直し、身を捻って高台の上に背中から滑り込むようにして着地した。次いで鈍い音が下から聞こえ、背中が痛むのを我慢して、這うように進むと私は高台から下を見た。
一ノ瀬君が仰向けで倒れている。
「い、一ノ瀬君! 一ノ瀬君っ!」
「…………んな、泣きそうな声出すなよ。勝負はまだ終わってないんだぜ」
「バカ言わないで! 体は、怪我は!?」
「痛ぇーけど、骨は折れてない。着地失敗しちまって打撲はしたかもなー……」
なにをそんな呑気に話しているの。打撲だって立派な怪我じゃないか。どうして笑いながらそんな風に言えるの。
「……どうして助けたの。私を押し上げたりなんかしなければ着地だって一ノ瀬君だったら失敗しなかった。怪我……しなかったかもしれないのに」
声が震える。その震えは、怒りか、力不足と過失による罪の意識によるものか、感情がぐちゃぐちゃにかき回されて判断できない。
「はぁー……なに言ってんだか。お前を助ける以外にどんな選択網がある。俺なら別に頑丈だからどうってこたねぇーけど。お前が怪我したら大事だろ」
「――わ、私が! 私のせいでこうなったんだよ!? 怪我をするのは私で良かったの!」
「良くない!」
「いいの!」
「いくない!」
「――頑固者っ」
「頑固者で結構っ」
はぁ、はぁと肩で息をするほど感情的に怒鳴ってしまった。
こんな台詞の押し問答、前にもやった気がする。
彼と初めて出会った時に。あれからまだ一週間しかたっていないのに、私のこの五年の間で一番長く傍にいた人物だった。
勝利にやたら固執し、小さな子供の用に無邪気で頑固者。
『俺の辞書に、諦めるって文字はない!』そう言って朗らかに笑った顔が、鮮明に思い出せる。
私はいつでも彼に対して、呆れと怒りのどちらかを感じていた。言葉を交わせば言い合いになることも多かった。諦めた者と諦めない者の両者は相容れない。
それでも彼は最後にはこう言うのだ。
『お前がいて、よかった』……と。
「は……花……ちゃん、大丈夫?」
気まずそうに七瀬君が窺ってきた。わざとではないことは分かっている。あのまっすぐな目はただ、前に進みたいと思っていただけの目だ。私から風を奪おうと思っていたわけじゃない。
「大丈夫。いいの、先に行って」
突き放すような冷たい言い方になってしまったが、彼に気を配る心の余裕はなかった。七瀬君は躊躇しながらも、先へと走り出す。
私はじっと座り込んだまま動けなかった。
「……行ってくれねぇーのか、先に」
「……無理だよ。私の足じゃ追いつけない」
「…………俺さ、花森のこと、正直あんま信用してない」
「そうでしょうね」
協力するという言葉とは裏腹に、どちらもお互いに信じてなかった。
「だいたい、諦めきった顔してるやつのどこ信じろってんだ」
「……なんだ、一ノ瀬君でもそういう風に思うんだね」
明るくて人当たりが良くて面倒見もいい。だから人をあまり悪く言う印象がなかったけど、彼は時々、私に対して冷たいこともあった。
ただ、無条件に優しいだけの人じゃない。
「でもさ、やっぱどうしても信じたくなるんだ。……俺、今までずっと一人で戦ってきたから。空手の試合は一対一、応援はあっても戦うのは俺一人だ。勝利の喜びも一人で味わってきた。それはそれで最高に気分がいい。けどお前にあって、ペアになって……二人での勝利ってどんなもんだろうって考えた。二人で戦うってどんな感じなんだろうってワクワクした。一人じゃないのが嬉しかった」
だから、私の諦めた顔を見た時、たまらなく悲しかったんだ。信じたいのに信じさせない私の態度は、彼を傷つけた。
「本当はお前を抱えて落ちればうまく着地できたんだ。けど、そうしなかった。お前を押し上げたのは無意識だったんだ……俺はやっぱりお前に先に行って欲しかった。お前なら勝つ可能性があるって、信じたかった。一緒に行きたかった」
心の底から熱がせり上がってくる。奥の奥にしまい込んだ場所から、押し込めきれずに溢れ出してくる。
一ノ瀬君に押された背中が熱い。この熱が私の中で凍えていた熱を呼び覚ますかのように広がっていく。
「走らないか、花森。俺自身は一緒に行けねぇーけど……俺が渡した炎はお前と一緒だ」
この熱は、一ノ瀬君が私に託した情熱の火。勝負に勝とうとする熱い闘志。
それと溶け合うように導かれる私のうちの熱は、きっと昔に閉じ込めた私自身の情熱と闘志だ。
こんなに熱いものだったろうか。自分の中にまだこの熱さが残っていたことに私は驚いた。どんどん、どんどん、昏く冷えていた感情が溶かされていく。
いつの間にか私は痛みを忘れて立ち上がっていた。
…………足が震えていない。
風はまだ戻ってこないけど、私は走れるような気がした。
いつもなら沸き起こる恐怖が、心臓の手前で止まっている。一ノ瀬君の炎が私を私自身の弱さから守ってくれる。
もう、走れない。
そう決めつけて何もしなかった。恐怖に打ち勝つ努力もしないで諦めに逃げ続けた。けど結局私は、走ることを止められないんだ。
七瀬君の走りを見て、心を揺さぶられたのも。彼に風を奪われて怒りを覚えたのも、そのせいなのだ。
逃げ続ける日々は楽だった。だけどその分、悲しかった。
気が付いたらもう戻れない。あふれ出る熱情を止められない。
走りたい。走りたい。
走って、一ノ瀬君と一緒に二人で勝ちたい。
気が付けば、私はもう走り出していた。
――――一緒なら、私はきっと自分の弱さと向き合える。




