24 Hope 一ノ瀬 勝10
木塚君はどんどんコースを外れていく。
生徒達のざわめきが広がる中、木塚君はようやく一番初めの障害物が設置されている場所の手前まで来ると、右手を前に出し何やら詠唱しているようだった。
最初の障害物は張り巡らされた網を潜っていくものである。その網が木塚君の光の魔力に照らされ瞬くと、溶けるように消えていった。
もしかして、網になにか仕掛けたのだろうか。しかし妨害が許可されているとはいえ、走らないで妨害するのはありなの?
『あり! だけど走ってねぇーから木塚はゴールできないからな!』
私の疑問に答えるように柳生先生が言った。私の心の声が聞こえるわけがないので、傍にいた生徒達の質問に答えただけだろう。
木塚君は自分が走るのは無駄と見て、徹底的に妨害をする側に回ったようだ。それだったら私も走らずに妨害に専念を……と考えがよぎったところで、その考えは改めなくてはならないことを知る。
前方で網の下に潜ったままうつ伏せで倒れている一ノ瀬君が見えた。
……彼、なにも考えないで網の下に突入したらしい。見えてたよね、木塚君が網になにか魔法を仕掛けたのをちゃんと見てたよね。
七瀬君は網に引っ掛かることなく通過したようだ。仲間だし、彼には効かないようにしていたのか、防御魔法を使ったのかどちらかだろう。
引き離されていたはずの一ノ瀬君に追いついてしまった私は網を潜る前に、一ノ瀬君を観察した。
うつ伏せになったまま動かないが、健やかな寝息が聞こえてくる。どうやら眠らされただけのようだ。
「網に太陽の元で干した後に敷いた布団で寝るような癒し効果をもたらす魔法をかけた」
それはそうとう気持ちいいだろう。体力が尽きかけていた一ノ瀬君にしてみれば抗いがたい罠だ。
わざわざ私に説明をした後、私と目を合わせることなく木塚君は先へと行ってしまう。またなにか仕掛けるつもりなんだろうか。
それにしても効果を言ってしまうなんて、これも罠?
恐る恐る網に手をかける。網とは思えないふんわりとした手触りで、仄かに温かみが感じられる。干したての布団を触っているかのような感触だ。
睡魔に襲われそうになり、慌てて私は網から手を放して頬を叩いた。
木塚君が魔法をかけたのは、たぶん網にだけ。なら網に触れずに通れれば、罠に引っかからずに進めるはずだ。
残りの魔力も少ない、慎重に無駄に魔力を出しすぎないように注意を払いながら風をおこして網を浮かせた。
一ノ瀬君をこのまま放置しておくわけにもいかないので、彼を仰向けに転がすと、頬を容赦なく往復ビンタしてやった。
呻いたので起きたかと思えば、
「……おふくろー、後五分寝かせて」
誰が、おふくろか。
一ノ瀬君は高等科からなので、つい最近までお母さんに起こされていたんだろうな。と少々羨ましく思いながらも、もう一度往復ビンタ。
「~~痛てぇ……親父かぁ?」
おふくろさんに間違えられるより心外だ。
えい、デコピンをくらえ。
「…………違ぇ、親父はこんな手ぬるくない。骨が折れるまで容赦しねぇー鬼だ……」
そんなおっそろしい父親なのか。実家が道場だと言っていたし、父親が師範なのかもしれない。
寝ぼけて虚ろだった一ノ瀬君の眼が徐々に焦点を合わせて、しっかりと私と視線を合わせた。驚いたように目を瞬かせる。
「……花……森?」
「ええ、花森よ。ちなみに一ノ瀬君のおふくろさんでも親父さんでもないから」
「――!!」
みるみる顔が真っ赤になってしまった一ノ瀬君は、せっかく仰向けに転がしたというのに反転してうつ伏せに戻ってしまった。
「忘れてくれ、今すぐに!!」
「はいはい、恥ずかしがるものいいけど一ノ瀬君、木塚君の罠にはまってだいぶ遅れちゃってるよ?」
そこでようやく自分が木塚君の罠にはまったのだと気が付いたのか、慌てて身を起こそうとした彼を私は容赦なく頭を叩いて阻止した。
「アホっ、網に触れたらまた寝ちゃうわよ!」
「網……やっぱ、あいつ網になんかしたのか」
「分かってて何もせずに潜った一ノ瀬君の神経を疑うけど」
「あーいやー……気合でなんとかなるかなーっと」
「…………」
「すいません、なんとかなりませんでした」
呆れ果てて溜息が出たが、実際一ノ瀬君にはなんとかできるような魔法の技術は乏しいし、魔力もほぼ尽きている。根性で行くしかなかったのかもしれないが、私を待つという選択網もあるにはあった。
……あったが、私を待つ気にはなれなかったようだ。
「とりあえず、網に触れないようにここを通るよ。……七瀬君にはもう追いつけないかもしれないけど」
「うぅ……あいつすげー早ぇーんだよな。これでも足は速い方だと思ってたんだが、あれは相当走り込んでんな」
「……うん、毎日走ってないとあの走り方も、風の呼び寄せ方もできない」
目を開けていても鮮明に思い出せる。焦がれる様な彼の走りを。
どうしてこんなに胸がざわめくんだろう。もう、全部諦めたのに。恐怖に負けて、立ち上がることすら嫌になってしまったのに。
未練がましい。
「……なあ、お前あいつより……速いか?」
「は?」
なにを聞くんだ。そんなの七瀬君の方が速いに決まってる。
「手抜きじゃなく、本気で走って……だ」
その言葉に私は驚きに目を見張った。
どうして、なぜ知っている。私がいつも手を抜いていること。計測テストでもうまく全力のふりをして走れていたと思ったのに。
数値上では、私の速さは並みとなっている。
「実はよっしー先生からお前の昔の……ここに来る前のデータをちょっとな」
ここに来る前。魔法使いに覚醒する前の私のデータ。
ただひたすら走るのが大好きだったあの頃の……。
私はぐっと拳を握った。
「……確かに昔はよく走ってたから少しは速かったかもしれない。けどここに来てからは勉強ばかりで走ってないから遅いよ。計測の結果が私の今」
全力で走れない、震える足では走れないのだ。だからどちらにせよ、私の速さは計測テストで出た結果と同じ。
「…………そうか、しょうがねぇーな。とにかく走るぞ! どっかで引っかかってるかもしれねぇーしな!」
諦めを知らない一ノ瀬君は、七瀬君がゴールする直前まで勝利の為に全力で走るんだろう。
網を抜け、再び自由に走れるようになった一ノ瀬君の背を見詰めた。失われたはずの火の魔力の熱が頬に伝わる。これは彼の魔力が操っているのではない。周囲に漂っている火の魔法元素が彼に惹かれて力を貸しているのだ。
魔法元素はどこにでも存在する。目に見えないだけで、常に私達は魔法と共にあるのだ。ただ漂っているだけの魔法元素は何かに影響を与えるほど強くない。だから私達魔法使いは自分の中で覚醒した魔力を使い魔法元素を集め、操ることで強力な魔法とする。
火属性の人は、火の魔法元素に特別愛されるから火属性。他の属性も同じ、愛されているから力を集められる。操れる。
魔法元素は小さな小さな精霊の集まりだ。精霊は生命体。誰かを気に入ったり嫌ったりする生き物である。
燃えるような熱い一ノ瀬君の闘志に、火の魔法元素が惹かれているのだと思った。
私はふと自分の足元を見た。言う事をきかない震えた足、まどろっこしい速さ。
風が吹かない。走っているのに、私の周囲は静かだ。
私は本当に風に愛されている?
「――森、おい――花森!」
「!!」
「なにボーっとしてんだ、転ぶぞ!」
いつの間にか並走していた一ノ瀬君に後頭部を小突かれた。風を感じようとして意識が明後日の方にいっていたようだ。
「……なあ、花森――あそこになにが見える?」
意識を目の前のものにしっかりと戻すと、先の方を凝視した一ノ瀬君が不思議そうに……とういより若干呆れたように言った。
怪訝に思いながら私も先の方へと視線を移すと。
「…………煮干し?」
「花森にもそう見えるか? なんであんなとこにあんだろうな」
煮干しといえば木塚君。
木塚君といえば煮干し。十中八九彼の仕業だろうと思うが。
「…………罠……のつもりなのかな」
「だろうな……」
皿の上に山のように盛られた煮干し。手前に見えにくいが糸のようなものがある。煮干しに吊られてやって来た人を転ばせる罠。
「あんなのに引っかかるのは、食いしん坊な猫か木塚君ぐらいだと」
「いやー二重の罠とか考えられるんじゃねぇー? さすがにアレだけじゃねぇーだろ」
普通ならそう考える。私だってこんな誰も引っかからないような罠を張ったら二重の罠を考えるものだ。
しかし、仕掛けた人は木塚君である。彼とは初等科五年の一年間しか知らないがその一年で彼がどれだけ煮干しに傾倒しているかは知っている。
煮干しが絡むと、彼は頭いいんだか悪いんだか分からないことをやらかすことがあった。
「……普通に避けて行こう。たぶん、これだけだと思う」
「そ、そうか……」
一応警戒しながら進んだが、やはり二重の罠などなかった。
それからの罠はそれなりに引っかかったら動けなくなる、いや動きたくなくなる類の物が続いた。木塚君の能力は回復系だから、リラックス効果を生む魔法が多いのだろう。
魅惑の癒しの罠を掻い潜りながら、紐にぶら下がったパンを食べたり(なんでパン食い競争が混じってるんだ)、振り子が突撃してくるエリアを匍匐前進で進んだり、平均台の上を歩いたり、高い台へ飛び乗ったりと障害物をクリアしていく。
しかし七瀬君の姿はまだ見えない。多くの障害物によって遮蔽され現在どの地点を走っているのか分からないのだ。
柳生先生の実況アナウンスを聞くに、彼は軽々とこれらを越えていってしまったようだ。足も速いが全体的な運動能力も高い。
一ノ瀬君は残し少ない体力が更に削れてきたのか、ずっと私の隣を走っている。息も上がり相当辛そうだが、絶対に棄権などしないだろう。
優勝の可能性は限りなく低いが、彼が諦める可能性はもっと低いのだから。
このまま七瀬君の独走状態で終了すると思われた障害物競争だったが、事が動いたのはゴールまであと一息といった地点。
私と一ノ瀬君は机に向かって止まっている七瀬君を視界に捉えた。
障害物競争に、どうして机とイスが用意されているんだろう。
どうして七瀬君は木塚君に怒られながら机に齧りつくようにしてシャーペンを走らせているのか。
『ここは学校だぜ? 知も立派な障害になるに決まってるだろ!』
辿り着いて柳生先生が言っていた言葉を理解した。七瀬君が必死に取り組んでいたのは問題用紙だったのだ。
一ノ瀬君が、ふらりとよろめいた。
「ま・た・かっ!」
「……でもこれのおかげで追いつけたみたいだし」
ちらりと横を見れば木塚君に怒鳴られながら問題を解いている七瀬君が見える。半分涙目だ。一ノ瀬君と同じ、運動はできても勉強はできないタイプだ。
同じクラスだった時も女子の力を借りて課題をクリアしていたし。
「――っち、こんなのがあると知っていたらそれなりに走ったというのに」
競争を放棄した木塚君にはこの問題を解く権利はないらしい。ただしパートナーとしてヒントを出すことは許可されたようだ。でないと先に進めなさそう。
用意されていた席について、問題を見ると。
確かに難易度が上がっている。中等科卒業レベルで、テスト順位が上位の者でないとすんなりとは解けないだろう。
一ノ瀬君は当然。
「花森……なにこれ暗号?」
解けるわけがなく。問われている問題の意味すら理解できずに撃沈している。
これはさっさと自分のを片づけて一ノ瀬君の援護に回るしかない。
「なんだ、一ノ瀬も馬鹿なのか」
「馬鹿って言うな!」
一ノ瀬君が七瀬君と並んで勉強ができないと知ると、木塚君は鼻で笑った。かかる時間は同じとみたのだろう。
ここからは拮抗した争いとなった。
何度か間違えたが、なんとか正解を貰った私はすぐさま一ノ瀬君の援護に回った。驚いた事に漢字は全部当たっている。そして相変わらず字が綺麗だ。
散々なのはやはり数学。掛け算と割り算は諦めたから――――
「せめて足し算と引き算は間違えないで!」
「せめて足し算と引き算は間違えるな!」
叫びが重なった。驚いて隣を見れば、同じように驚いた顔の木塚君の目とぶつかる。ちょっと気まずい。
木塚君は疲れたようにため息を付くと、ずれた眼鏡を押し上げた。
「まさか二人とも初等科レベルの計算が満足にできんとは、おそれいった……。七瀬、一ノ瀬、お前ら五日前に行われた実力テストの順位は何番だったんだ?」
重い空気が流れた。
一ノ瀬君と七瀬君が俯いたまま顔を上げない。
「ちなみに俺は一位だ」
それは凄い! 上位だろうとは思っていたがまさかトップとは。
「花森は? 答えられる順位なんだろうな」
「…………十六位」
一年生は全員で九十四名。つまり三十位以上が上位ということになるので私は結構上ということになる。まあ、春休みをまったく遊ばずに過ごしたので、次のテストだったら順位はもっと落ちるだろう。
「ほう、なかなかの順位じゃないか。……で、お前らはどうなんだ」
威圧感がのしかかる。まるで怖い先生に怒られているような、もしくは父親に悪かったテスト結果を報告する時の恐怖感があった。
七瀬君より勇気があった一ノ瀬君が震えながらも手を上げた。
「……九十四位っす」
「……九十三位です」
一ノ瀬君が言えたからか、七瀬君も続けて言った。
戦慄の順位に私は恐る恐る木塚君を見る。
木塚君は、ふっと笑ったかと思うと勢い良く七瀬君の机をぶっ叩いた。
「貴様ら仲良くビリからワンツーフィニッシュ決めるんじゃない! そこまで馬鹿か、馬鹿なのか!」
二人の将来についてツラツラと説教を初めてしまった木塚君に、私は同意せざるを得なかった。ビリからのワンツーフィニッシュは酷い。
大人しく、先生orお父さんにみっちり叱られるべきだと思った。
『おおーい、お前らー、早くしないと時間切れになるぞー……』
柳生先生の声が虚しく響いた。




